一方で、道元禅師より数えて4代目の祖師となる太祖・瑩山紹瑾禅師(1264~1325)の時代には、叢林での修行の軌範となる清規の整備も進み、「達磨忌」が法要として行われたことが記録されている。
十月五日、達磨忌。公界は力に随って供を弁ず。伝供、焼香、礼拜し、主人跪炉す。維那、宣疏して云く・・・
『瑩山清規』「年中行事」
達磨忌の執行に先立ち、修行僧達は力の及ぶ限りで供物を揃え、そして主人(導師)を中心に伝供して、焼香礼拝するなどして、お供えする。更に、導師は柄炉を持って長跪し、維那と呼ばれる配役の僧侶が、祖師を讃え、法要の意義を表明する「疏」を唱える(いわゆる「宣疏跪炉」)。その疏を見ると、以上の様子が具体的に知られる。
今月初五日、恭しく芸祖達磨大師示寂の辰に遇う。香・花・灯明を弁備し、以て慇懃の供養を伸ぶ。在りしが如く礼拜し、大仏頂首楞厳神咒を諷誦す。
同上
あくまでも、導入の一部分に過ぎないが、以上のことからも、今と同じように『楞厳咒』を唱えていた様子が分かる。さらに、この場所は、『瑩山清規』の「永平忌」が祖師堂で行われているため、おそらく達磨大師の場合にも、同じように祖師堂を使っていたと思われる。今だと、本堂(法堂)で法要を行ってしまいがちだが、当時は僧堂や仏殿が中心であり、その意味では、だいぶその様子も違っていたのだろう。
先ほど、道元禅師の頃には「達磨忌」を行っていなかったと申し上げたが、あくまでも「記録を見る限り」であって、実際にどうだったかは分からない。また、道元禅師ご自身は、中国禅宗の初祖である達磨大師に対して、ただならぬほどの信仰心を抱いていたことは事実であり、例えば、『普勧坐禅儀』では「坐禅の系譜」として、ピンポイント的に釈尊と達磨大師を「仏祖」として強調している。他にも、『正法眼蔵』「行持」「葛藤」などの諸巻で採り上げて尊崇の念を明らかにしておられる。
また、今日は、道元禅師が達磨大師に対して詠まれた「偈頌」をご紹介したいと思う。
初祖九年面壁
少林一坐僅ど年を経、目を挙ぐるに親無し鴈天に唳く、
撥草瞻風人笑うこと莫れ、蛇驚き出でて斉肩すべきこと有り。
『玄和尚頌古』第4則
これは、『永平広録』巻9に収録された道元禅師の頌古である。「頌古」とは、様々な古則公案を本則として、それに対し後代の祖師が自らの禅境によって、古則を讃えるために付される漢詩を意味する。道元禅師は90則分残されたが、以上に見た「初祖九年面壁」は、第4則である。いわゆる、達磨大師による少林寺での面壁九年を示された本則となる
拙僧の拙い読解に依れば、これはまさに、達磨大師自身が当時の中国の権力者であった梁の武帝ですらも相手にせず、孤独に坐禅し続けている様子を明らかにしたものといえる。もっとも、このような「孤独」について、我々はどうしても「孤高」などと言って、無用に高めようとする。しかしながら、この「孤独」とは、禅僧にとっては当然でから、「孤高」などとしてしまうのは、或る種の「英雄礼讃」にも繋がる印象である。そして、そのような礼讃は、禅を学ぶのに害悪にもなる。孤独は端的に孤独なのであって、自らがその系譜に繋がるか否かだけが問われている。そして、その系譜に連なるのは難しいことではない。只管打坐すれば良いのである。
達磨
第二十八祖達磨尊者、南天竺国香至大王第三子なり。般若多羅尊者を礼して伝法の師と為す。断臂の痴漢を接して子と認ず。少林寺に在って九白端坐す。時の人喚んで壁観大士と作す。事、畢えて西天に廻る。甚と為てか早朝に白衣舎に喫飯する。
『玄和尚真賛』
更に、達磨大師を詠まれた偈頌を紹介するが、『永平広録』巻10に収められている道元禅師による「真賛」である。「真賛」とは「真」を讃えるための偈頌であり、「真」とは、今でも「写真」という言葉があるが、忠実に描かれた人物像(この場合は祖師像)である。どういう経緯で詠まれたかは記録上不明瞭だが、道元禅師の御手元に達磨大師の祖師像が寄せられたのだろう。そして、偈頌を詠み、讃えられたのである。
道元禅師が、「真賛」として残されたのは、「釈迦出山相2首」「達磨」「阿難」「仏樹和尚(明全和尚)」のみであり、当然に「賛」を載せるための「真」がなければ詠まないため、数は少なくなるはずだが、達磨大師が入っている事実から、我々は更に道元禅師の想いを見ていくべきである。上記真賛の内容は、達磨大師の行実を讃えたものである。ただし、読み取り方は難しく、「事畢りて西天に廻る」とは、中国で遷化され、更に熊耳山に埋葬されたという説を信じる道元禅師の教え(『正法眼蔵』「葛藤」巻)と反する印象を得るが、この辺は更なる参究を要する。
以上、極めて簡潔にではあるが、曹洞宗の両祖大師が、達磨大師を如何に尊崇しておられたかを明らかにした。当然、後代の児孫である我々も、達磨大師を禅宗の初祖として讃えなければならないが、その最たる方法は只管打坐以外にはあり得ないと覚悟し、面壁をもって御供養したい。南無仏陀耶、南無祖師菩薩、合掌。
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