つらつら日暮らし

中国での律宗の興亡に関する文章(2)

これは、【(1)】の続きである。早速に、『比丘受戒録』を見ていきたいと思う。

 然るに仏、初めて出世してより、辺地に正法を聞くこと尠し。出家の五衆も亦た希なり。
 時に迦旃延尊者、西天竺阿槃提国に居す。彼に長者の子有り、億耳と名づく。出家し、尊者に為に具戒を受けんことを求む。而るに彼の国、十人の僧無し。受具することを得ず。彼、馳せて往き仏に白す。仏、辺地の持律の五人の僧もて、羯磨し受具を作すことを得ることを聴す。
 五人の中、一人の持律、善く羯磨を解す。即ち以て羯磨師に須い、第五人と為す。其の教授師、軌範に閑かなることを要す。余の証戒僧、必ず須らく清浄なるべし。方に証明と為ることを許すなり。
 所謂、中辺とは、中、即ち中天竺なり。東南西北四天竺の中に居すなり。
 辺地とは、中天竺の東に去きて東際に至り、白木調国有りて、国外、是れ辺地なり。
 南に去きて南際に至り、靖善塔有りて、塔外、是れ辺地なり。
 西に去きて西際に至り、一師黎仙人山有りて、山外、是れ辺地なり。
 北に去きて北際に至り、柱国有りて、国外、是れ辺地なり。
    『比丘受戒録』


これは、いわゆる比丘戒の受戒が成立するための条件について論じた箇所である。特に、比丘戒の受戒を認める羯磨(決議)を行う際に、一般的には10人の比丘を要するとなっているが、辺境・辺地の場合には5人で良いという考えもある。上記の一節は、その考えがどのようにして出来たのかを示す一節である。なお、何故この一節が上記文脈に見えるかと言えば、中国も、インドからすれば、遠く離れた土地であり、この5人の比丘で良い、という考えが(当初は)適用されたからだと思われる。その辺はまた、次回以降の記事で見ていきたい。

さて、その前に、上記一節を読み解いていこう。

上記の通り、仏陀が成道されたとしても、辺地では正法を聞く機会は極めて少なく、また、出家の五衆(比丘・比丘尼・式叉摩那・沙弥・沙弥尼)を見ることも少なかった。

そこで、釈尊の直弟子である迦旃延尊者(カーティヤーヤナ)は、西インドにいたが、その地で出家を願う長者の子供がいた。しかし、比丘が10人もいなかったので、受戒羯磨を開くことが出来なかった。そのため、迦旃延尊者は、仏陀の下に行き、辺地の場合は、持律している比丘5人でもって、受戒羯磨を開き、具足戒を授けても良いかどうかの許可を求めたという。そして、仏陀は、羯磨師や教授師、証明師の条件を定めて認めたという。

その後は、インドの中央(中天竺)と、それ以外の辺境がどの辺で分かれるかを示す地域の話となっている。次回の記事にするが、上記の文献で、中国は東の辺地に所在するという感覚だったようである。まぁ、位置的にはその通りだろうか。

さて、上記に見た迦旃延尊者の話だが、『五分律』巻21「第三分之六皮革法」項に、おそらくはこの話の原出典と思われる詳細な一節が見られるが、更に『毘尼母経』巻4には、簡単ではあるが同様のことが載っているので、この辺を参照したものだろうか。実際、辺地に於ける五人の比丘で授戒して良いという話は、他の諸律にも見られることだが、登場人物も踏まえた説話として考えた次第である。

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