雖無諸法生滅而有戒定慧と云は、
是修証はなきにあらず、染汚することゑじと云義にあたるべし、
生滅とこそ云ねども、戒ぞ定ぞ慧ぞ云へば、是こそ生滅の法と聞ゆれどもしかにはあらず、一戒光明金剛法戒と云程にこそ戒をも心得れ、只戒と云へば制止と許心得、断悪修善とのみは不可心得、
又、戒はふね・いかだ也と云時は生滅法に似たれども、雖無生滅の道理は今の般若と談ずる所、戒定慧等なり、敬礼これなり、
施設可得と云は是もほどこしまうけてうべくば生滅の法に似たり、然而今施設は可得とつかふ、戒定慧にて可心得、
戒定慧已下至度有情類、施設可得なるなり、
『正法眼蔵抄』「摩訶般若波羅蜜」篇、カナをかなにするなど見易く改める
まず、冒頭の一段は、「摩訶般若波羅蜜」巻からの引用である。なお、元々は道元禅師が同巻で引用した玄奘三蔵訳『大般若経』巻291に見えるものである。そして、上記一節は「無諸法生滅」を重点的に解釈している。そして、「修証はなきにあらず、染汚することゑじ」の意味、つまりは不染汚の修証で捉えている。
よって、不染汚の修証として戒定慧を捉えているのだが、これを生滅の法だと思いがちであるが、「一戒光明金剛法(宝)戒」だと考えるべきだという。これは『梵網経』で説かれる菩薩戒の意義である。つまり、これは金剛であるから、無生滅の戒なのである。
そして、戒は制止として捉えたり、断悪修善とのみ心得てはならないという。何故ならば、戒は船やいかだのようだといわれるが、あくまでも「雖無生滅の道理」であり、それを般若であるという。この般若が、戒定慧として展開していくのであり、それを敬礼するという。戒を船筏に喩えるのは、『大乗本生心地観経』巻3だが、その辺の影響も見ていくべきなのだろう。
また、施設可得も、元々は『大般若経』の一節であるが、道元禅師は「この正当敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり、いはゆる戒・定・慧、乃至度有情類等なり。これを無という。無の施設、かくのごとく可得なり」とも示されている。そして、この教えを元に、『抄』では以上のように示された。
つまり、施設可得としての般若現成が、戒定慧に展開するのであるが、把握の仕方には注意が必要である。
雖無諸法生滅とありながら、戒定慧施設可得度有情なむどはいふべからず、然而諸法仏法の時節に迷ふとき、或大海に不宿死屍なむど云詞、をほく仏道の定れるならひとしるべし、
『正法眼蔵聞書』「摩訶般若波羅蜜」篇
要するに、究極の理想としては、「雖無諸法生滅」であるわけだから、戒定慧や施設可得、度有情などに展開するはずが無いというのである。これは、般若の一法究尽であることを示す。だが、一法究尽であるからこそ、仏法の時節に迷ったり、大海に不宿死屍等のように把握される時があるという。
一法究尽の道理を通して、現実の戒定慧のみに行くのか?般若の側に行くのか?その違いが、これらの文脈の違いである。
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