さて、今日は仏教と戦争について考えてみたいのだが、第二次世界大戦期に日本の国威発揚、継戦への協力を訴えた仏教者として名前を挙げるとすれば、雄弁家として知られていた加藤咄堂居士(本名:熊一郎、1870~1949)であろう。例えば、咄堂居士には文字通り『戦争と信仰』(大東出版社・昭和13年)という著作が存在している(国立国会図書館デジタルコレクション)が、その目次を見ていただくと、本当に戦争について肯定的な見解のみが並ぶ。
ただし、いうまでもなく戦争は「人殺し」である。そして、仏教には「不殺生戒」があるわけだが、戦争と不殺生戒の関係について、以下のように指摘されている。
戦争と不殺生戒
こゝに一つ残つて居る問題は、戦争の不殺生戒との関係であります。仏教では、防非止悪とて、為すべからずとして禁ぜられた戒法の中、最も重きを四重禁戒とて、殺生、偸盗、邪婬、妄語を戒めて居りまして、其の中でも一番重いのを殺生として居りますが、既に干戈相交へて戦ふ以上、殺生をせぬわけには行きません、これを仏教では、どう説くのでせうか。
近世戒律の泰斗と云はるゝ葛城の慈雲律師は『十善法語』の中に殺生の罪深きを力説せられました後に、仮りに
「若し世間にありて、国の政を執らんに、其の盗賊徘徊して悪人徒党を結ばん、其の時若し殺せば仏戒を軽んずるに似ん、若し宥せば政道立たず、人民の害とならん、此二途何れに従ふべきや」
との問ひを設けまして、これはよく考へなくてはならぬことであります。経の中に「善心を以て悪人を殺すは悪心を以て蟻子を殺すよりも其の罪軽し」とあり、又「国家に害あるものを殺すは、其の罪なし」とあります。罪のないのみならず其れは功徳となるのであります。瑜伽菩薩地の戒品、正法念経等にあることであります。又、涅槃経に大衆が仏に向つて「何が故に此の如き金剛不壊の身を得たまひしか」と問ひました時に、仏は答へて「我れ過去世に国王たりし時、王法を護持し、道ある軍に立ちし故に此の身を得たり」とあります例を引いて
「姑息の仁、怯弱の心を以て一二人を宥して大乱に及ぶことはせぬことぢや、十善の理は、面白いことじや」
と云はれて居ります。
俗諺にも「小の虫を殺して大の虫を助くる」といふ語があり、仏教には「一殺多生」とて一人を殺して多数を助くる場合の殺生をも認容して居りますのは、丁度人を傷害するは、悪いには決つて居りますが、腫物が出来て、これを切開せねば毒が全身に拡がると見た場合には、之を切ることを善しとするやうなもので、外部より入り来らんとする病毒を防ぎ、内部より発生した腫物を切開することの必要な如く、仁に発して義を主とする戦争を認め、其のための殺生をも却つて慈悲の行為と見て居るのであります。
『戦争と信仰』87~89頁、漢字は現在通用のものに改める
「戦争と不殺生戒」について、明治期後半に日清戦争や日露戦争が始まると、政府寄りの仏教者は「不殺生戒」の解釈の方法について、戦争を肯定するように腐心した。その際、参照されたのが慈雲尊者飲光(1718~1805)の見解であった。元々、明治期の通仏教的な運動で、慈雲尊者は「十善戒」を説いた先達として参照される傾向にあったのだが、その不殺生戒への説示が、余程都合が良かったためか、明治期以降の戦争に於ける殺人の肯定に文脈を参照されることがあった。
もちろん、慈雲尊者のような立場の人にとって、この引用が本意だったかどうか、或いは断章主義的になっていないのかどうかは慎重な判断を要すると思うのだが、事実、上記のように参照された。
そこで、ここで引用されている『十善法語』については明治17年に真言宗転法輪蔵として刊行されており、容易に手に取れる状況であった。そして、咄堂居士が引用した箇所は、全て確認された。まず、「若し世間にありて、国の政を執らんに、其の盗賊徘徊して悪人徒党を結ばん、其の時若し殺せば仏戒を軽んずるに似ん、若し宥せば政道立たず、人民の害とならん、此二途何れに従ふべきや」については、『十善法語』27~28頁にある問いである。
それに対しての応答として、まず「善心を以て悪人を殺すは悪心を以て蟻子を殺すよりも其の罪軽し」とあるのは本書28頁であり、「国家に害あるものを殺すは、其の罪なし」は続いた文章である。また、「瑜伽菩薩地の戒品、正法念経等にある」という指摘も本書28頁に見られる。
それから、「涅槃経に大衆が仏に向つて「何が故に此の如き金剛不壊の身を得たまひしか」と問ひました時に、仏は答へて「我れ過去世に国王たりし時、王法を護持し、道ある軍に立ちし故に此の身を得たり」とあります例を引いて」とあるが、これも本書28頁である。
なお、慈雲尊者の教えとして、「姑息の仁、怯弱の心を以て一二人を宥して大乱に及ぶことはせぬことぢや、十善の理は、面白いことじや」というのは、本書29頁である。よって、ここから、上記内容は、慈雲尊者の見解を引いたものといえる。ところで、そうなると、慈雲尊者は場合によっては殺生を認めていたのか?という話になりそうだが、当方の疑問に答えてくれそうな教えがあった。
十善の道、其理面白きしや。出家戒の中は一向に殺生せぬ。心を寄する処唯道のみしや。
『十善法語』29頁、カナをかなにするなど見易く改める
このように、どうも、出家者には殺生を完全に禁止し、在家者は条件付きでの殺生を認めていた、それはつまり、在家者の場合は殺生も罪にならない場合もあった、ということになる。よって、明治期以降に戦争での殺生を肯定したかった人たちが、牽強付会的に引用したことも無く、この通りだったといえよう。なお、それでも、「一殺多生」という言葉は、流石に慈雲尊者は使っておらず、これは明治時代以降に一部宗派の中で使われ、やはり、戦争と不殺生との関係を論じるに及んで、用いられるようになったらしい。
それで、先の通り戦争での殺生を肯定した咄堂居士だが、戦後まで生きることになった。そして、戦後に出した著作は、戦争などについて全く触れることは無かった。これは、当時、そもそも禁止されていたことも大きいと思うのだが、やはり時代は変わったわけである。どう変わったのかは、以下の著作の目次などをご覧いただきたい。
・『仏教入門』東南書房・昭和23年
・『人生の常識』泰尚社・昭和23年
でも、両方とも戦前の時代について触れるなどし、完全な解消が出来ているとはいえない。まぁ、咄堂居士も最晩年に出た著作だから、致し方ないのかもしれない。とはいえ、4年ほど前まで必死になって国威発揚、継戦の協力をしていたのに、ここに来て全く別の内容を説くことになった自分自身をどう感じていたのだろうか?
その点、『人生の常識』の冒頭、「時代は変る」という内容である。そこに、咄堂居士自身の以下の言葉がある。
第一次世界大戦直後には、正に国際連盟常任理事国として優に世界の一等国と比肩し得るに至つたのであります。然るに其の頃より世界の情勢が変つたと申しませうか、日本が少しく調子に乗り過ぎたと申しませうか、終に満洲事変を契機として国際連盟を脱退し、非常時日本と呼ばれ、国難日本と呼ばれ、国家は益々危局へと突入し、こゝに無謀なる戦争を開始し多くの人命を犠牲にし、多くの物質を蕩尽し、結局、国家をして戦敗の悲境に沈落せしめ、国民をして其の苦難の中に呻吟せしむるに至らしめたので、今でこそ無謀の戦争といひますが、如何に言論の逼迫が苦しく、欺瞞政策が徹底して居つたとはいへ、当時一人の起つて其の無謀を阻止するものなく、其の多くは宣言の堂々たるに魅せられて、正当の宣戦であり、正義の戦争であると信ぜしめられ、其の逐次発表せらるゝ戦況報告により勝算歴々とさへ信ぜしめられたのであります。而かも、其の結果は真に言ふに忍びざるものがあるので、終戦後、其の真相の暴露せらるゝに至りまして誰か其の欺瞞を憤り其の不明を恥ぢない者がありませう。此点に於ては諸君より年長者たる人々……私も亦其の中の一人として……直接間接に其の責を負ひ、諸君の前に懺謝せざるを得ないのであります。
『人生の常識』2~3頁、漢字を現在通用のものに改める
以上の、見方によっては「反省文」となる箇所であるが、咄堂居士自身も被害者、或いはだまされていた1人という立場で文章を書いている印象である。例えば、「如何に言論の逼迫が苦しく、欺瞞政策が徹底して居つたとはいへ、当時一人の起つて其の無謀を阻止するものなく、其の多くは宣言の堂々たるに魅せられて、正当の宣戦であり、正義の戦争であると信ぜしめられ、其の逐次発表せらるゝ戦況報告により勝算歴々とさへ信ぜしめられた」とある通り、咄堂居士も疑っていなかったような言葉を挙げているが、実際どうだったのだろうか?結構、咄堂居士は当時、有名なラジオでの語り部として知られており、政府の中枢にも知己がいた印象である。
だからこそ、かなり積極的な発言を繰り返していたわけだが、その人が急に「知りませんでした」といえる立場だったのだろうか?ついでに、「終戦後、其の真相の暴露せらるゝに至りまして誰か其の欺瞞を憤り其の不明を恥ぢない者がありませう。此点に於ては諸君より年長者たる人々……私も亦其の中の一人として……直接間接に其の責を負ひ、諸君の前に懺謝せざるを得ない」としているが、やはりどこか他人事のような謝罪である。
仏教者であれば、本来、自分が行った過ちについては、しっかりと発露白仏して、謝罪しておかないと、どこでどうなるか分からない怖さがある。他人事で済ませると、むしろ、罪は重くなる印象である。ここで「印象」と言っているのは、それを決めるのも第三者ではないからである。どこまでも、自分がなした行いによる結果としての罪であるから、当方がどうこう言う立場でもない。謝り方はそれぞれだが、謝らないで済ます方法は無いわけである。
それにしても、たまたま当方が興味関心を持っている人物で、戦前・戦中・戦後に発言していたからこそ、今回のような記事を書くことができた。もちろん、他にもいると思うが、それはまた、その専門の人が何か示してくれるであろう。今日は終戦の日。世界の平和を願い、権力などによって命を奪われることになった全ての人に哀悼の意を表したい。
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