○四十三 工夫を倣って、疑情を発すも起たず、便ち有為の功行を倣わんと欲す。
或いは解脱を倣い、或いは苦行を行い、冬は炉せず、夏は扇がず。
人来て衣を乞えば、便ち全身脱去し、甘心凍死す、之を解脱と謂う。
人来て食を乞えば、便ち自己は食わず、甘心餓死す、之を解脱と謂う。
更に種々有り。具さに説くべからず。
総じて之を諭すに、皆是れ勝心の無知を誑惑せしむる所なり。
彼の無知は、是れを活仏と謂い、是れを菩薩と謂い、其の形命を尽くして承事供養す。
殊に知らずや、仏戒中、之を悪律儀の業と謂う。是れ持戒なりと雖も、歩歩に結罪す。師、衆に問ふ、持戒の善業、何としてか罪結となるや。
僧云ふ、有相執着の一念也。
師云はく、然らば何と用ひたるか是ならんや。
僧云はく、莫妄想。
師、之を肯ず。
『驢鞍橋』巻中、訓読は拙僧
結局は、解脱を倣おうとして、苦行を行い、暑さや寒さに耐えること。衣や食事を乞われれば、自分のを全て差し上げてしまうなどだが、正三はこういった行いを、「甘心」を尽くして解脱になるとはしているが、これらは種々あるので、詳しく説くことは出来ないとしている。
その上で、正三はそういった解脱に契うという行いは、「勝心の無知を誑惑」させる行いだと批判している。そして、その無知なる者達は、こういった解脱に契った行いをする者を、「活仏」や「菩薩」だといい、必死になって供養するという。現代的なカルト問題にも繋がる話である。
そして、正三はそういった解脱に契う行いをする者達を、仏戒の中の「悪律儀の業(行い)」だとし、そのような行いをする者は、一歩ごとに罪を結ぶといい、そのことを弟子達に問い、「持戒と思われるような善業が、なぜ罪を結ぶことになるのか?」と尋ねている。すると、或る僧が、「有相に執着する一念だからである」と答えたところ、正三は「そうであれば、どのように念を用いれば良いのか?」と再び尋ねたところ、その僧は「莫妄想」と答え、その答えを正三は認めたという。
この傍目に善さそうな行いをしているのに、かえって罪作りだという話は、道元禅師にもある。
末世の比丘、聊か外相尋常なる処と見れども、また是に勝たる悪心も悪事もあるなり。仍て、好僧、悪僧を差別し思事無て、仏弟子なれば此方を貴びて、平等の心にて供養帰敬もせば、必仏意に叶て、利益も速疾にあるべきなり。
『正法眼蔵随聞記』巻2
これは、道元禅師が或る在家人の問いに答えたことだが、多少外面が良くても、中身は分からないので、供養をするなら悪僧・好僧の区別をせずに行うのが良いとしているのである。今のような時代だからこそ、物事の些細な善悪を問う人がいて、僧侶の持戒・破戒などを問う人がいるが、正三などの教えを見ると、そういった他者の善悪を問うこと自体が問題だと理解出来る。
あくまでも、「莫妄想」でおれば良いのである。
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