つらつら日暮らし

盂蘭盆会は少ない供養でも大丈夫か?(高田道見先生『盆の由来』参究9)

盂蘭盆会供養の費用は?(高田道見先生『盆の由来』参究8)】の続きである。早速に高田道見先生の『盆の由来』から問答を見ておきたいと思う。

◎問ふ、一搏の飯一掬の水位ひにては、とても十方の衆僧を供養するに堪へざるべし、供養するに堪へざれば、亦随て利益も薄かるべし、窮民無福の者争で七世の父母までも救済し得べきや
○答ふ、長者の万灯より、貧婆の一灯が勝れりとや云ふことあれば、強ちに多勢に供養するにも及ばず、設ひ一僧でも二僧でもよし、真実を以て供養すれば、其力広大なるべし、僧も亦真実を以て受け、真実に咒願回向するが故に、其功徳は弥よ無辺なり、施す所の飯食は少なしと雖も、飽満する所の範囲は限りなかるべし
    『盆の由来』第十七問答・23~24頁


ということで、昨日の続きの記事である。それで、経済的な困窮者が行える供養程度では、百僧・千僧への供養などは難しいので、意味が無いのではないか?という問いである。それに対して、高田先生は、かの有名な「貧者の一灯」の喩えを出された。この説話については、仏教のたとえ話などを多く収録している『賢愚経』巻3「貧女難陀品第二十」を典拠としており、更に同意趣の文章を持つ『阿闍世王授決経』が『法苑珠林』巻35「然灯篇第三十一」に収録されるに及び、広く人口に膾炙した。

要するに、経済的に裕福な者が、気持ちも込めずにただ金に任せた万灯よりも、経済的困窮者が、我が身を削り、心も込めて施した一灯こそ、その功徳無量であると説いたのである。そして、高田先生は、その一事を踏まえつつ、供養・布施をする能所双方が、真実をもって法会に臨むべきだとされたのである。

そして、僧侶が行う「咒願回向」によって、「施す所の飯食は少なしと雖も、飽満する所の範囲は限りなかるべし」と締めくくられたのだが、これで中々満足出来なかった問者は、更に以下のように質問した。

◎問ふ、其理如何
○答ふ、憂ふる勿れ、如来に変食の真言あり、即ち加持飲食陀羅尼と云ふ、此真言を以て加持するときは、設ひ一器の浄食と雖も、一鉢の清水と雖も、変じて百千万倍と成るが故に、無尽法界の餓鬼をして飽満せしむるに足る、施主及び僧たるもの、真実心を凝して加持回向するに於ては、必ず七世乃至無量世の父母兄弟までも、悉く済度することを得べきなり、仏法が冥霊に及ぼすの功徳其れ是の如し、追思孝順の心あるもの、豈喜ばざるべけむや、豈貴ばざるべけむや
    前掲同著・第十八問答・24頁


そこで、何故第十七問答で答えたような、少ない供養が多くの僧侶を供養すると判断することが可能なのか?高田先生の答えは、「加持飲食陀羅尼」であった。これは、現在の曹洞宗であれば『甘露門』で唱えられるものだが、『行持軌範』や経本の原文はただ陀羅尼(呪文)が書いてあるだけなので、分かりにくい。

曩莫薩嚩怛他蘖多嚩嚕吉帝唵三娑羅三婆羅吽(ノウマクサラバタタギャタバロキテイオンサンバラサンバラウン)

参考までに、その陀羅尼は以上の通り。それで、江戸時代に『甘露門』を編集された面山瑞方禅師の教え(不空三蔵訳『施諸餓鬼飲食及水法并手印』からの引用)を見ておきたい。

一切の餓鬼、各おの皆な摩伽陀国の所用の斗で七七斛の食を得。食已りて皆な生天し、或いは浄土に生ずることを得ん。
    『甘露門』「加持飲食印咒」


こういう意味である。この呪文の力に依って、わずかな供養物も、一切の餓鬼に対してマガダ国で用いていたマスで49石を得させると書いてあるのである。それは確かにお腹いっぱいだ。

高田先生はただその経文・陀羅尼の教えに基づいて、基本から示された。拙僧つらつら鑑みるに、人々への教化の言葉を得る第一歩は、日頃用いている経文や陀羅尼、回向文の意味を正しく把握することから始まる。それが出来れば、読経中にしっかりと供養する気持ちも生まれる。その気持ちに諸仏・諸菩薩の慈悲心が感応道交して、初めて供養は成立するのである。そして、その得たところの確信を人々に伝えてあげること、これが教化の基本である。

今日はそんなことを思わせてくれた一節であった。

ところで、上記の記事と合わせて、江戸時代の江戸での盂蘭盆会について見ておきたい。拙僧自身がしばしば引用させていただいている三田村鳶魚編『江戸年中行事』(中公文庫・1981年)に収録されている『武江遊観志略』(安政6年[1859]版)を見ていくと、有名寺院ごとに「盂蘭盆会」の供養を行う日付をずらす様が見て取れる。この辺、現代に通ずるものがある。

とりあえず以下の通りである。

・〔六月〕
 廿九日 浅草寺盂蘭盆会。
・〔七月〕
 朔日 本所羅かん寺施餓鬼、今日より晦日まで。
 四日 本所回向院より千住小柄原の別院におゐて大施餓鬼修行。
 十五日 禅家諸寺院大施餓鬼修行、牛島弘福寺、白銀瑞聖寺、下渋谷長国寺、青山海蔵寺、品川東海寺、同南番場天龍寺、音羽町洞雲寺。
 十七日 本郷六丁目喜福寺施餓鬼。
 廿日 駒込吉祥寺施餓鬼修行。
 廿三日 谷中三崎法住寺施餓鬼、廿九日まで修行。
 廿六日 青山善光寺施餓鬼。
 廿八日 高田亮朝院七面宮施餓鬼。
    『江戸年中行事』211~216頁から抄出


幾つか説明が必要かもしれないので追記しておくと、まず「七月四日」の「本所回向院」云々については、享保年間の『江府年行事』に「小塚原にて刑死の亡魂施餓鬼法事、回向院よりつとむ」(前掲同著・47頁)とあって、要するに当時死刑になった者達へ、特に行われた供養なのである。まさに、罪を憎んで人を憎まずだったことが窺える。

それから、十五日、「禅家諸寺院」と書いてある通り、何故か禅宗寺院での実施が多かったようだ。ただし、これは江戸時代後期の印象で、前期や中期はそうでもない。また、この日「下渋谷長国寺」とあるが、「長谷寺」の誤記だと思うが、そういう表記もあったのか?ただこれは、現在の永平寺東京別院の長谷寺(地名として、今は港区西麻布だが、当時は下渋谷村)である。まぁ、別院になったのは戦後だが・・・

あと、駒込吉祥寺は江戸時代に学林である旃檀林を設けたことで有名だが、何故か「裏盆」だったようだ。現代と同じような感覚なら、学林の学生が15日は他寺院への随喜(手伝い)に行ってしまって、20日にずらしたのか?

色々と知ると、尚更に興味が沸いてくるが、一々を解明してくれる文献には中々出会えない。自分で勉強するしかないか・・・

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