その意味で、以下の一節を学んでみたい。
梁の普通よりのち、なほ西天にゆくものあり、それ、なにのためぞ。至愚のはなはだしきなり。悪業のひくによりて、他国に跉跰するなり。歩歩に謗法の邪路におもむく、歩歩に親父の家郷を逃逝す。なんだち、西天にいたりてなんの所得かある、ただ山水に辛苦するのみなり。西天の東来する宗旨を学せず、仏法の東漸をあきらめざるによりて、いたづらに西天に迷路するなり。
『正法眼蔵』「行持(下)」巻
「西天に迷路するなり」と示されているが、これは「路に迷う」の意味で用いられている。そこで、この一節が意味するところだが、まず、「梁の普通」とは、中国南北朝時代の梁帝国で用いられていた元号「普通(520~527)」のことである。そして、禅宗の伝承では、この頃に菩提達磨尊者が、インドから中国に西来したとされる。よって、道元禅師は達磨尊者が中国に来た後にも、まだインドに行こうとしている者を批判し、「至愚のはなはだしきなり」とされたのである。
それまでの悪しき行いに引かれて、仏法が正しく伝わった国から離れ、他国でうろうろしてしまい、一歩一歩ごとに「謗法の邪路」に赴き、一歩一歩ごとに仏法を伝えた祖師(親父)のふるさとから逃げてしまうのである。そこで、インドに行って何が得られるのか?と問題提起され、それはただ、道筋の山水で苦労するだけだとするのである。
そして、インドから東にやって来た宗旨を学ばず、仏法が東に伝わった意義を明らかにしていないので、無闇にインドへ「迷路」してしまうのである。
ところで大乗経典に「迷路」と修行の関連を論じた場合があるので、見ておきたい。
復た次に、修行の菩薩、復た十種の退道迷路有り、応当に遠離し、毎に自ら心を察すべし。何ものをか十と為すや。いわゆる、
一には、師僧、和尚及び善知識を敬わず、是れは其れ迷路なり。
二には、世苦を怖畏す、是れは其れ迷路なり。
三には、修す所の戒行、忽ちに悔心を生ず、是れは其れ迷路なり。
四には、諸仏の刹土に住むことを楽わず、是れは其れ迷路なり。
五には、三摩鉢低を楽わず、是れは其れ迷路なり。
六には、少分の功徳を修し、便ち以て足ると為す、是れは其れ迷路なり。
七には、大乗を誹謗す、是れは其れ迷路なり。
八には、菩薩の戒行を遠離す、是れは其れ迷路なり。
九には、阿羅漢・辟支仏道を楽う、是れは其れ迷路なり。
十には、若しくは修行の菩薩を見て心に憎嫉を生ず、是れは其れ迷路なり。
仏子よ、是の如き十種の菩薩の迷路、能く遠離して、久しからずして当に解脱の法門に入るべし。
『大乗修行菩薩行門諸経要集』巻上
さて、以上の文献だが、「諸経要集」とタイトルにあるように、様々な経典からの抜出となっているのだが、この部分の典拠は『勝義諦品経』という文献となっている。だが、このタイトルで調べても、他に出てこないので、失われているということなのだろう。それから、上記内容は、説明が要らないほどに簡単なので、とにかくこの10項目は大乗仏教の菩薩にとっての「迷路」だということである。
よほど、注意しなくてはならない。「迷路の日」だからといって、迷うことを勧めているのではないのである。
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