「歴史家は史実のみに着目するが、小説家は自らの人間観で史実を肉付けし、人物像を作り上げることが出来る」
9月25日朝日新聞の夕刊「時の回廊」、津本陽さんの「信長との出会い謎解き20年」の中の言葉です。
学問としての「歴史」においては、実際はどうであったのか?根拠となる史料は何か?また、その史料そのものが一体、どのようなものであるか?という分析、考証を踏まえた上で、叙述が求められます。
学校での「教科書」の記述には、学問としての「歴史」の範囲でなければならない・・・。
だから、1938年南京で起こった出来事についての論争が起こりました。挙げればきりがないほど、近現代史においては、教科書の記述を巡る争いが、今も続き「おおごと」を生じさせています。
さて、「歴史」の教科書は、積み重ねられた学問研究の結果でもって記述されねばならいという苛酷な条件を背負っている・・・。(笑)
具体例を挙げると、「鉄砲伝来」があります。かっては、種子島にポルトガル船がやって来て、鉄砲が伝わったと記述されていましたが、数十年前に、中国船ジャンク船に乗っていたポルトガル人が・・・と書き換えられました。指摘なさったのは、中道寿という方です。大阪書籍、小学校の教科書です。こういう例は他にもあります。
以上は「教科書」の問題です。
次に、学校の現場での授業の問題があります。結論から言えば、学校で習った「歴史」の知識というものは、限りなく「フィクション」に近く、「小説」のようなものということ・・・。
限られた時間の中で、生徒が呑みこみやすいストーリーを展開させるというのが、授業だと言い切って過言ではないでしょう。
つまり、授業を通じてえた「歴史」、本にしても銭稼ぎレベルの新書で知ったつもりになって、論じるのは、実に愚かしいということです。
まあ、こういうわたくしはといいますと・・・。
退職後、わたしは「ヨーロッパ」、「イスラム」の歴史を勉強しています。しかし、大学で専攻したのは日本古代史でして、卒業論文は、比叡山天台宗と摂関政治、政治と宗教の癒着していく過程を第18代座主良源、俗に元三大師と藤原師輔を軸にして書きました。大学院に進むことになっていました。何十万かする天台宗全書も揃えたけれど、「信長の比叡山焼き討ち」で史料の量に壁があるのではないか?叡山文庫をはじめ、多くの大学図書館を訪ねて、研究者と飯を食っていけるのだろうか?
院の入試はサボったものの、卒業後も数年間大学に通ったり、大学の年史のバイトもしていました。最終的には、大学の研究者の世界に魅力を感じなくなった・・・。「なんぼのもんじゃ」かな。
ほんとうに自分がやりたいことではないと感じて、そこからしばらくは、放浪っぽい時期を過ごしました。しかし、飯を食っていかねばならない・・・。親父も死んでいるので、自活しなきゃならなくなり、学校の教員でもしておこうかな?
ただ、歴史が好きになったのは小学生で、大学で勉強しようと思ったのは中学のときです。歴史小説をかなり読んでいました・・・。
まあ、高校で世界史と倫理社会2年、小学校で正規採用になり、ひょんなことから、中学の社会科教員になってしまいました。
中学教員になって焦ったことは、近現代史について、何も知らない 知識はあっても、何もわかっちゃいない・・・。離婚もしていて、時間は作ることが出来たので、死にもの狂いで勉強をしまた。息子を母に預け、図書館へ通い、ノートをつくり、貪るように本を読み・・・。
特に、「日本」と「朝鮮」の歴史については、関心をもつ先生たちでも知識が乏しいことに驚いて、ハングルの教科書や独立記念館の資料を翻訳して、勉強会。史跡を訪ね、映像教材もつくり、やがて、研究会、学会にも参加して学びました。
「元従軍慰安婦」の問題については、韓国内においても、「それなんや?」の時代から承知しています。「朝鮮通信使」だって、韓国では「それ何や?」だったのですよ。
そういう「こと」があったと認識されるようになって、長い時間はたっておりません。
ここいらで、千田夏光の本辺りから、「元従軍慰安婦問題」そのものの、「歴史」をどなたか整理して、新聞か雑誌にでもお書きになりませんか?勝新太郎の映画『兵隊やくざ』のなかにも、ばっちり登場しています。
戦時中にあった「こと」と、それが問題となって社会に表れた「こと」つまり「問題の歴史」を整理しませんか?
さて、実は今、真夜中です。数日ぶりに
お酒を飲んだため、午後7時に目が覚めてしまいました。
映画『冷静と情熱の間に』のサウンド・トラックを聴きながら、もう一眠りします。
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