つらつら日暮らし

道元禅師が語った永平寺の環境論

環境の日(環境省)

6月5日は環境の日とされる。これは、1972年6月5日からストックホルムで開催された「国連人間環境会議」を記念して定められたとし、国連でも6月5日を「世界環境デー」と定めたという。

ということで、今日は「仏教に於ける環境論」を扱ってみたい。

特に、道元禅師が大仏寺(後の永平寺)に入った際に、或る感想を、大檀越・波多野義重公に述べという一節が残されているため、見ていきたい。

 説法の後、師、雲州に謂く、「這の一片の地、主山北に高く、案山南に横たう、東岳白山の神廟に連なる、西流滄海龍宮に曳き、峰巒重疊、人烟遠く隔たる。
 予、在宋の時、天童、坐禅の法要を三十余箇條を示し玉う。其の第一に、『大海の流れを見る事(莫れ)、青山渓水を見るべし』。此の地、此の記に応ず。林泉の風景、望む所、亦た、珍味必ず良器に盛るに足り、又、香稲も必ず満足すべし。是れ勝形の地に在らずや、尤興法の道場なり。鎮西関東より、四維南北勝地を択ぶ、今、此に至って自ら休す」。
    明州本『建撕記』、原漢文


つまり、道元禅師は永平寺の環境が、自ら思う理想的な道場建立の場に相応しいと述べていることになる。ところで、それはつまり、自然豊かな山に囲まれ、人の生活圏から遠く隔たっていることがとても良いとしているのである。さて、道元禅師はこのようなありようが、本師・天童如浄禅師の教えに契っているという。それが、「大海の流れ、云々」の箇所である。では、この教えはどこに見えるものなのであろうか。

往いて、大魚及び大海・悪画・傀僂等を見ること莫れ。尋常に応に青山谿水を観るべし。
    『宝慶記』第5問答


ここである。確かに、この部分は道元禅師が如浄禅師から、「第一に初心の弁道功夫の時」として教わった事柄の1つである。そこで、何故か、如浄禅師は、「大海」なども見てはならないものに挙げている。いや、「悪画」「傀僂」等ならダメだというのは理解出来る。でも、「大魚」なんて見ることが難しいだろうが、何故これを挙げているのだろうか。この辺は良く分からない。

さておき、道元禅師はこのような如浄禅師の教えを用いつつ、永平寺の環境を讃えた。「興法の道場」ともしている。通常の考えであれば、「興法」という時、信者の数が●●千人になったとか、全国各地に支部の建物が出来たとか、そういう観点でのみ考えていることだろう。そして、それは仏道の成就とは関係が薄い。道元禅師に於ける「興法」とは、仏法を興隆することである。では、この「興隆」とは、今この場に、仏法を明らかにしていくことである。

その仏法を明らかにしていくというのは、正しき儀則に従い、正しき修行を行っていくことである。正しき修行が行われていれば、そこに正しく仏の悟りが現れる。これこそが、「興法」である。

仏道に順ぜん者は、興法利生のために、身命を捨て諸事を行じ去なり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2


道元禅師は、若かりし頃、このように示された。身命を捨て、諸事を行じていくことが、「仏道に順じる」ことである。だが、身命を捨てるという時、我々は自分のプライドであるとか、そういう勝手な価値観に於いてこれを行う場合がある。しかし、道元禅師が求めるのは、仏堂に向かって身命を捨てることである。ただ捨てれば良い、というのではない。その方向は正しく見極めていくべきだ。

そして、永平寺とは、そのような興法が実現できる場所だとしているのだ。静寂なる環境が、それを促すのであろう。なお、後に瑩山禅師は、永光寺こそが仏法の興隆の環境だともされているが、それはまた、別の機会に考えてみよう。

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