典虚てん手古舞

我が“為”の日々を振り返りつつも、逝き時を待つ日々を悔いなく一日一生

ひたむきも過ぎると、先生御免ね

2016年09月22日 | 〈雑記〉孫や子ども達、若い人と

 「雨」のおかげか、そのせいか、この数日、家に籠もって、「記録映像」の作品をみたり、歴史記述の文字と向い合って、その中で暮らしています。

 まっ、「冷戦」の時代・・・

 私か関西大学に合格したのは「受験番号712]

 前年、一浪覚悟で大阪大学をうけたときは、見事に「数学」のみが・・・。う~ン!努力したけれど。中学のサボりのか結果。

 はじめて「数学の家庭教師をつけて」と、高二の夏に懇願に、親父に懇願したものの、受け容れられず。やけらなって、ブロ場リy90錠を牛乳で胃に詰め込んだんはね9月はじめ。マキノで処置を受けて。どうにか・・・・。食虫毒と届を出したらしいが。高校二年生の秋である。

 どの程度、高校へ通っていたか?頭がイカレテいた本人の私には、記憶がないくて・・・。

 杉藤美代子先生の「卒業證書」をとるだけでいいと励みに促されて、「適当に」高校後半だった。

 しかし、覚悟の一浪一年間の後、「関西大学」には当然、合格した。

 1969年、第一志望は、直木幸次郎先生のいらっしゃる「イチダイ」だたが、落ちた。龍谷大学は、合格でして、有難かったね。でも、「立命館大学」は同然、不合格っ!会場は、予備校で、出された「入試問題」の雑さにムカついて、途中で退出、帰った~。

 

 それにしても、高校二年三年の担任だった「飯塚アサノ」先生には、今になって調べてみると、友人から話を聞くと、心から申し訳ないことをした・・・。

 乳がんで他界されたと聞かされた。「飯塚アサノ」先生のお顔は、何故か、くっきりと、わたしの脳裏に浮かびあがるし、そのお声も口調も語りさまも・・・・。

 ほとんど記憶が少ない高校時代の中で・・・。

 1968年 樟蔭高校卒業、 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
« 昨夏の悪夢が・・・ | トップ | 土付き根っ子をガバッと抜く... »

コメントを投稿