つらつら日暮らし

今日は南無の日(令和5年度版)

ただの語呂合わせである。7月6日を「な」「む」として、「南無の日」だと思っている拙僧。どうも、ネットを調べてみると同じようなことを言っている人がいるようだが、拙僧は拙僧で勝手にこの日を大事にしたいと思っている。

そこで、今日は以下の一節を紹介しておきたい。

いま提婆達多、かさねて三逆をつくれり、一逆つくれる罪人の苦には、三陪すべし。しかあれども、すでに臨命終のときは、南無の言をとなへて、悪心、すこしきまぬかる。うらむらくは、具足して南無仏と称せざること。阿鼻にしては、はるかに釈迦牟尼仏、帰命したてまつる、続善ちかきにあり。
    『正法眼蔵』「三時業」巻


提婆達多というのは、釈尊の親族であり、一度は仏教で出家したものの、釈尊に反発して僧団を分け(破僧罪)、更に比丘尼を殺害し、釈尊を傷つけた(仏身血)という3つの大罪を犯した。よって、「三逆をつくれり」と道元禅師は表現されている。五逆罪は、一逆でも犯せば、それだけで地獄に堕ちるとされるほどの罪なのだが、提婆達多はそれを3つも犯した。

しかし、それでも臨終の時に「南無」と唱えて、悪心が少し改善したという。道元禅師は、「南無仏」という風に唱えることが出来なかったことを恨むとはされているが、確かに「南無」だけだと、一体誰に帰依をするのか分からないわけで、残念ではある。

「南無」というのは、「帰依をする」という意味である。帰依とは、全身心をもって、対象に帰投することであり、まっすぐに信じ疑わぬことをいう。我々は普段から、三帰依をしている。いわゆる南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧である。道元禅師は、この三宝帰依には様々な功徳があるとし、励んで唱えるべきだという。

つぎには、ふかく仏法僧三宝を、うやまひたてまつるべし。生をかへ、身をかへても、三宝を供養し、うやまひたてまつらんことを、ねかふべし。
    『正法眼蔵』「道心」巻


この時にも、三宝への帰依、供養の方法とは第一に、南無三宝を唱えることである。道元禅師には、確かに「南無釈迦牟尼仏」と、一仏帰依の行法も無いとはいわないが、真実に説いておられたのは、三宝帰依であった。

いまの衆生、いたづらに各各の一仏の名号を称念せんよりは、すみやかに三帰をうけたてまつるべし、愚闇にして、大功徳をむなしくすることなかれ。
    『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻


このように、無駄に一仏の名前を唱えるよりも、三帰を受けるべきだといい、そうしなければ大功徳を空しくするという。転ずれば、三宝帰依には大功徳があるわけで、我々はそれを第一に想うべきである。

功徳というのは、仏道を学べることである。現世利益的な願いもあるとは思うが、それは所詮、空しい功徳である。この人生を超え出て次にまで持って行ける現世利益は無い。むしろ、仏道修行を行えること、それが第一なのである。

今日は南無の日である。改めて三宝に帰依をして、仏道修行への志を新たにしておきたい。南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、合掌。

仏教 - ブログ村ハッシュタグ
#仏教
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事