つらつら日暮らし

釈尊の弟子の話④(拝啓 平田篤胤先生40)

前回までの記事などを受けつつ、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』を読んでいたら、釈尊の親族で、その弟子になった者達について言及していたので、確認しておきたい。特に、篤胤は「難陀尊者」に関心を持っているようなので、前回から見ているのだが、続きの文章を見ておきたい。

そこで難陀が釈迦の許へ行き鉢を置きかえるとする所に釈迦の云には、汝すでに此に来る、今宜しく鬚髪を剃除して三衣を服すべし、何んぞ還らんと云ぞと、「威神力を以て難陀を逼迫して出家せしむ、閉て静室に在り」と有、又、「仏即ち剃師に命じて剃髪せしむ、難陀肯わず、怒拳して言く、迦毘羅衛一切の人民、汝今尽く其髪を剃るべきなり」といつたともあるから、無理やくたいにおどしかすめ責つけて坊主にした。かあいそうに年もいかぬ者を押こめて座鋪牢のやうな所へぶちこんだのでござる。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』73~74頁、引用文は「」で示した


まず、「」の引用文だが、典拠は前者が『出曜経』巻24「観品第二十八」で、後者が『雑宝蔵経』巻4「(九六)仏弟難陀為仏所逼出家得道縁」であると思われるが、両方共に『釈迦譜』巻2に出ているので、篤胤が実際に見たのは『釈迦譜』かもしれない。なお、この一節で篤胤が主張したかったのは、「逼迫」ということであり、難陀尊者が強引に出家させられたのではないか?という疑義なのである。当然、これは仏教の問題点だとしたいのである。

それで、この後の文章だが、家族の元に帰りたくなった難陀尊者は、袈裟を捨てて帰ろうとしたが、どの道を通っても、必ず釈尊に出逢ってしまう。難陀尊者は素直に、「妻に会いたくなった」と帰る理由を述べたところ、釈尊からは天上界と地獄界を見せられ、天上界では美しい天女の姿を見せ、釈尊は難陀(女性好きだった)に対し、「そなたが出家すれば、久からずして天上界に転生し、かの天女を妻にすることが出来るぞ」などと欲得で導いたのだが、今度は地獄界に行き、その様子は以下のように画かれている。

さて又地獄の様を現して見せたでござる。其有様上に申たる如く、見るに堪がたき苦しみのみ有るが中に、一つの大釜がかけて夫に獄卒大勢とりまきて湯をたぎらしているが罪人は見へぬ。そこで難陀があれはいかにと問ふたれば、釈迦のいふには汝自ら獄卒どもにとへと云ふから問ふときに、その鬼どもこたへて云、迦毘羅衛国の釈迦文仏の並父弟に難陀といふ者あり、人となり放逸にして婬欲の情多し。彼が命終り後まさにここに来るべし、其時煮んが為に設けおくのじやといふでござる。ここに於て難陀が身の毛を立、顔色かはりて恐れわななき、獄卒共のとめようとでも云てはならぬと思いて、南無仏陀、南無仏陀、唯だ願くは吾を将て還り給へと云て、袖にそがりて、これからとんと出家する気になつたといふ事でござる。ここらの神通のさまは、とんと老狐の人を化すありさまに違ひないでござる。
    前掲同著75頁


何だろう?「北風と太陽」並の話なのだが、この一連の話の典拠は、やはり『釈迦譜』巻2である。そして、篤胤が批判したいのは、こういった人の心を動かすために、地獄の様子を見せて恐怖心から出家させたことである。「ここらの神通のさまは、とんと老狐の人を化すありさまに違ひない」という言い方に、それが強く表れている。

ということで、難陀尊者の出家について論じたが、この人を含め、釈尊の親族達はどこか、ノホホンとしている。しかし、この難陀尊者は、後の禅宗で「知事」になった比丘として評価されている。それはまた、何かの機会に論じることだろう。

【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し

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