つらつら日暮らし

『正法念処経』に見る「二種戒」について

とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。

 復た二種戒有り。
 一つには在家、二つには出家なり。
 在家戒とは、いわゆる五戒なり。
 出家戒とは、解脱戒を持す。
    『正法念処経』巻25「観天品第六之四」


そこで、この内、「在家戒」には、余り問題がない。特に、「在家五戒」のことを示すのみである。問題は、続く「出家戒」のことである。これは「解脱戒」を持するとあるが、これだけでは何が何だか分からないかも知れない。

しかし、この語はおそらく、「波羅提木叉」の意訳である。「波羅提木叉」とは、(梵)pratimoksa(←表記は正確ではない。読みはプラーティモクシャ)の音写語であるが、意訳すると「別解脱」などと表記されることもある。例えば、以下の一節などはどうか。名称を定めた理屈も含めて良く分かるところである。

波羅提木叉、華に言わく、別解脱なり。解脱と言うは、即ち戒の果の感ずる所なり。
    『釈氏要覧』巻1「戒法」項


ところで、先に挙げた『正法念処経』では「在家戒」と「出家戒」との対比の上で「解脱戒」を用いていたが、これも大乗経典になると話が変わってくる部分もある。以下の一節を見ていきたい。

 時に徳生童子、有徳童女、善財に告げて言わく、「二種戒有りて具足受持すれば、則ち善知識法を円満し得る。
 何等をか二と為すや。
 一つには菩薩戒、二つには別解脱戒なり。
 是の二戒を持すれば、則ち能く善知識法を円満す。仏の説く所の如きは、自ら持戒せずに、他をして持戒せしめ、自ら未だ調伏せざるに、他をして調伏せしむるに、是の処有ること無し。若し諸もろの菩薩、頭陀の功徳を具足円満すれば、是の如くの二戒、悉く清浄なることを得て、善法を失わず」。
    『大方広仏華厳経(四十華厳)』巻33「入不思議解脱境界普賢行願品」


このように、『華厳経』の一訳では、「菩薩戒」と「別解脱戒」とを対比させているのである。つまり、「別解脱戒」とは「波羅提木叉」のことで、いわゆる「声聞戒」に該当する。よって、声聞・菩薩の二乗に於ける戒の違いを前提にしつつ、ともに受持するのが良いと、本経の立場を明示しているのである。

ただし、善知識(指導者)としての法を具足円満するには、いきなり自分が持戒しなくても良いということはなく、まずは、自らが頭陀行を具足円満することで、結果として、菩薩戒・別解脱戒ともに清浄となるという。そうなると、出家者として行う頭陀行が持戒に繋がるという意図なのかと思う。

ということで、最初の『正法念処経』に話を戻すが、実は「在家戒」や「解脱戒」という名称を使って論じるのはこの箇所のみであった。よって、これ以上掘り下げることが出来ず、中途半端な記事で終わるのであった。

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