典虚てん手古舞

我が“為”の日々を振り返りつつも、逝き時を待つ日々を悔いなく一日一生

おばあちゃんらが消えた日

2017年09月19日 | 【介護】介護&実家との付き合い
 「朝です。なぁんか、気分が、ひっくり返りま」と私は、朝、書いた。

 九月十九日。私は、荒れました。秋の彼岸が近づくと、どうしようもなく、辛くて悲しくて、歩いていても、涙がこみ上げて来ます…。
 昭和30年(1955)…。この年の3月彼岸の頃に待望の「男子」が産まれ、跡継ぎが出来たと
我家は、肩の荷を下ろすよう、喜んでおった…。今とは、男と女とでは、値打ちが違うのである。

 父が15年下の女と再婚したのは、種を残したいからだろう。可愛がっていた男の子のようせつは痛く堪えたらしい。母の方は、当時でいえば「疵者」だ。喫煙が姑に見つかり、追い出された…。花嫁道具は、返してもらえなかったそうな。「歯科医院の娘」「お嬢さん学校出身」。
 戦前なら、あり得ない組み合わせだろう。母から結婚は、生活のため。弟や妹、家族のためである。
 明治生まれ、波乱にとんだ半生を過ごした父にとっては、戦後は「第二の人生」で、政界財界泳いで生きた。

 しかし、昭和30年(1955)は、まだ日本は貧しかった…。おこもさんがいた。白衣の傷夷軍人の姿もあった…。

長男が老いた母親の面倒をみるのは、当たり前の時代であった。しかし、「嫁」との関係がまずかった祖母は、おそらくは、娘である私の母の時代ところで暮らすようになった。
 祖母は、その妹とは入念に話しあい自殺、自死を覚悟したようである。二人は、前日、我家で過ごし、「四天王寺さんへいく」とでていったまま…。それっきりである。つつ

 今日、久しぶりに白い百合を活けた。
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