此れ釈子、孝を申して報恩し、救苦の要たるは、目連の救母を以て始と為すなり。梵語の盂蘭、此に云わく倒懸を救うなり。盆、則ち此れ方器なり。此の経目、華梵を双つ挙ぐるなり。若し梵語の声に従えば、其の盂の字、須らく皿に従わざれば、必ず執笔者の誤にして爾り。若しくは于闐等、知るべきなり。
『釈氏要覧』巻下「盂蘭盆」項
いわゆる『盂蘭盆経』に因んだ内容である。何故ならば、孝のために報恩し、衆生の苦悩を救うことが、目連尊者が、その母を救うことをその初めとすると書いてあるためである。それから、続いて「盂蘭盆」という用語の説明がされているが、ここでは、「盂蘭」と「盆」とで分けていて、前者を「倒懸」とし、後者を「方器」としており、意味的に「盆」であるから、「盂蘭盆」とは「梵漢双挙」だとされたのである。
なお、末尾は「盂蘭盆」の「盂」字について言及されているが、ここに「皿」が無い場合は、間違いだという。この辺は、上記の通り承けておきたい。
○義浄云く、盂蘭とは、西域の語なり、此に倒懸を救うと云う。即ち飢虚危の苦なり。之に謂わく倒懸なり。盆、乃ち東夏の音なり、此れ則ち救苦の器なり、所以に大衆の恩光を仰ぎ、倒懸を救うの窘急なり。此に義に従って以て名を制するなり。
同上
そこで、この一節だが、典拠があって、圭峰宗密『盂蘭盆経疏』巻下ではある。ただし、上記一節を、「義浄云く」としているが、そこは微妙かもしれない。典拠を見てみよう。
義浄三蔵云わく、自ら我が口を頒ちて、之れを彼の心に暢ぶ、教を以て機に合するが故に仏説と称す。盂蘭、是れ西域の語、此に云く倒懸なり。盆、乃ち東夏の音、仍ち救器と為す。若しくは方俗に随い、応に救倒懸盆と曰うべし。
『盂蘭盆経疏』
この内、どこまでが義浄三蔵の言葉なのか?が問われるが、少なくとも、宗密の文献を遡るのはかなり難しく、典拠不明としておきたい。あ、「自ら我が口を~故に仏説と称す」だけなら、『阿弥陀経義述』にほぼ同じ一節があるので、そこからの引用だと思うが、著者が・・・あれ?義浄ではなくて慧浄とのこと。
ということで、この辺の解明には、宗密の著述資料などを検討しなければならず、一朝一夕では分からないので、この記事ではここまで。明日以降も、『釈氏要覧』「盂蘭盆」項の続きを学んでみたい。
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