爾の時、世尊、婆羅門に告げて曰く、「若しくは如来、世に出現し、応供、正遍知、明行成、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊なり、諸天、世人、沙門、婆羅門中に於いて、自身に証を作し、他人の為に説く上中下の言、皆な悉く真正にして、義味具足し、梵行清浄なり。
若しくは長者、長者の子、此の法を聞く者は、信心清浄なり。信心清浄にし已れば、是の如き観を作せ、「在家、難と為す、譬えば桎梏の如し。梵行を修せんと欲するに、自在を得ず。今れ我れ寧ろ鬚髪を剃除して、三法衣を服して、出家修道すべし」と。
彼、異時に於いて家財の業を捨て、親族を棄捐し、三法衣を服して、諸もろの飾好を去り、毘尼を諷誦し、戒律を具足し、殺を捨て殺さず。乃至、心法の四禅、歓楽を得るを現ず。所以は何となれば、斯れ精勤に由り、專念して忘れず、独閑の居を楽いて之れ得る所なり。
婆羅門、是れを具戒と為す」。
『長阿含経』巻15
要するに、在家者がもし、仏陀の真正の教えを聞いたらどうすべきか?を示した教示である。端的にここでは、出家を目指すべきだとされており、その出家の生活について簡単に述べた箇所に、今回の当方の問題意識に関連する文脈が見える。
さて、そもそも何故、梵行(清らかな修行)を行うのに、在家では成就出来ないのかと言えば、「桎梏(手枷足枷のこと)」のようなもので、自在(自由)が効かないからだという。
そこで、仏陀の教えを聞いた信心清浄なる者達は、必ず、鬚髪を剃って、三法衣(3つの袈裟)を着けて、出家し修行するようにイメージするという。そのイメージは、別の時に、実際に実行に移され、出家者としての格好になったならば、「毘尼を諷誦」するとし、その結果「戒律を具足」するのである。
つまり、出家する時に、師から戒律を与えられる部分が「毘尼を諷誦」なのであろう。もちろん、たった1回で全てを覚えることは出来ないから、その後、5年間は師に就いて繰り返し教育されるはずだ。或いは、「捨殺不殺」を最初に説いているが、これは、「四波羅夷」に属し、いわゆる受戒の時には、最初に教えられることである。
後の受戒の方法が、釈尊の時代にどこまで成立していたのかは疑問も無いわけではないが、こういう部分にその方法が少しずつ反映されている印象ではある。もちろん、どちらが早かったのかは、仏典からは理解出来ない。とはいえ、この経典を伝えた部派では、上記の如く理解されていたわけであろう。
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