頑張る
嫌いなことばだ。やたら頑張るのはアホだ、と思う。
若い人が、自分から選んだことについて、頑張るのは大事なことではある。他からの力で「頑張らされる」のはおかしい。この言葉に「受け身」は相応しくない。
一方、大人がゆとりなく、頑張っているのをみると「いい加減にせんかい!」と怒鳴りたくなる。
近代日本の歩みは「頑張り」の歴史だった。これは教育に通じる。
「早く芽をだせ柿の種、出さぬとハサミでちょん切るぞ」である。
1985.7
管理教育が問われた時代にかいたものです。時は、バブル全盛期。小学校から中学にわたしの勤務がかわった頃です。
子どもと同じ目の高さになって話す。大きな声では怒鳴らない。声を抑えて、はっきりと語る・・・。そのように子どもに接してきた私には、まるで中学校は別世界でした。
しゃべる
やたら、大きな声なのだけれど、ちっとも響いてこない言葉がある。思いや気持ちがこもっていないからだろう。
生徒が授業とかかわりのない話をしているのに、平気で授業をしている教師がいる。人一倍大きな声である。ただ、聞こえりゃ、いいというものではない。
相手を「人」として扱っていないのではないか。
1985.7
生徒がしゃべるのは、授業が面白くないからです。実際に、この教師(理科)の授業に入ってみたが、ひどかった・・・。目が生徒にむかって、開いておらず、ノートをみて黒板に書いているだけ。
しかし、「怖い先生」の授業では、生徒は喋らない。内容の分からない生徒も聞いているふりをする。もちろん、教師にひっぱ叩かれたりもするからだ。
この中学で数学の教師が、生徒を平手で叩き、鼓膜が破れるという事件がおこった。大きな体格の若手の教師だった。のち、他の市に移り、後々管理職になったと聞いた。数学が好きな先生ではなかったな
この中学校では、同じ教科の先輩の授業を見学、その方の「板書ノート」をみせてもらったり、助言をうけて、自分もあれこれ本を読んだ。夏休みは子連れで図書館に通って、現代史の勉強した。2年間は、担任から外れ、必死になって授業のための蓄えをつくろうと気張った。
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