つらつら日暮らし

7月5日 栄西禅師忌

今日7月5日は、旧暦であれば日本に禅宗(具体的には臨済宗黄龍派)を伝えた明庵栄西禅師(1141~1215)の忌日の日付であるという。なお、栄西禅師は時代的には重なるのだが、『鎌倉殿の13人』にも出てくるのかな?

さておき、その御遷化の御様子についての具体的な記載は、以下のように見ておきたい。

 (建保3年[1215])夏に微疾を示す。
 六月晦の布薩の次で、衆に告げて曰わく、孟秋の単五、吾の終なり。都下、喧伝して宸扆に至る。期に到り、上、中使を遣わして問候す。
 西、宮使に対して曰わく、已に近し。
 而も姿儀、壮健なり。諸弟子、傍聴して僭かに怕づ。晡時、椅に坐りて安祥にして逝す。
 中使、未だ宮に還らざるに、路人の譁称を塗聞し、瑞虹の寺上なるを見る。
 実に七月五日なり。年七十五、臘六十三なり。
    『元亨釈書』巻2「伝智一之二・建仁寺栄西」項


以上の通りだが、栄西禅師は京都でご遷化された様子が分かる。また、事実かどうかは分からないが、ご遷化された建保3年6月末の布薩の時に、自分が7月5日に亡くなることを大衆に告げたという。その話が、都で話題となり、天皇にまで届いたので、当時の順徳天皇は遣いを発したという。

その派遣された使いは、わずかに栄西禅師と会話を行ったようだが、その段階では、まだまだ亡くなる様子ではなかったようである。しかし、使いが宮中に帰る途中で、寺の上に虹がかかるなどし、亡くなったことを知った。その日は、予言の通り7月5日であった。年齢は75歳で、出家してからの年数は63年であった。

まずは、以上である。それで、この記載に関連して、他の文献の記載も見ておきたい。例えば、以下の一節などはどうだろうか。

 さて彼の僧正、鎌倉の大臣殿に暇申て、京に上りて、臨終仕らんと申給ければ、御年たけて、御上洛わづらはしく侍り。いづくにても御臨終あれかしと仰せられけれ共、遁世ひじりを、世間にいやしく思あひて候、ときに往生して、京童部に見せ候はんとて上洛して、年号は覚悟し侍らず、
 六月晦日説戒に、最後の説戒の由有けり。
 七月四日、明日終るべきよし披露し、説法目出くし給けり。人々最後の遺戒と、哀れに思へり。
 次日、勅使たちたりけるに、今日入滅すべきよし申さる。門徒の僧共は、よしなき披露かなと、あやぶみ思ける程に、其日の日中、倚座に坐して、安然として化し給ひけり。
 勅使道にて紫雲の立を見けり、委細事これあれども略して記す、有がたく目出かりけり。
    「三 建仁寺の本願僧正の事」、無住道曉禅師『沙石集』巻十末(江戸期版本、当方蔵)、カナをかなにし、適宜句読点や段落を付すなど見易く改める


ということで、手元にある『沙石集』の江戸期版本を元に引用してみた。こちらでも、京都で臨終された様子が伝わっている。更には、やはり勅使が遣わされた様子や、臨終に際して不思議な出来事が起こった様子は、『元亨釈書』と共通しているように感じられる。

ところで、そうなると成立年が問われるが、『元亨釈書』は1322年(元亨2)編著となっており、一方で『沙石集』は1283年(弘安6)成立とはなっているが、手は加えられた可能性などが指摘されている。とはいえ、上記の箇所がそうかは分からないので、とりあえず拝受しておきたい。

ということで、あれ?そうか、『沙石集』の方が成立は早いのか。例えば、他にも栄西禅師の死について描く文献として、『吾妻鑑』などもあるが、これも1300年頃という話もあるようなので、『沙石集』の方が早そう。或いは、京都の貴族たちの日記類に、栄西禅師ご遷化に因む記事なども出ているのかもしれないが、当方の能力では容易に調べられないので、とりあえず以上まで。

それにしても、上記に上げた両方ともで、栄西禅師のご遷化については、直前の6月30日にご自身による予言があったこと、そして、その通りにご遷化したことが、とても印象的に書かれていることが確認出来た。

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