宝慶元年七月初二日、方丈に参ず。
『宝慶記』
つまり、道元禅師が初めて如浄禅師に参じたのがこの日だったといえるため(本当は、暦が新旧で違うので、変換が必要)その一節に、「菩薩戒序」の話が出ているので、今日はそれを見ておきたい。
身心悩乱する時は、直に須く菩薩戒の序を黯誦すべし。
問うて云く、菩薩戒とは何ぞや。
和尚示して曰く、今、隆禅の誦する所の戒の序なり。
『宝慶記』第5問答
ここで如浄禅師が仰っているのは、坐禅などの時に身心が悩乱した時に、「菩薩戒序」を読むと良いという話をしているのである。そこで、この場合の「菩薩戒」とは何か?という道元禅師の質問に対し、隆禅和尚が誦する「菩薩戒序」のことだと教示されたのであった。そこで、「菩薩戒序」は以下の通りである。
諸仏子等、合掌して至心に聴きたまえ。
我、今、諸仏の大戒の序を説かんと欲す。衆、集まれり、黙然として聴きたまえ。
自ら罪有りと知らば、まさに懺悔すべし。懺悔すれば即ち安楽なり。懺悔せざれば罪、益深し。罪くんば黙然せよ。黙然する故にまさに知るべし、衆清浄なりと。
諸大徳・優婆塞・優婆夷等、諦らかに聴け。仏滅度の後、像法の中に於いて、応当に波羅提木叉を尊敬すべし。波羅提木叉は、即ち是れ此戒なり。此の戒を持つ時は暗にて明に遇えるが如く、貧の宝を得たるが如く、病の差ゆることを得たるが如く、囚繋の獄を出でたるが如く、遠行の者の帰ることを得たるが如し。まさに知るべし、此は則ち衆等が大師なり。もし仏、世に住するとも此に異なること無けん。
怖心は生じ難く善心は発し難し。故に経に云く「小罪を軽んじて以て殃無しと為すこと勿れ。水の滴りは微なりと雖も漸く大器に盈つ。刹那の造罪、殃、無間に堕す」と。一たび人身を失すれば万劫にも復らず。壯なる色の停らざることは、猶お奔る馬の如し。人命の無常なることは、山水も過ぎたり。今日は存すと雖も、明けには保ち難し。衆等よ、各々一心に勤修精進し、慎んで懈怠・懶墮、睡眠して意を縦にすること勿れ。夜は即ち心を摂めて三宝を存念せよ。以て空しく過ごして徒に疲労を設ければ、後代に深く悔やむ。衆等、各各一心に、謹んで此の戒に依って、如法に修行し応当に学すべし。
「菩薩戒序」
ここで、何故「身心悩乱」の時に「序」を読むことが役立つのか、すぐにご理解いただけると思う。つまり、「人命の無常なることは、山水も過ぎたり。今日は存すと雖も、明けには保ち難し。衆等よ、各々一心に勤修精進し、慎んで懈怠・懶墮、睡眠して意を縦にすること勿れ。夜は即ち心を摂めて三宝を存念せよ」の部分である。観無常を通して、懈怠などを除去するのである。
更に、隆禅和尚については、道元禅師よりも先に入宋し、天童山にいた日本人僧侶だとされる。
嘉定のはじめ、隆禅上座、日本国人なりといへども、かの伝蔵主病しけるに、隆禅よく伝蔵主を看病しけるに、勤労しきりなるによりて、看病の労を謝せんがために、嗣書をとりいだして、礼拝せしめけり。
『正法眼蔵』「嗣書」巻
道元禅師が示された一節から、その人が良く理解出来ると思う。それから、以下の一節もこの人を指すとされる。
是れに依つて一門の同学五根房、故用祥僧正の弟子なり、唐土の禅院にて持斎を固く守りて、戒経を終日誦せしをば、教て捨しめたりしなり。
『正法眼蔵随聞記』巻2
この「五根房」は栄西禅師の弟子だったが、中国の禅宗寺院で持斎しており、「戒経(梵網経)」を終日読誦していたが、道元禅師はそれを悟りに繋がらないとして止めさせたという。ただ、この五根房が隆禅か、というのは或る種の推測を含むが、一応そう捉えられているはずである。
ということで、今日という日に「菩薩戒序」を紹介したが、全体の読み方などはまた別の記事にしておきたい。
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