つらつら日暮らし

『勝鬘経』「一乗章第五」の「六処」について

ちょっと以下の一節を見てみた。

 世尊の六処を説くが如し。何等をか六と為すや。
 謂わく、正法住、正法滅、波羅提木叉、比尼、出家、受具足となる。
 大乗の為の故に、此の六処を説く。何を以ての故に、
 正法住とは、大乗の為の故に説く、大乗住すれば、即ち正法住なり。
 正法滅とは、大乗の為の故に説く、大乗滅すれば、即ち正法滅なり。
 波羅提木叉、比尼、此の二法は、義は一にして名は異なれり。比尼とは即ち大乗の学なり。何を以ての故に、仏に依りて出家して具足を受くるを以てなり。是の故に、大乗の威儀戒、是れ比尼なり、是れ出家なり、是れ受具足なりと説く。是の故に、阿羅漢、出家と受具足と無し。何を以ての故に、阿羅漢は、如来に依りて出家して具足を受けるが故に。阿羅漢は仏に帰依す。阿羅漢は恐怖すること有り。何を以ての故に、阿羅漢は一切に於いて行無く、怖畏の想住すること、人の剣を執りて来たりて己を害せんと欲するが如し、是の故に、阿羅漢には究竟の楽無し。何を以ての故に、世尊、依にして不求依なり。衆生、依無ければ、彼彼に恐怖す、恐怖を以ての故に則ち帰依を求むるが如し。阿羅漢の如きは怖畏有り、怖畏を以ての故に如来に依る。
    『勝鬘経』「一乗章第五」


まず、「世尊の六処」とあるが、普通は十二縁起の中にある「六処(眼・耳・鼻・舌・身・意処)」を思うところだが、ここではそれではない。ただ、大乗としての「生尽智・無生智」を発するために6つの為すべきことという意味で「六処」となっている。それで、気になるのは、後半の4つのことで、「波羅提木叉、比尼(毘尼)、出家、受具足」とあって、これが仏教の戒律に因んでいることは明らかである。

それで、波羅提木叉とは、一般的に戒のことを指すが、ここでは「毘尼」と同じものだとしている。そして、「毘尼」については、「大乗の学」だとしている。ただし、その理由が良く分からない。上記では、仏に依って出家して、具足戒を受けるからこそ、大乗の威儀戒は毘尼だとし、出家であり、受具足だとしている。

一方で、阿羅漢については、声聞を指しているのだろうが、そちらには「出家・受具足」が無いというが、理由は「如来」によって出家し、具足を受け、仏とは帰依の対象だからこそだという。ハテ?仏と如来は異なる存在だということか?いや、そんなことはないと思うのだが、仏は仏でも、辟支仏の可能性とかもあるし、実際にその存在について本章では触れているけれども、違うだろう。

そう考えると、おそらく、「大乗の学」と指していることが大事で、結局この「大乗」としての行いであるかどうかが問われているのだろう。つまり、ここの「仏」とは、「大乗の仏」であって、それに依るからこそ、大乗の威儀戒という概念もあるし、そこから出家・受具足へも展開する。

一方で、阿羅漢は、ここでは大乗とは捉えられていないので、結果として、大乗としての出家も受具足も無いということになるのではないかと思う。というか、そう考えるしか無いと思う。そこで、『勝鬘経』には聖徳太子『勝鬘経義疏』もある(まぁ、真撰かどうかは、色々とあれだけど)ので、それも見ておきたいが、実際に見てみたところ、註釈の文章が長いようなので、それはそれで別の記事にしておきたい。

以前から、章立てなどで『勝鬘経』って不思議な経典だと思っていたのだが、本文もだったか、と感じた。

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