そのようなことを述べつつ、後は、個人的に考えていることを述べたい。
やはり、「鏡開き」とは、どんな鏡を開くのか?を問いたくなってくる。
そうなると、当方として開くのは、「宝鏡三昧」でありたいと思う。書名としての『宝鏡三昧』は、『宝鏡三昧歌』とも呼ばれ、中国唐代の禅僧・洞山良价禅師(807~869)の撰述(異説も多くある)とされる。では、この「宝鏡三昧」とは、どういう意味であるのか。
今、此の相を論ず。我が法中に入りて種種の名有り。
華厳、此を名づけて一真法界と為す。
法華、此を名づけて一実相と為す。
涅槃、此を名づけて秘密蔵と為す。
六道の衆生、此れを具さにし此れに昧み、第八阿頼耶識と為し、如来蔵性と名づく。
三世の諸仏、此れを転じ此れを証し、第九菴摩羅識と為し、大円鏡智と名づく。
歴代の祖師、此れを悟り此れを伝え、最上秘密宗旨と為し、宝鏡三昧と名づく。
『宝鏡三昧図説』
これは、先に挙げた洞山良价禅師の『宝鏡三昧』について、図説を通して解説した清代成立の文献だが、要するに「宝鏡三昧」とは、各教学や、伝灯に於いて呼び方が違うだけだというのである。そこで、説明されている「図」とは、完全な円相である。円相とは、まん丸の図を指すが、欠けることも無い悟りそのものを示す。
よって、これを『華厳経』では「一真法界」とする。つまりは、この世界そのものだということだ。『法華経』では「一実相」とする。つまりは、真実そのものだということである。『涅槃経』では「秘密蔵」とする。つまり、同経典で示された、釈尊の仮の入滅後に顕れた真実を意味している。
それから、六道に生きる衆生は、この悟りを明らかにしたり、それに迷ったりするが、迷えば第八阿頼耶識となると、悟れば如来蔵性ということで、自らの成仏の可能性になる。三世の諸仏は、この悟りを転じて説法し、また、自身はそれを証しているが、それは阿頼耶識の奧にある第九菴摩羅識となり、これは諸仏の智慧である大円鏡智である。
そして、歴代の祖師は、これを悟り伝えるが、最上の秘密宗旨とし、これを「宝鏡三昧」と名づけているのである。なお、祖師が「宝鏡三昧」を伝えたことについて、洞山良价禅師は法嗣である曹山本寂禅師に対し、「師、遂に嘱して曰く、吾れ雲巖先師の処に在りて、親しく宝鏡三昧を印する。事窮まるの的要、今、汝に付す」(『洞山録』)としたという。
それでは、この「宝鏡三昧」を開くとはどうあるべきなのか?しかし、開くとは、とどのつまり、開かないことだ。開く余地が無いほどに、分別無く開ききった状態を宝鏡三昧というから、禅宗としてはその無分別の境涯をしっかりと味わっておきたい。とはいえ、普通のご家庭では、是非、お正月に仏神へお供えしたお餅を鏡開きしていただきたい。
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