今日の一言

日々の生活の中で見つけた「なぜ・なに」について書いています。

NIHのコリーグたち

2024-04-16 17:34:44 | Weblog

 アメリカ留学をしていた頃から、約30年が経とうとしています。そんな事を考えていたら、留学当時ラボで研究を共に行った人たちは今どうしているのかなと思い始めました。

 ラボのチーフ(ボス)だったクリスティはNIHを去った後はマディソン大学に移りましたが、現在はもう在籍されていないようです。共同研究者のスティーブはジョージタウン大学病院の耳鼻咽喉科の教授になりました。ラボで席が隣だったジュリーはアリゾナ大学に移った後、現在はユタ大学で言語学の教授になっています。また私の研究を支えてくれたトーマスは昨年マイアミ大学病院の耳鼻咽喉科の教授になりました。インドから研究に来ていたランジニは、論文の真偽性を判断する仕事に携わっています。その他にも、キンバリー(研究以外のアメリカの事をいろいろ教えてくれました)、マーシー(私の研究の被検者の調整をしてくれました、彼女のもう1つの顔はミュージカルダンサーでした)、メアリー(ラボでは最も経験が長い頼れる先輩でした)、マイク(ジョークが得意なハンサムくんですが研究には真剣でした)、ドラガナ(ロシアから来られた研究者でした)、ベティ(ラボの秘書さん、親日家でとてもやさしくしてくれました)、スザーン(クリニックでお世話になった看護士さん、カルフォルニアにいるお孫さんの話をよくしてくれました)、みんないつまでも忘れられない懐かしいメンバーたちです。

(画像はNIHのVirtual Tourから)


永久の未完成こそ

2024-04-16 15:32:31 | Weblog
「テストで80点の人はそこまでだが 100点の人はそれ以上の実力を持っている」子供の頃によく父から言われた言葉です。特に算数は答えが決まっているため、国語とは違って100点を取る事が出来る科目です。だから算数で100点を取ると父は褒めてくれました。
 
父方のお爺ちゃんは私が生まれる前に亡くなりましたが、何事にも大変厳しい方と聞きました。その教育を受けてきた父は医師でしたが、何事にも完璧を目指して最善を尽くす人でした。その生きざまが、おそらく子供の教育にも反映されていたのでしょう。しかし今から思えば、その厳しさが逆に息苦しく思える時もありました。もっと自由にいられたら、そんな気持ちが芽生えたのは高校生の頃でした。ある日 学校帰りに本屋に立ち寄った時に友人から勧められた本が、加藤諦三さんの「体当たり人生論」でした。
 
 
難しい哲学書などは難しくて苦手な私でしたが、この本はとても読みやすく理解しやすい内容でした。当時自分が悩んでいた事について共感できる内容が多く、何となく人生の指南書のようで私は何度もこの本を読み返しました。そして当時この本の内容に関して感じた事や思った事をメモ用紙に書き綴って巻末に挟みました。実は今もその紙はこの本の中に綴じられています。今から思えばこの本は、自分の人生を変えた本の1つだと思っています。物事を多面的に捉える事をこの本から学びました。何よりこの本を読む事で、心が穏やかになりました。実は今もこの本は大切にしており、自分の子供たちにも読ませました。
 
 
先日本屋に行った時に、加藤諦三さんの本を見つけました。ご高齢になられた現在も執筆を続けておられるようです。
 
さて先日の天声人語に、スペインの教会のサグラダ・ファミリアの事が取り上げられていました。今も建設中のこの教会の一部が2026年に完成する事になったそうです。進行形のものが完成する、これはあたかも大好きなドラマが最終回を迎えるようなもので、寂しくて空しい気持ちになるようだと書かれていました。私の趣味のプラモデルも、作っている時が楽しくて出来上がると嬉しい反面 なぜか物足りなくなる気持ちになるのと似ていると思いました。
 
 
天声人語の最後には「永久の未完成 これ完成である」という言葉が引用されていました。これは宮沢賢治が農民芸術概論綱要の中に書いた言葉です。実は私がこの言葉を知ったのは、様々な事で悩んでいた高校生の頃でした。この言葉を何度もかみしめているうちに、不思議と私の緊張した気持ちが和らいだ事を覚えています。
 
近年、新しい事へチャレンジする若い人が少なくなっていると聞きます。いわゆる失敗が怖くて、挑戦を躊躇してしまう人が多くなっているそうです。しかし、人は失敗して学ぶもの、失敗してもそれで終わらずそこから何かを得る事ができれば、失敗する事には必要十分な意味があるのです。言葉を変えるなら、100点を目指す事は大切ですが たとえ80点でも失った20点を次の機会に取り返せばよい訳です。100点を目指して進み続ければ、それは100点を取っているのと同じになるのだと思います。
 
少しずつでいいから前に進む事が大切なのです。苦しくて 辛くて 不安でも、そのような気持ちになるという事は、それは自分に当たる向かい風なのです。風を感じているという事は、確実に自分は前に進んでいる証拠です。むやみに間違いや失敗を恐れずに、自分のペースで前へ進みましょう。うまくゆかなくても、そこから学べばそれでよいのです。そうすれば確実に新しい何かに近づいていく自分を感じ取る事ができるはずです。
 
😊

ドクター シーゲル

2024-04-01 19:22:31 | Weblog

 長男の誕生日にお祝いメッセージをメールで送ろうと、その文面を考えている時にある事を思い出しました。

 結婚してから半年後に渡米して、そこから私のアメリカでの留学生活が始まりました。そして帰国を控えた半年前に家内のお腹に赤ちゃんがいる事が分かりました。アメリカで加入していた医療保険の会社に問い合わせると、まずは居住地区に近い産婦人科を受診するように勧められました。どのような病院だろうかと思いつつ、指定された住所に向かいました。すると、

 これはgoogle map の street viewからの写真ですが、右側に写っている一見普通の家のように見える茶色の建物が私の居住地区に一番近かった産婦人科クリニックです。中に入っても、病院という感じはなく普通の一軒家という感じでした。

 担当してくれたのは男性医師のシーゲル先生でした。背が高く優しそうな先生で安心したのを覚えています。当時私は家内の症状が心配でシーゲル先生にいろいろ質問をしました。しかし先生はいつも「That’s good sign.」と言うので逆に心配になったものです。その後は定期的にここのクリニックに通い、帰国してから長男は日本で元気に生まれました。

 久しぶりにシーゲル先生の事を検索すると、ワシントン界隈では何度もベストドクター賞を受賞しているようでした。写真を見る限りすっかりお年をとられているようですが、その優しそうな表情は変わっていないようでした。

 さて実は私の誕生日は長男と近いのですが、先日自分の誕生日に母と会った時にこう伝えました。「私を元気に産んでくれてありがとう」、母は少し驚きつつも少し照れていたように見えました。私は偶然にも自分の子供たちが生まれる瞬間に、妻に立ち会う事ができました。2人とも週末の早朝に生まれたためです。その時の大変さと感動は今も忘れません。2回とも生まれた瞬間に、両目から滝のように涙があふれました。K先生、その節は大変お世話になりました。ところで誕生日とは自身の記念日であると同時に、親にとってもとても思い出深い日でもあるのですね。自分に子供が出来てからその事を実感しました。だから自分の誕生日には、必ず親に感謝の言葉を伝えています。

 先日ある患者さまが、自分はまだまだ元気なので自分の年齢の7掛けで考えているとおっしゃっていました。私もまもなく還暦を迎えますが、今の所は健康でいられるのでその方の意見に従って40才代の感覚でいたいなと思います。

 な


マルエフ横丁にて

2024-03-17 18:51:43 | Weblog
アサヒマルエフビールのキャラバンキャンペーンに出かけました。
 
 
スタッフの方がマルエフビールを泡たっぷりにサーブしてくれました。私はワンサードのミックスを頂きました。
 
 
ビールは、とてもクリーミーで美味しかったです。その場でSNSに記事をアップすると、オリジナルグラスの記念品を頂く事ができました。
 
 
こういう屋外でのビール飲みは久しぶりでしたが、とても新鮮で楽しかったです。このようなイベントは大歓迎です。
 
😋 
 

ピアノの新時代を感じた

2024-03-06 09:16:29 | Weblog
昨年NHKの若いピアニストの番組を見ました。角野隼斗さんは日本を代表するピアニストです。角野さんの音楽アレンジや即興演奏がとても興味深いです。ニューヨークでの注目度は目をみはるものがありました。若い方なのにエネルギッシュであり、内在する演奏における力量がそのルックスからは想像がつかない程で、予想を裏切られた事もあり私は感動しました。

そして、先日角野さんのコンサートに行きました。


開演前のステージには1台のグランドピアノが置いてありました。このピアノでどのような演奏を聞かせてくれるのだろうと期待に胸を膨らませていました。照明が暗くなり、角野さんの登場です。細身の方でオーディエンスに向かって一礼されたその姿はとても穏やかな雰囲気を感じました。ところが演奏が始まると、とても力強い演奏でマックスの時は体全体を上下させながらの打鍵には度肝を抜かれました。中でもあの有名なトルコ行進曲を多彩に変調させた変奏曲は圧巻でした。

履歴を拝見すると角野さんは東大を卒業されており音響分析の研究をされていたようで、私の研究分野と重なる部分もあるのかなと思いました。角野さんは、もしかすると音を数理的に見つめる事が出来る音楽家なのかもしれません。


ラストアンコールではご本人より写真撮影と動画録画(但し30秒以内にして下さいとのこと)の許可が出ましたので、遠慮なく撮影させて頂きました。このような気配りもさりげなく、とてもハンサムな方だと思いました。そして私もまたピアノを習い直したくなりました。



リンク:スペシャル 角野隼斗 ニューヨークを行く


ここはどこ

2024-01-16 16:16:23 | Weblog

外国映画やドラマ見ていると、主人公がどこかに連れていかれる事があります。その後で『ここはどこ?』と言うセリフが出てきます。この英語のフレーズは結構耳にするのですが、それがこちら。

Where are my? 

えっ、こんな英語あったかな? 

私は長年こんな文法めちゃくちゃなスラングが存在するのだと思い込んでいました。ところがネット検索しても出てきません。不思議だなあと長い間思い続けていました。

昨年末に息子たちが帰省していた時に、ふとこの事を話してみました。すると「それはWhere am I? と言っているんだよ」と言われました。

そして実際に発音してみると、、、

ウェア アム アイ 
 → ウェア アームアイ 
  → ウェア アー ムァイ
   → ウェア アー マイ

なるほど、そういう事だったのか! そこでやっと気づきました。

まるでタモリ倶楽部の空耳アワーのよう、思い込みってこわいです。ちょっと恥ずかしい私の思い込みでした。



アメリカのモールの現状

2023-12-20 12:56:37 | Weblog
(2020年に書いた記事の再掲です)

 私がアメリカのメリーランド州で暮らし始めたのが1995年の事でした。

 当時の居住圏には大きなショッピングモールが2つありました。その1つのホワイトフリントモールは、店舗撤退が続き一帯の再開発計画もあって2015年に取り壊されました。しかし1つだけデパートが残って、計画推進は難航しているようです。ここは自宅から一番近いショッピングモールだった事もあり、よく利用しました。そしてもう1つは車で15分程の所にあるモンゴメリーモール(現在はウエストフィールド・モンゴメリーに改名)です。規模はホワイトフリントモールよりもかなり大きくて、3階にはシネマコンプレックスが入っていました。

 これは帰国後10年目に再び留学していた地を訪れた時に、そのモールへ行った時に撮ったフロアマップです。


 シアーズ、ノルドストロム、メイシーズ、メイシーズホーム、4つの大きなデパートが連結しているのが分かると思います。言い換えると、三越、大丸、そごうなどのデパートが1箇所に集まっているようなものです。私が留学していた頃は、メイシーズホームの所に、JCペニーというデパートがありました。そして十字になった通路に面して数多くの店舗が並んでおり、アメリカの壮大さに驚かされたものです。


 私は広いパーキングロットの屋上にいつも車を停めていました。理由は明るくて治安がよいためです。向こうに見えるのがノルドストロムです。


 ここがメイシーズです。衣類や雑貨をよく買いにきました。


 モールの中はこんな感じです。ここがクリスマスシーズンには煌びやかに飾り付けられて、幻想的な世界に変わります。そして何より楽しみなのがクリスマスショッピングセールです。いろいろな物がかなりお安くなります。


 私がここを訪れた2007年は、アップルが初めてiPhoneを発売した年でした。アップルストアでは、まだ日本では見る事ができない初代iPhoneが店頭に置かれていました。私も手にとって操作しましたが、その凄さに感動した事を今も覚えています。

 しかし時は流れ、ショッピングの形態が店舗へ足を運ぶ従来の形からネットショッピングへと次第に移行していきました。これにより小売業者は大打撃を受けました。加えて店舗拡大を加速させすぎた事、そして何よりアメリカ経済における不況が追い討ちをかけました。既に老舗の小売業者は破綻に追い込まれ、一方で店舗数縮小によって耐えていた業者も今年に入っての新型コロナウイルス感染症による来店者激減により致命傷を受けました。JCペニーは今年5月に破産申請をしたようです。

 

 ネットで現在の状況を見ると、既に3つのデパートは撤退して空白になっています(丸印のところ)。残っているのはメイシーズホームだけです。中心部の店舗も空白が多くなっていて、テナントの入居率は低くなっているのが分かります。かろうじてアップルストアは残っているようですね。

 もし今後アメリカで新型コロナウイルスの感染拡大に収束が見えない場合は、さらにこのようなショッピングモールの荒廃が進む可能性があります。小売業者の規模やマーケティングの広さにおいては、単純にアメリカと日本を比較する事はできないと思いますが、現在アメリカで進みつつあるショッピングモールの異変がいつか日本でも起こるのではないかと杞憂してしまうのは私だけでしょうか。

 アメリカで暮らしてみて気づくのは、1年で最もショッピングモールが輝く時はクリスマスの時期です。今後どのようにモールが変化したとしても、クリスマスの時期だけでも人々が集って賑やかな雰囲気を作って欲しいなと思います。

 な


お肉がいっぱい

2023-09-03 12:50:54 | Weblog
近くに美味しいステーキのお店があると、子供が教えてくれました。そしてお昼ご飯はそこにしようと決めました。


肉屋黒川の本店です、地元では有名なお店だそうです。ただ残念ながら来店が遅くなってしまい、限定の極上ステーキ重は売り切れていました。そこで私はステーキ重を注文しました。


ここにタマゴの黄身を乗せ混ぜて頂きます。わさびを混ぜると味変が楽しめます。ローストビーフのような、とろけるような柔らかいお肉でした。その時はとてもお腹が空いていたので、もう少しご飯が入っていると嬉しいなと思いました。でも完食すると満足感でいっぱいでした。質の良いお肉で勝負している意気込みが伝わってきました。



クレスタ―バンク

2023-08-09 12:50:26 | Weblog
渡米する前に前任の先生から「アメリカに着いたらすぐに銀行で口座を開いてお金を入金して下さい」と言われていました。だから まとまった日本円を手持ちで持っていく事になり多少緊張した事を覚えています。

午前中に成田で飛行機に乗り、13時間のフライトでワシントンDC郊外のダレス空港に着いたのは同日の昼過ぎでした。ワープしたかのようですが、これは日付変更線を越えているためです。時差ぼけと長時間フライトの疲れで、記念すべきアメリカでの第1日目は心身ともにボロボロな状態でした。到着後に前任の先生ご夫婦が近くの中華料理店へ昼食に案内してくれましたが、気分が悪くほとんど何も食べられませんでした。実はその時差ぼけは夜眠れない、昼眠い、という最悪の形で数日続く事になりました。

さて昼食が終わり、さっそく口座を開くため銀行に向かいました。


ここは私が留学していたNIH(米国国立衛生研究所)のビルディング10の地下1階にある銀行(当時はクレスタ―バンクが入っていました)です。写真はgoogleのストリートビューからお借りしています。右側奥に進むと左側に小部屋があり、そこで手続きをして口座を開きました。銀行で私を担当してくれたのはアイーダという女性でした。

写真の左側にATMがありますね。私はNIHではVisiting Fellowという身分だったので毎月NIHからスタイペンド(奨学金のようなもの)をもらっていました。だから給与が出た後は、いつもこのATMから生活費に使う分だけキャッシュを引き出していました。まあアメリカではほとんどクレジットカードを使っていましたが、ときどき小銭が必要になる事もあったためです。

NIHに留学された事がある方なら、ここは思い出深い場所だと思います。私にとって、ここが留学生活の第1歩を踏み出した場所でもあります。結局アパートに入居して前任の先生から家財道具一式を受け取り、生活が軌道に乗るまで約2週間かかりました。アメリカではいろいろと苦労しましたが、今から思い返すと自分にとってよい経験になったと同時に、自身もたくましくなったような気がします。


※調べてみると私が帰国した翌年にクレスタ―バンクはサントラストバンクに買収されたようです。その後銀行は撤退して、現在はFederal Credit Unionという信用金庫がこの場所に入っているみたいです。ATMを拡大してみると確かにそうなっていますね。ところで実は今もアメリカで使っていたクレスタ―バンクの小切手を記念に持っています。



私の宝島

2023-07-30 16:19:59 | Weblog
子供の頃は、自宅の近くにあった玩具店によく通いました。1階にはプラモデルやラジコン、モデルガン、そして2階には鉄道模型、モデルカー、フィギュア(当時は超合金や変身サイボーグ、ミクロマンなど)、さらに手品グッズやテレビゲーム、ボードゲームなどが揃っていました。さらに上階にはラジコンカーやラジコンの船で遊ぶことができるスペースがありました。つまり、このビル全体が当時の子供にとって素晴らしい夢のような場所であるという事が分かって頂けると思います。

このお店に行くたびに、私はいろんな物が欲しくなりました。そしてお小遣いをためて欲しい物を買った時の喜びは筆舌に尽くしがたいものでした。言葉を変えるなら、このお店があったからこそ私は子供の頃に様々な事に頑張る事ができたとも言えそうです。しかしそのお店も2009年に閉店となり、建物も取り壊されてしまいました。数多くの思い出を作ってくれたそのお店が姿を消してしまい、私の心にはぽっかりと大きな穴が開いたようでした。しかし幸いにもこのお店の本店が、別の場所で営業を続けてくれました。

先日実家に戻り自分の部屋を整理していた時に、こんなカードの束が出てきました。


私が小学生の頃から集めていたそのお店のサービスカードでした。なぜ当時使わなかったのだろう? 今も思い出す事ができません。もちろんいつかは使おうと思いつつ忘れていたのでしょう。色違いの5点、10点、25点、50点のサービスカードで、これを使ってお店で買い物ができます。しかし40年以上も前のこのカード、今も本店で使えるのだろうか?まずは数えてみると3500円分になりました。さっそく本店に電話かけてみると、今でも昔のサービスカードを使う事ができると分かりました。

さっそくサービスカードの束を持って本店に出かけました。ちょうど欲しかったプラモデルがあったので、このカードを使う事にしました。受付でカードを出すと、店員さんもその数に驚かれていました。「懐かしいですね、それにしても こんなに多くのカードを持ってきた人は初めてです」といいながら枚数を数えてくれました。


カード分に足りないお金を払って、数十年ぶりに再販されたポルシェ935のプラモデルを買う事ができました。そして今回現金で支払った分に対して、50点のオレンジ色のサービスカード(色は今も変わっていないみたいです、カードはポイント券という名前になり少し小さくなっていました)を頂きました。今回購入したタミヤのポルシェ935は46年ぶりの再販になります。実は私は中学生の頃にこのプラモを作りました。当時のモデルは内部にモーターを取り付ける事ができ、乾電池を入れて走らせる事ができました。私が父の医院に戻ってきた時に、なぜか私が作ったこの935のプラモが診察室に飾ってあったので驚きました。もしかすると父もこの車が好きだったのかもしれません。


ところで私が集めていた昔のサービスカードの中にはこんなものもありました。おそらく昭和時代のクリッパーはビルの5階まで遊ぶ事が出来ていたようです。サーキットコースの利用料が10円や20円というのが時代を感じさせますね。

最後に、このようなお店は今ではもうどこにも存在しないでしょう。ゲーム機とインターネットの普及によって、家にいながらどのような遊びも簡単にできる時代になってしまいました。昔はアナログな遊びしかなかったため、このような施設の存在を輝かせたのだと感じます。もしこのクリッパーのような施設を今の時代に作れば、多くの子供たちが集まってくるでしょうか。私は子供の遊びの源流は、やはりアナログにあると思っています。デジタルもいいけれど、アナログな遊びの面白さを今の子供たちも忘れないで欲しいと願っています。