”広島の果物屋”トド店長のひとり言

3代目のトド店長が、今日も美味しい果物を求めて東奔西走、果物の豆知識に旬の果物から新品種、はたまた雑感まで呟きまくり!

トド店長の独り言 沖縄 カニステル

2017-03-16 18:44:16 | いらっしゃいませ
カニステルは、果物であるのに、ゆで卵の黄身のような味と食感のする不思議な果実です。
形は、おもちゃカボチャに似ていて、色は黄色で、茶色の筋が入ることもあります。
樹は放任栽培だと10mくらいになりますが、畑では選定や芯抜きでせいぜい2~2mくらいに仕立てられていました。
沖縄ではちょこちょこと見かける樹ですが、果樹として本格的に栽培している農家は少ないようです。
というのも、一時ブームになった時があったみたいです。
でも、最近では、アイスクリームの材料として見直されてきているようです。
カニステルは、完熟すると甘くて美味しい(ただし、薄い果皮にはえぐみがあるので食べない)のですが、少しでも未熟だとえぐみがあってくそ不味いんですよ。
今回の旅でお世話になったT青果さんから、お土産に完熟したカニステルをいただいたのですが、持って帰ってみると、2個ほど潰れていました。
でも美味しかったですね。
あ、それとひび割れたというか、はじけた物もあって、これも美味しかったです。
これを仕入れたら、ジュースか、サンドイッチに使えないかな?と思っています。

いらっしゃいませ。 土佐文旦

2017-02-16 18:50:35 | いらっしゃいませ

いらっしゃいませ。
毎度有難うございます。
今日は、土佐文旦の良いものが入荷しておりますよ。
え?土佐文旦と文旦の違いですか?
文旦は、土佐文旦の他に晩白柚、八朔、グレープフルーツ、夏みかん、瓢柑、ザボン(うちむらさき)などを総称して言います。
それに対して、土佐文旦は、そのなの通り土佐(高知)で作られてる文旦なんですよね~。
文旦類は、他の柑橘類と交雑しやすくて、各地でいろんな品種が出来ているんですよ~。
土佐文旦は、昭和4年に高知農事試験場・園芸部長の渡辺恒男氏が、鹿児島県から導入したと言われていますけど、どうも「大橘 おおたちばな」と同じかもしくは余程近い品種ではないかと言われているそうですよ。
土佐文旦は、種が多いのが欠点ですけど、種の少ない水晶文旦というのも生まれていますよ。
私、大学が高知だったもので、よく日曜市にいっていましたけど、3-5月頃には土佐文旦が沢山出ていましたねえ。
あんまり甘い、という感じでは無いんですけど、爽やかな酸味と僅かな苦み、そしてなんと言っても独特のスッキリとした香りが、丁度春真っ盛りの気候とマッチして美味しかったですねえ。
お一つ如何ですか?


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2017-01-19 10:46:04 | いらっしゃいませ

高級品(サラリーマンの平均月収が1万円の頃に、卸売価格が一キロ千円!!)の扱いながら、世の中の景気が徐々に回復するに従って、台湾バナナの輸入量も順調に伸びてきたのですが、一変したのが昭和三十六~三十七年でした。
昭和三十六年、台湾の高雄でコレラが発生し、しかも日本に入港した台湾バナナを載せた船の船員から、コレラ菌が検出されました。
当然、新聞やテレビなどにも大きく報道されて大騒動になり、ついには陸揚げされた一億六千万年相当のバナナは、自衛隊の火炎放射器で焼かれたのでした。
そして輸入禁止になったのです。
これが世に言う「バナナコレラ騒動」の顛末でした。
ところが、翌年には台湾でのコレラの発生は収まったとして、輸入解禁になったのですが、しばらくは売れなかったですね。
しかも折悪しく、この年にエクアドル産のバナナが解禁になったのです。
エクアドル産のバナナは、台湾バナナを見慣れた私には衝撃的でした。
台湾バナナはずんぐりむっくりで、しかも汚れていたり黒くなったりしていて不器量なのに、エクアドル産バナナはすらりとして綺麗な真っ黄色なんです。
さながら、六頭身のずんぐりむっくり、色黒の不細工な人形と、色白八頭身でお目々がぱっちり金髪の人形を比べるようなものでした。
もちろん、エクアドル産のバナナは飛ぶように売れていきました、最初の内は。



トド店長の独り言 台湾バナナ

2017-01-15 09:57:57 | いらっしゃいませ

台湾の基隆港に集められたバナナは、船に乗せられて門司港へ。
門司港で荷揚げされると、すぐさま加工会社の地下室へ入れられます。
室は、まるで蒸し風呂のように高温高湿度になっており、ここである程度着色するまで(とは言っても、真っ青なものが気持ち薄れたくらい)置かれた後、各市場へ出荷されるのです。
私が中学生の頃は、広島の市場の中にもバナナ専門の加工会社が有り、やはり地下室で加工されていました。
私の記憶では、その当時はカーバイトも使っていました。
室にバナナの箱を積み上げて、最後に室を出るときに、お皿に入れたカーバイトに水を垂らしたあと、室を密封するのです。
水と反応したカーバイトは、しゅうしゅうという音を立てて、エチレンガスを放出するのです。
放出されたエチレンガスは、バナナに吸収されて成熟促進ホルモンと成り、真っ青だったバナナは、黄色く熟成してくるのです。
頃合いを見計らって、戸口(とは言っても、床を真四角に切り抜いたものに板を渡して塞いだだけの簡単なもので梯子等は無い)を開放するわけです。
開放しても、しばらくはカーバイドから出る不純物の独特な臭いが残っていたものです。
何故こんな細かいことまで覚えているかというと、あるとき父がこの穴に落ちて後頭部を強打して脳内出血を起こし、一時意識不明の重体になったことがあったからです。
父の事故の後暫くして、地下室の入り口の周囲には、取り外し式の鉄柵が設けられました。


トド店長の独り言 台湾バナナ

2017-01-13 11:07:41 | いらっしゃいませ
台湾バナナが日本へ輸入されるようになったのは、都島金次郎が1903年(明治36年)に輸入したのがきっかけだと言われています。
この当時、日本では冬のみかんが終わってしまえば、夏のスイカまでめぼしい果物が少なかったために、次第に日本の消費者にも受け入れられようになり、日本の統治時代になってからは、日本人の好みに合わせて品種改良もされるようになりました。
また、出荷も(量の多寡・品質の違いはあるにせよ通年出荷は可能)も日本の果物の少ない時期-春から初夏-に合わせて行われるようになりました。
以来順調に生産量を伸ばし、1937年(昭和12年)には出荷量が最大になったのですが、第二次世界大戦の勃発により激減しました。
戦後、食糧の配給時代には、台湾バナナを干したものが支給されたりもしました。
今でも、お年寄りの中には「懐かしい」と言って買って帰られる方もあります。

その後台湾バナナの輸入が再開されたのですが、日本は外貨不足で中々思うように輸入できず、庶民にとっては高嶺の花、果物屋にとっては、台湾バナナは高級果物としてシンボル的な存在でした。
当時の台湾バナナは、籐丸籠に30kGくらい入っていて、籠単位で買うと割安だったのですが、その代わり品質の悪いものも混ざっていたりして、よく父がぶつぶつと文句を言っていたりしました。

         -続く-