つらつら日暮らし

「おくりびと」と「ケガレ」と「御袈裟」

或る有名な映画で、おくりびと(納棺師)となり、ご遺体を扱ってきた主人公に対する家族の態度が気になった。或る種のケガレに触れるような態度であった。当方は、それを見ながら、一般的にはこれが普通なのかな・・・?と思った。

例えば、亡き人のご遺体に関わるということであれば、僧侶も同じで、お檀家さんのご遺体に触れる機会がある。だが、当方自身はそれがケガレに関わると思ったことはない。何故だろうか?或いは、寺院関係者も同様で、当方の周りでは、枕経やお通夜に行ってきた僧侶に対し、家族があの映画のような態度を採ったなんて聞いたことがない。

無論、当方の管見・側聞程度で、全ての事実を決める気はないが、この感覚の妙な違いが、どうにも気になっている。

以前、或る場にて参加者が神道の神主さんからお祓いを受ける場面があった。正装というので、僧体をして参列したわけだが、神主さんは対し、「お坊さんには不要ですね・笑」と仰っていた。確かに、そういうお祓いが必要だと思ったことは無いし、これからも無いだろう。

これは一種の信念なのかもしれないけれども、ただ、個人的な妄想というには、余りに自然とそういうケガレが関わらないように思えてしまっているので、多分、もうちょっと別の理由がある。そこで、つらつら鑑みるに、やはり仏戒・仏衣という二種の取り合わせが、守っているのだろう、とか思うわけである。

前者の「仏戒」とは、つまりは仏教徒として頂戴・護持すべき戒を意味し、この戒を受持した功徳は無量であって、それこそ、『梵網経』などでは、衆生が仏戒を受ければ、「諸仏の位に入る」とまで明言されている。そんなことを思うと、我々自身の世俗的な価値観に於けるマイナス要素は、ほとんど無視してしまって良いといえる。

同じことは、御袈裟にもいえる。例えば、仏教徒が着る御袈裟に十の勝れた功徳があることは良く知られたことだと思う。いわゆる「法衣十勝利」が『大乗本生心地観経』巻五「無垢性品」に見える。世尊は智光比丘に告げて、始めに「法衣、体・色・量を本と為し、十勝利を得るなり」とし、以下の要綱を説く。

・一には、能く其の身を覆うて、羞恥を遠離し、慚愧を具足して、善法を修行す。
・二には、寒熱及以び、蚊虫・悪獣・毒虫を遠離して、安穏に修道す。
・三には、沙門出家の相貌を示現し、見る者は歓喜して、邪心を遠離す。
・四には、袈裟は即ち是れ人天の宝幢の相なり、尊重し敬礼すれば、梵天に生ずることを得。
・五には、著袈裟の時は、宝幢の想を生じ、能く衆生の罪を滅し、諸の福徳を生ず。
・六には、本、袈裟を製するには、染めて壊色ならしむ、五欲の想を離れ、貪欲を生ぜず。
・七には、袈裟は是れ仏の浄衣なり、永く煩悩を断じて、良福田と作るが故に。
・八には、身に袈裟を著くれば、罪業消除し、十善業道、念念に増長す。
・九には、袈裟、猶お良田の如し、能善く菩薩の道を増長する故に。
・十には、袈裟、猶お甲胄の如し、煩悩毒箭、害すること能わざるが故に。


この中で、「十には……」をご覧いただくと、御袈裟とは我々にとって、「甲冑」のようなものであり、煩悩・毒箭から害されることはないという。或いは「七には……」では、「仏の浄衣」という言葉もあるけれども、この辺が我々をして、ケガレなどの価値観から無縁でいさせる原点となるのだろうと思う。

そこで、この無縁であるということと、御袈裟の功徳を信じた者が、葬儀に関わるようになるということは、恐らく一義の表裏である。近代、仏教は葬儀に関わらなかったという説が喧伝されたため、何だか葬式仏教そのものも、凄いマイナスのようにいわれているが、転じて僧侶くらいしか、人の死に対して正面から向き合い、そして供養してくれる存在が居なかったことに、批判者は気付いていない。ハッキリ申し上げるが、土葬時代の葬儀とは、死体とともにある儀礼だった。そしてそれは、死体の発する屍臭とも付き合うことを意味した。屍臭は、我々のプラス思考の一切を奪う。そこから、死をケガレと見なす発想なども醸成されていった。

それが本当の意味で無化されたのは、現代に於いて、行き過ぎるほどに行き過ぎた、機械的な火葬法である。機械的な火葬法(これは、死体処理術と言い換えて良い)があって初めて、人は「死」ということからちょっとだけ自由な気分でいられたのである。葬儀自由論、埋葬自由論、戒名自由論、その全てがこれを源泉としている。そして、それが同時に、葬儀を容易いものとの誤解を増やしたのであろう。それがまた、この問題を複雑なものとしているが、原因は簡単である。

そして、そのような世相の移り変わりの中で、我々自身が、どのように供養の意味合いを探っていくべきなのか?安易な結論は出さない方が良いし、ケガレなどの考え方も功罪両方有るから、それを喧伝するつもりもない。だが、かつての状況について、現代の状況のみを特権的に了承し、それでもって過去を非難する方法だけは止めた方が良い。当方はそれを思う。

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