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篤胤が語る『大唐西域記』(拝啓 平田篤胤先生30)

今回の記事だが、実は篤胤が玄奘三蔵著『大唐西域記』を扱っていることが分かったので、それを見ておきたい。まずは、篤胤による同書の解題である。

さて拠と致して申すものは、大唐西域記と云ふもので此書は漢土で唐の代といつた時分に、その二代目の太宗といふ王の貞観二年といふ年、皇国の舒明天皇元年の八月に、玄奘法師と云ふ僧がありて、仏法でもいはゆる大乗と云ふ高い所が伝へたしといつて、漢土より何千里の難所をこへて、天竺の国へ至つて国中悉くあるきて捜しごとをして見たり聞たりしたる国風総体の事を具に記し来て、さて同十九年正月に本国へかへりて、取て帰つた処の仏法はもとより今の国風総体を記し来りたる書をも其王太宗へ奉つたが、夫がこの大唐西域記でござる。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』8頁


一般的に、『大唐西域記』の成立については玄奘三蔵(602~644)が、629~645年にかけて、陸路でインド・ナーランダー寺院に留学した道中の様子について、見聞した事象を口述し、弟子の弁機が筆録したという。ただ、現在一般的に『大正新修大蔵経』巻51で読むことが出来る同本では、「三蔵法師玄奘奉 詔訳 大總持寺沙門弁機撰」と署名されている。江戸時代に刊行された仏教書には、関連した書籍の宣伝広告が入っているが、『西域記』は「玄弉訳・辨機撰」(皇都書林文昌堂蔵版目録)と書いてあった。また、その撰述時期は『開元釈教録』を見ていくと、「貞観二十年(646)」とされている。

それから、上記一節だと篤胤は玄奘三蔵が中国を旅立ったのを「貞観二年」としているが、「三年」の間違いでは?と思ったが、版本でも「貞観二年」と書いてあるようなので、それが篤胤の認識だったのだろう。なお、篤胤は『西域記』を元に、仏教への悪評を行っている。

又玄奘法師が西域記によりて考るに、此法師が彼国へ渡つたる時分は、仏法は婆羅門の道よりも大きに衰へた様子に見ゆる。それは彼西域記に大祠といふて梵天を祭たる祠が国々にいくらとなく有やうすだが、仏閣は夫よりも少いやうすなるを考へるがよろしひでござる。
    前掲同著、62頁


これだが、おそらくは意図的な篤胤の「読み替え」であり、事実では無い。なるほど、仏閣の定義の問題もあるが、玄奘三蔵が『大唐西域記』で多く記録してきたのは、仏閣では無くて「窣堵波(一般的な表現は「卒塔婆」)」であった。そして、全12巻で450箇所以上に同語が見られる。つまり、『西域記』は全書にわたって、インドに於いて現世利益的に釈尊信仰が一般化した様子が見られるのであり、むしろ「梵天」についての記述が4箇所しか無いことを思うと、我々が今見ることが出来る『西域記』と、篤胤が見ていた本と、内容が違うのかな?とすら疑いたくなる。

また、篤胤は「大祠」が多くあると書いているが、残念ながら該当箇所は「0」である。ただし、「天祠」ならば、かなり多いけれども、それでも「卒塔婆」の1/4の約100箇所に留まる。とはいえ、この語句の数だけで決まらないのは、「伽藍十所、天祠数百なり」(『西域記』巻4)などともあって、なるほど、こういった詳細まで見ていくと篤胤の主張にも一理あるのかもしれないな、などと思うようになった。

【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し

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