是の如くの種種の因縁、出家の利、功徳無量なり。是を以ての故に、白衣、五戒有りと雖も、出家に如かず。
龍樹尊者『大智度論』巻13「釈初品中讃尸羅波羅蜜義第二十三」
まずは、以上の通りなのだが、『大智度論』では、出家の利益について、功徳無量であるとしている。それは、多くの出家の事例に於いて、功徳が明確に確認されるためである。例えば、以前に紹介した【『四分律』「受戒犍度」と「酔婆羅門」の問題について】などで見た「酔婆羅門」の問題もそれに適合する。
それで、『大智度論』では続けて、在家信者(白衣)については、五戒を受けて、それを守っていたとしても、出家には及ばないとしているのである。何故、本論の著者(まぁ、龍樹尊者だとはされているが・・・)は、上記のように判断したのだろうか?直接の理由ではないかもしれないが、本論の立場を知ることが出来るかもしれない一節は以下の通りである。
親しき白衣より遠離するとは、行者の道を妨ぐるを以ての故に出家す。若し復た白衣に習近すれば、則ち本と異なること無し。
是を以ての故に、行者、先ず自度を求め、然る後に人を度す。若し未だ能く自度せざるに、人を度せんと欲する者は、浮人を知らざるが如し。溺れるを救わんと欲するに、相い倶に没す。
是れ菩薩の親しき白衣より遠離するは、則ち能く諸もろの清浄の功徳を集め、深く仏を念ずるが故に、身を変じて諸仏国に至し、出家し、剃頭し、染衣を著く。
所以は何となれば、常に出家の法を楽い、白衣に習近することを楽わざるが故なり。
『大智度論』巻49「釈発趣品第二十」
以上の内容を見てみると、白衣(在家)と行者(出家)との対比を行いつつ、明らかに出家の法を願うべきことを示している。理由は、やはり在家のままでは修行の継続に困難を来すためということになるようである。
それにしても、気になったのが「浮人」という表現である。これは、出家者が自度して後に他度することを示した言葉のようで、他度するというのは、迷っている者を救う意味だが、もし、自ら自身の救い方を知らなければ、他者の救い方など分からない、ということらしい。よって、そのことを溺れる者を救う「浮人」という表現をしたようである。
でも確かに、自分自身がよく分かっていないことを、他人にさせることなど出来ないし、そういう意味では、出家者が在家者に先んじて自ら自身を救わんとし、そのため修行をするというのは、当たり前のことではある。その点からも、出家に功徳があることは明確で、転ずれば在家のままでの仏道修行には、限界があることも知られるべきだといえる。
日本仏教は、伝統的に出家/在家の区分が曖昧で、明治期以降は区分が更に希薄化したが、このような教えを見ると、区分の大切さばかりが注目される。
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