優波離、復た仏に白して言く、「若しくは白衣、五戒を受けざるに、直に十戒を受く、得戒と為るや不や」。
答えて曰く、「一時に二種戒を得、優婆塞戒を得て、沙弥戒を得る。若しくは、五戒、十戒を受けざるに、直に具戒を受くれば、一時に三種戒を得ん」。
『大方便仏報恩経』巻6「優波離品第八」
この経典の成立については、色々と議論があるようで、専門的な研究も複数存在しているようである。今そこに触れている余裕は無いので、まずは上記の内容を読み解いておきたい。
優波離というのは、釈尊の直弟子で、後に十大弟子と呼ばれた方々の間でも、「持律第一」と呼ばれたウパーリ尊者のことである。釈尊入滅後の仏典結集の際には、律蔵の編集を担当したという。そこで、ウパーリ尊者が釈尊に対して、「白衣(在家信者のこと)」が、在家者向けの五戒を受けずに、直接に出家者となる沙弥十戒を受けても、それを得戒といえるのかどうかを尋ねている。
それに対して世尊は、沙弥十戒を受ければ、一時に「二種戒」を得るとし、在家五戒も沙弥十戒もともに得たことになるという。これについては、確かに「沙弥十戒」の前半五戒は、在家五戒と同じであるため、特に疑問を差し挟むことは無い。問題はその後の一言で、在家五戒・沙弥十戒を受けずに、直接に具戒(具足戒、いわゆる比丘戒のこと)を受ければ、その時には「三種戒」を得るという。
よって、ここでいう「三種戒」というのは、在家五戒・沙弥十戒・比丘戒(『四分律』なら二五〇戒)を意味していることになるだろう。厳密にいうと、五戒・十戒の戒体系について、比丘戒の戒体系では直接に包摂しているとはいえないと思うのだが、もちろん、比丘戒を受けている者は、当然に五戒・十戒も実践されるので、結果としては包摂しているということになるだろうか。
そこで、先の一節は以下のように続いている。
憂波離、復た仏に白して言く、「若しくは具戒を受くれば、一時に三種戒を得るならば、何ぞ須らく次第に先ず五戒を受け、次に十戒を受け、後に具戒を受くるや」。
答えて曰く、「一時に三種戒を得ると雖も、仏法に染習するには必ず須く次第して、先ず五戒を受け、以て自ら調伏し、信楽漸増すべし。
次に十戒を受く。既に十戒を受くれば、善根、転た深し。
次に具戒を受く。
是の如く次第に仏法の味を得れば、深楽堅固にして、退敗すべきこと難し。大海に遊ぶが如く、漸漸に深に入り、仏法の海に入ること、亦復た是の如し。
若し一時に具戒を受くる者、即ち次第を失し、又た威儀を破す。
復た次に、或いは衆生有りて応に五戒を受けて、道果を得るべし。或いは衆生有りて十戒を受けるに因りて、道果を得る。以是の種種の因縁を以て、是の故に如来、此の次第を説く。
若しくは先ず五戒を受けて、次に十戒を受ける。十戒を受くるの時、亦た二戒を成就す、五戒・十戒なり。
十戒を受け已りて、次に具戒を受く。具戒を受くる時、三種戒を成ず。五戒・十戒・具戒なり。
七種受の中、唯だ白四羯磨のみ、戒、次第に三時に得る。余の六種の受戒、但だ一時に得るのみ、三時に次第すること無きなり。
若しくは一時に三種戒を得て、若しくは捨てんと欲する時、若しくは言く、「我れは是れ沙弥なり、比丘に非ず」と。即ち具戒を失するに、二種の戒在り、五戒・十戒なり。
若しくは言く、「我れは是れ優婆塞なり、沙弥に非ず」と。即ち十戒を失し、余の五戒在り。
若しくは言く、「在家・出家一切の尽くを捨つ、我れは是れ帰依の優婆塞なり」と。三種、一時に尽く失するも、三帰は失せず。
若しくは次第に三種戒を得て、次第に捨法す、一時得戒中説の如し」。
同上
上記の内容は何を述べているかというと、ウパーリ尊者の問いとは、具足戒を受ければ三種戒を得るとすれば、何故、次第に五戒・十戒・具足戒という流れで受けることが存在するのか?というものであった。それに対して世尊は、「仏法への染習」を挙げて、次第に受けることのメリットを説いている。一方で、いきなり具足戒を受けて比丘になったとしても、「威儀を破す」としているので、比丘として必要な振る舞いや姿が具わっていないことになるだろう。
この辺は、現実的な様子から得られた考えかもしれない。まずは信者として活動し、沙弥として見習い僧侶となり、その上で見習いの間に経験を積んだ比丘から生活法を習えば、自分が比丘になったときにも問題は少なくて済むだろう。
また、上記の内容で能く分からないのは、「七種受」である。これはどうも、具戒を得る方法を指しているようだが、「白四羯磨」の時のみは、次第に三種の戒を得るけれども、他の六種は一時に三種戒を得るという。この辺は、白四羯磨という授戒作法の複雑さを際立たせたものだろうか。
また、最後には「捨戒」について論じている。その場合も、三種戒を次第に捨戒する方法と、一度に全てを捨戒する方法とがあるという。この辺もまた、三種戒の一々についての関係性について論じたものであろう。そして、興味深い見解として、三種戒の他に「三帰依」を位置付けており、戒を全て捨てても、三帰は残るという。それはつまり、仏教徒としての基本がどこにあるかを示したものであるといえる。
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