つらつら日暮らし

『禅苑清規』「沙弥受戒文」に見える「戒師・二闍黎」について

以下の一節を見ていただきたい。

戒師・二闍黎、聖像前に於いて大展三拝し訖んぬ。戒師、作梵闍黎、座に就いて、乃ち法事に入る。
    『禅苑清規』巻9「沙弥受戒文」


この記事で問題にしたいのは、戒師・二闍黎とあることである。なお、この文章は「沙弥受戒文」であるから、在家信者から沙弥にするための受戒法を示したものである。もし、これが比丘になる具足戒の受戒であれば、二闍黎とは、羯磨阿闍梨と敎授阿闍梨になるところだが、それが異なっているわけである。

そして、既に上記一節で、「作梵闍黎」と出ているように、儀式中に梵唄を唱える役目の僧である。よって、これが闍黎の一である。それではもう一つは何かと言えば、以下の一節が見られる。

引請闍梨〈戒師の前に於いて坐具を大展し三拝、胡跪合掌す〉。
    同上


「沙弥受戒文」を全部調べると、二闍黎とは作梵闍黎と引請闍黎であることが分かった。ところで、上記の影響なのだろうが、この後の禅宗系統の「沙弥受戒作法」には、戒師・二闍黎の組み合わせが一般的となった。

ところで、ここの引請闍黎と作梵闍黎との役目を確認しておきたい。

引請闍黎については、「引請闍梨〈坐具を収めて起ち、行者を引いて入堂す〉」とある通り、受者を引いて、戒師相手に授戒を請う役目であった。

一方で、作梵闍黎については、「作梵闍梨〈優波離の梵を作す。如し能わざれば、即ち云何が梵を作すや〉」とある通り、儀式の中で梵唄を唱えるのだが、気になるのは「優波離の梵」についてである。そこで、『禅苑清規』には書かれていないのだが、後代の作法書には「優波離の梵」と称される一節が見られ、そしてその典拠も理解した。

稽首し諸仏、及び法・比丘僧を礼す、
今、毘尼法を演べて、正法をして久住せしむ。
優波離を首と為し、及び余身の証する者、
今、戒の要義を説く。
    『四分律』巻1


これは、『四分律』の冒頭に出ている偈頌である。そして、ここで「優波離を首と為し」とある通り、これが「優波離の梵」なのである。これに音節を付けて唱えられたものだと思うが、まさに仏陀の戒律そのものを讃えるのに、それを最も能く実践していた持律第一の優波離尊者自体を讃えたのである。

なお、作梵闍黎が唱えた梵唄は、後2つあった。

・作梵闍梨〈神仙の梵を作して云く〉、神仙五通人、作者於呪術。為彼慚愧者、摂諸不慚愧、如来立禁戒、半月半月説。已説戒利益、稽首礼諸仏。
・作梵闍梨、磬を鳴らして云く、処世界如虚空、如蓮花不著水、心清浄超於彼、稽首礼無上尊。


まず、後者については「処世界梵」のことであるから、良く知られていると思う。問題は前者の「神仙の梵」である。これも、先ほどの「優波離の梵」と同じ『四分律』冒頭の偈頌からの引用である。

なお、「優波離の梵」がその偈頌の冒頭部分であれば、「神仙の梵」はその末尾である。よって、「沙弥受戒文」全体が、『四分律』冒頭で、世尊による戒制定の功徳と持戒者全体への讃歎を下地に成り立っていることが分かるのである。当初の「戒師・二闍黎」から少しく話がずれてしまったが、個人的には勉強になった。

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