
本日の起床は、午前6時。午後の筈がない、わたしの場合はですわね。夜中に働いて、朝から眠るという人もいらっしゃいます。
ちょっと、遅い目だったのは、昨晩のTBSのドラマ、最終回が気になったから・・・。どう〆るか、難しい設定のドラマでしたものね。
さて、とろ~り、たらたら、ぐうたらDAYの翌日は、体が逆噴射 バンバン、料理の下拵えを片付けて、洗濯、掃除にエトセトラ・・・。椅子には座りません。
調子のいい時って、心と体が一つになります。
腰を落ち着けたのは、午前8時を過ぎてからで、 パソコンもそれまで開かない・・・。
じっくりとテレビの画面をみつめる番組は、これ
じっと、みなきゃ、全然、分からないんですよ。
人間の言葉がまったく、使われていない・・・。
ところが、羊たちや牧羊犬の表情がとっても豊かで、細やかな心の動きが伝わってくるんです。 まあ、人間でも、目と目とでコミュニケーションは出来ますが、子どもから大人に「成長」する過程で、多くの者は、目と目で心を通わせる力を喪失します。
考えようによっては、いや私はそう考えておりますが、大人は乳幼児段階から、「言葉」を、彼らを支配する道具に使うことが多いからです。
つまり、「何、何しなさい」という命令形を無造作に作ってしまっている・・・。命令形で語る前に、「何々しようね」「何々、しない?」と、赤ん坊に対してでも、語りかけて欲しい。
「おむつを替えようね。おむつを替えたら、気持ちが好くなるよ」と・・・。なお私は、紙おむつの「過使用」が乳幼児期の子どものこころの成長に、どこか奥深いところで、人間、ホモサピエンスの質的な変化をひきおこしていると信じています。
親そのものも、子どもを育てるという試練が軽減されてしまったことで、忍耐するという力を培う機会を失ったのではないのでしょうか。
つまり、汚いはずのうんこでも我が子のうんこは触れます。どんなうんこをしているかで、子どもの健康状態が確かめる。これも育児にとっては、大事な親の役割ですよ。
わたくしは、子どもというものは「純粋無垢で、白紙で可愛いもの」という子ども観に疑問を持っています。あくまでも、それはある一面ではそうでもあるが、一方ではしたたかな存在でもあると・・・。
孫が2人おりますが、「お孫さん、可愛いでしょ」と言われると、ちょっと違うというか、あいつらはペットじゃないと反駁したくなります。しかし、孫の身代わりになって自分は死んでもいい・・・という思いをこころの深くに持っていることは確かなんだな。
上の孫マルキは、私の顔をみると「大阪のバアバ、嫌いや」とぬかしよります。たぶん、私が現われるとパパやママが消えていなくなるという、新座のトイザラスでの経験が最初で、その後も何度かマルキは、そういう経験をしておる・・・。
言葉そのものは、理解出来なくとも、「説明」をしなきゃいけなかった思いますよ。
彼からすれば、「置き去り」なんです。
ああ、何か変化が起こるんだろうなということは、1歳にもなれば、何となく感じることができる・・・。
「新座トイザラス置き去り事件」の際は、ふっと気が付いて、パパ!ママ!と泣きわめくガキを抱きしめて、「今、パパとママは御買い物。帰ってくるからバアバと待っていようね」。わたしは、これを15分以上も繰り返し、繰り返し、繰り返し 優しく、語って聞かせて、奴マルキを落ち着かせたのでありますよ。
『羊のショーン』の後は朝食作り。うどんの麺は、180グラムだけれど、小間切れ牛肉、肉うどんを作りました。
冷蔵庫の中を覗き込み、卵にえのきだけ、そして細葱をたっぷり! おまけにテンプラと、高カロリー、悪玉コレステロール
も
9時47分、テーブルに、で~んと置いて・・・。
最後まで見なかったけれど、そこらの学校の授業より、遥かに素晴らしい出来と思いました。やはり、遡って「歴史」を確かめて考えなきゃ分からない・・・と、多くの人に感じて欲しいです。
写真のタイトルは「安上がりの番組」です。
座席の図をメモして、誰が誰、何の担当かと記録した後、
じゃがいも剥きをはじめ「ながら視聴」ではありましたが・・・。しっかりと聞き、記録もしておきました。声だけだと、どなたがどういう話をなさったか、わかりませんものね。
大衆受け狙いの「評論家」を連れてきて、いい加減な話を喋らせる無責任な番組が多い昨今、「安上がり」でかつ、内容的にもよろしいとかと存じました、ハイ
テレビに出演すれば、まず本が売れます。講演で銭もうけもでき、そのうち、大学の「人寄せパンダ」で、「何たら大学教授」の肩書もやってきますものね。 しかし、それだけなら、「害」は少ないですが・・・。
午後2時までは、働いた・・・。
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