是に於いてか、如来、即便ち偈を説く、
諸行は無常なり、
是れ生滅の法なり、
生滅は滅し已りて、
寂滅を楽と為す。
爾の時、如来、此の偈を説き已りて、諸もろの比丘に告ぐるに、「汝等、当に知るべし、一切の諸行、皆な悉く無常なり。
我、今、是れ金剛の体なりと雖も、亦復た無常にして遷る所を免れず。生死の中、極めて畏るるべきと為す。
汝等、宜しく応に勤行精進して、速かに此の生死の火坑を離るることを求むべし。此れ則ち是れ我が最後の教なり。
我、般涅槃す、其の時、已に至れり」。
時に、諸もろの比丘、及び余の天人、仏の此の誨を聞きて、悲号涕泣し、躃地に悶絶す。
如来、即便ち普ねく之に告げて言く、「汝等、応に此の悲悩を生ずるべからず、諸行の性相、皆な悉く是の如し」。
是に於いてか、如来、即ち初禅に入り、初禅を出でて、第二禅に入り、二禅を出でて、第三禅に入り、三禅を出でて、第四禅に入り、四禅を出でて、空処に入り、空処を出でて、識処に入り、識処を出でて、無所有処に入り、無所有処を出でて、非想非非想処に入り、非想非非想処を出でて、滅尽定に入る。
法顕訳『大般涅槃経』巻下
いわゆる阿含部に入る『涅槃経』である。ただし、上記内容は、極めて重大である。まず、この経典では釈尊が涅槃に入られる前に、「無常偈」を説いたという。そして、一切の諸行(作られたもの)は、尽くが無常であるため、たとえ、ブッダが「金剛の体」であっても、無常で生から死に遷される、としているのである。
そして、弟子達には、勤行精進して、この生死の火の坑から逃れるべきだと、最期の教えを説き、「私は涅槃に入る。その時が至った」と示された。
しかし、その言葉を聞いて、周りにいた比丘や、天人は悲歎にくれてしまったので、釈尊は改めて、「歎いてはならない。あらゆる作られたものの姿も本質も、無常なのだ」と示し、そして、四段階の禅定を経て、更に高いレベルの禅定も行われて、「滅尽定」に入られたのであった。
このような様子が、釈尊の最期であった。
ところで、色々と「滅尽定」については解釈もあり、上記の通り釈尊の死を示すものだと思われるが、そうとはしない場合もある。
復た問うて曰く、「賢者拘絺羅、若しくは死、及び滅尽定に入る者、何の差別有りや」。
尊者大拘絺羅、答えて曰く、「死は、寿命の滅し訖れり,温暖已に去り、諸根敗壊す。比丘の滅尽定に入る者は、寿の滅し訖らず、暖、亦た去らず、諸根、敗壊せず。死、及び、滅尽定に入る者と、是れを差別と謂う」。
『中阿含経』巻58
これは、釈尊自身の言葉では無く、その弟子の発言ではあるので、おそらくは世尊の入滅後に、「滅尽定」についての定義が議論されたものだと思われるのだが、死と滅尽定の違いを挙げている。その原因を考えると、世尊最期の「滅尽定」が、おそらく出来てしまった弟子がいて、しかも、死ななかったためであろう。そのため、更に「無想定」なども出来るようになった。
ただ、釈尊は先の通りであった。今日は、その釈尊の般涅槃に際し、伝承の1つを確認した。
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