・因脈授与
「因脈会行持日鑑」、『昭和修訂曹洞宗行持軌範』316頁
つまり、道場ではないのである。この辺、授戒会・法脈会では、以下の通りである。
・正授道場
「授戒会行持日鑑」、前掲同著・308頁
・正授道場
「法脈会行持日鑑」、前掲同著・315頁
この通りであり、両作法とも「正授道場」となっているのである。ただし、「因脈授与」となっている先ほどの作法について、実態は以下の通りである。
直僚(因脈係)は、受者を整列させて加行位に就かしめる。戒師は三鼓、大擂上殿。まず説戒、終わって懺悔文を唱えしめる。室侍長(あるいは随行長)、洒水を行う。次いで戒師は三帰、三聚、十重禁戒を授け血脈を授与する(なお、時間に余裕があれば説教師はこれを布演する)。
「第三 因脈会作法」、前掲同著・314頁
よって、「因脈授与」という簡単な名称とはなっているが、実態としては説戒・懺悔・(洒水・)授戒・授脈という流れになるのである。簡略化されているとはいえ、授戒・授脈という観点では必要十分であるといえる。にも関わらず、これを敢えて「道場」と呼称しないことに、興味を持ったわけである。
そこで、これは冒頭のリンク先でも引用したが、江戸時代末期頃の宗門授戒会の作法を伝える文献では、以下の通り「因脈授与」が導入されていた。
△下午歎佛會了テ戒師之説戒有リ衣鉢寮告支廣(度の誤記)次第小鐘一會雷鼓一通テ而戒師上殿本尊三拜上椅子若因縁血脉之願有バ兼衣鉢寮ニ申込血脉等用意次第其日ニ授ル時戒師上椅子授與アル故戒師之上殿前受者ヲ列位セシム衣鉢所管也説戒了テ十大願文了テ戒師下堂次ニ禮三千佛
『直檀寮指南記 戒会用心』、当方所持『伝戒受道場荘厳法』14丁表~裏
上記一節から、「因脈授与」の位置付けが理解出来る。要するに、戒師が出てくるとはいっても、本来は「説戒」のために出て来たのである。そして、説戒の道場に於いて、併せて行われたのが「因脈授与」であることが明らかである。また、「因脈会」の場合には、「因脈授与」に伴った「説戒」が、授戒・授脈前に行われているが、上記の江戸時代末期にはその逆で、説戒のために出て来た戒師が、椅子(説教台)に上った際に授脈をしている。この辺は、現代の「授戒会・法脈会」中に行われる「因脈授与」作法でも同じなので、江戸時代末期に確立されていたものが、そのまま現代にまで受け継がれたということなのだろう。
以前、実世界の論文でもちょっとだけ書いたのだが、因脈会と因脈授与については、どちらが先に成立したかは分からないが、名称まで含めて考えると、先に後者が成立した(ただ、その場で簡単に血脈を授与することは、月舟宗胡禅師・卍山道白禅師の周辺で実施されていた)。その後、簡略化された授戒・授脈ということで、前者が独立した作法として成立したと思われる。特に、近代に入り270回以上戒師を勤められた、石川素童禅師の記録を見ると、明らかに「因脈授与」のみを行った事例が散見される(名称としてはまだ、因脈会とはされていない)。
話を戻すが、そもそもが、「説戒」に因んで行われた作法であるため、結果として「道場」にはならなかったという理解が妥当であると思われる。ただし、そうなると、「正授道場」の道場成立の根拠などが気になるところだが、それはまた別の機会に考えるべきであろう。
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