インターネットで、象印の保冷専用水筒を購入しました。
今までは、職場でも、外出先でも、ペットボトルのお茶や水を飲んでいました。
しかしそれでは、無駄な金もかかるし、ペットボトルを消費することが環境に良くないので、水筒を使うことにしました。
今日は浄水器の水と氷を入れて職場に持って来ました。
ペットボトルの水だと、どんどんぬるくなってきますが、さすが保冷専用。
夕方になっても、水は冷たいままです。のどがうれしい。
明日は冷たい緑茶でも入れましょうか。
製品名がちょっと恥ずかしくて、「COOL SPORTS」と言うのです。
散歩ぐらいしか体を動かすことのないメタボ予備軍の私には、似合わないですね。
今日は若葉に誘われて、市川市の本八幡周辺のお屋敷街を散歩しました。
ご大層な豪邸ばかりでした。
永井荷風が毎日のように通い、熱燗を一合とお新香、それにカツ丼を必ず食していた、という大黒屋を覗きました。
ただし、揚げ物は好まないので、偶然見つけた九州ラーメンの店でラーメンを食いました。思いがけず美味で、体重増を気にしがら、「ダイエットは明日から」と口ずさみ、替え玉を頼みました。満腹。
その後さらに散歩を続け、住宅街のなかで、一般住宅のリビングを喫茶店にしたと思しき店でコーヒーを飲みました。
写真がそれです。
気持ちよく、11,000歩歩きました。
ゴールデンウィークですね。
私の休みはカレンダーどおりですが、それでも心浮き立ちます。
休みの日に上がる朝日は、平日のそれに倍して輝いて見えます。
今日は、昭和の日。昭和天皇崩御の報に接したのは、大学生のときでした。友人と一緒に、野次馬気分で皇居に記帳に出かけたことを、懐かしく思い出します。寒い日でした。
時代は平成へとうつり、バブルが浮かんで弾け、失われた十年を過ぎて、今は100年に一度の大不況だとか。
それでも、私は毎日ご馳走を食べ、暖かい布団で眠ることができます。これに過ぎる喜びはありません。
職場の兼業農家のおじさんは、ゴールデンウィークは毎年田植えだ、と言っていました。ゴールデンウィークには、そういう意味もあるのですね。いかにも農耕民族らしいです。
連合赤軍事件の死刑囚、坂口弘の手記を読みました。
誠に怖ろしい事件です。
しかし、このような事件は、どこでも、いつでも起こりうる事件です。
私が、現代日本にファシズムを感じる動きに、二つあります。
一つには、戦前回帰ファシズムです。明治から終戦にいたる日本には、何も悪いことはなかった、日本は、核武装も辞さず、「普通の国」になるべきだ、という論調です。日本に悪がなかった、というのは、侵略を隠す欺瞞です。これが進めば、手段はともかく、新たな侵略を始めることでしょう。
二つには、反戦ファシズムです。戦争は絶対悪だから、これを認めてはならない、とする論調です。これは、損得や信念の妥協を求め、現実の戦争を回避する努力を無にし、なぜ人間は戦争を続けてきたのか、どうしたら戦争は回避できるのか、という思考を停止してしまう、怖ろしいスローガンです。
人間は、主に損得で動きます。損得の戦争は、御しやすいと言えましょう。
先の大戦でも、日本は米英の要求を飲んだら損をする、ということを主たる動機にして、戦争を始めました。ところが、緒戦の戦勝に酔い、後の敗戦に衝撃を受け、面子と大義を保つために不毛な戦争を続けました。
面子と大義の戦争を回避することは極めて困難ですが、損得の戦争を回避することはそれほど難しくありません。お互い、損を認めればよいのです。
国際社会は、損得で動くべきです。損得で動けば、おおむね、戦争は回避できると思います。なにしろ戦争は金がかかります。損をしないようにすればよいのです。
ところが、大義の戦争は避けようがありません。鰯の頭も信心から、とか言います。戦前回帰ファシズムも、反戦ファシズムも、おのれが正しいと信ずるその固さに、ファシズムを感じます。
連合赤軍事件が特異と考えてはいけません。
人間には、そういう面があります。
要は、どんな価値観であっても、疑ってかかることが、大切だと考えます。
微熱と背中の痛みが続いています。
先ほど職場に電話して、今日は休むことにしました。早めの対処が必要ですからね。
それにしても、ちょっと体調を崩しただけでこれほど不快なのですから、大病を患っている方はさぞ大変でしょう。
折しも世間では豚インフルエンザが心配されています。
体力は大事です。
微熱がでて、朝からだるいです。今日は一日中、横になっていました。
横になっていると、あまり良いことは考えませんね。
発症の原因になった法人化の混乱の時期や、再発したパワーハラスメント事件のことを、考えるともなく、考えていました。
心に傷を負うということはとてもしつこいもののようです。今でも、フラッシュバックすることがあります。
とにかく、静かに、穏やかに。
雨に閉じ込められて、DVDを鑑賞しました。
昨年公開されて、見逃していた映画「ひぐらしのなく頃に」です。
これは、因習的な田舎の村に引っ越してきた少年が、村のタブーに触れてしまい、怖ろしい事件に巻き込まれていく、という、和製ゴシックロマンの映画です。
昭和58年という時代設定の割りには、服装などが現代的で、しかも都会的であるのが興をそぎましたが、まずは楽しめました。
現在、続編の「ひぐらしのなく頃に 誓」をロードショーしていますので、近日中に観に行こうと思います。
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日本国憲法の解釈を変更し、集団的自衛権を行使できるようにしよう、というニュースを見ました。これはまずいな、と思います。必要なら、憲法を改めるべきで、解釈をころころ変えるものではありません。そうでなければ、日本は法が支配する国ではなく、解釈が支配する国ということになります。極論すれば、どんな法律を作っても、時の権力者の解釈しだいで、なんでもあり、ということになってしまいます。
日本国憲法はいわゆる硬性憲法で、変更の手続きが極めて困難である、という欠陥を持っています。時代を半歩遅れてついて行く、というのが法律のあるべき姿ですから、改憲の際には、この欠陥も改めるべきでしょう。法を変えずに国が滅んだのでは、とんだ喜劇です。
日本国憲法については、戦後60年以上を経ても、神学論争のような不毛な議論が続いています。ここらですっきりさせたいものです。
日本は先の大戦で、幸いにも、本土決戦を回避しました。まだ理性が残っていたのですね。
しかし、村上龍は、「五分後の世界」で、本土決戦を決行し、その後地下に潜って戦い続けた場合の日本を描いています。ある雑誌で、この作家は多大な犠牲を出しても、本土決戦を行ったほうが、平和ぼけにならずにすんで良かったのではないか、という発言をしていました。
また、「愛と幻想のファシズム」において、日本が独裁国家になった姿を描いています。タブーを恐れない問題提起です。
そのような事態を防ぐためにも、真に必要なら、解釈変更ではなく、改憲が必要でありましょう。
また、日本国憲法を、人類の叡智として永遠に守っていく覚悟が日本人にあるなら、世界の世論を恐れず、けなされても、頑なに軍事的な世界貢献を拒否すべきでありましょう。
ただ、私は、戦争反対を唱えるのは、空しいことだと思います。人間とても、しょせんは獣。それよりは、その時々に、地道な外交努力によって、目の前にある戦争を回避していくことこそが、真面目な態度だと思います。
最近は、仕事を終えて帰宅してもまだ明るいのがうれしいです。事務室の窓からも、明るい日が勤務時間の最初から最後まで降り注いでいます。帰路の車中も、良い気分です。
昔から、我がくにびとがお日様を崇めてきたのも、いかにも、と感じます。
今、仕事を終えてそろそろ帰ろうとしています。平成16年に精神病を発症して以来、もっとも穏やかで幸せな毎日を過ごしています。
気楽な仕事とわずかの酒、それに、見ぬ人が残した書物など広げられれば、満足です。もう一生、創作などには手を染めますまい。精神が荒れてしまいますから。
季節はもう、春から初夏に向かっているようです。昨日は暑かったですね。
春といえば、春の珍事やら、変質者が出るやら、浮かれた物狂いの季節でもあります。私は、物狂いは春の終わり、初夏を直前にして現れるように思います。
いい年をしたアイドルが、全裸で騒いでいたなどというニュースは、まさにそれです。
「徒然草」第十九段に、
「ひときは心も浮きたつ物は、春のけしきにこそあめれ」とあります。昔から、春になると人は浮き立つのですね。
与謝蕪村に、
「公達に 狐化けたり 宵の春」
という句があります。
春の宵、貴人を見かけたが、あれは狐が化けているのだろう、といったところでしょうか。
なんとなく浪漫的で、幻想的な感じがして、物狂いの春にぴったりですね。
また、春は悠然としたイメージもあります。
同じ蕪村の句で、
「春雨の 中を流るる 大河かな」
というのもあります。
雨が降っても、そんなことには構わず、悠然と大河が流れている、という感じです。
私は東京の東端を流れる江戸川のほとりで生まれ育ちました。春の雨を見ると江戸川を思い浮かべます。
それは物狂いとは対照的な光景です。
イタリアの哲学者、ジョルジュ・アガンベンは、「境界線を疑え」と言っています。「われわれ」と「彼ら」と言ってもいいでしょう。
健常者と精神病者、日本人と朝鮮人、白人と有色人種。 共同体を維持するためには、「われわれ」という括りを設けて、「彼ら」を作り出さなければいけません。あるいは、「彼ら」が在るから「われわれ」が在る、と言ったほうが適切かもしれません。
どこの国でも、外国人の入国には一定の制限がありますし、社会的弱者や異質な ものに対する差別があります。
私自身、精神病を発症し、差別的発言を受けたことがあります。そのとき、私は「彼ら」にされていたわけです。
しかし、社会的存在である人間は、必ず、境界線を設けてしまいます。そうでなければ、集団は維持できません。愛国心とか、母校愛とかいったものも、まさに境界線です。 これに対処する方法はあるでしょうか。おそらく、根本的方法は皆無でしょう。
そもそも言語というもの自体が、境界線を引くためのものです。あれとこれを分けるためのものです。月と星のように。
アガンベンは、境界線を引くために与えられた言語しか存在しない以上、その言語を使って、疑問を呈し、時にはアナーキストのように自身を汚しながら、闘い続ける以外にない、と言っています。
近頃マスコミでよく取り上げられる、ホームレスやニートの問題を見ていて、アガンベンの思索に学ぶべきだと、痛感します。
今日の良いこと。
それを探せと、精神科医は言います。
毎日、寝る前に、今日の良いことを思え、と。
それは、花がきれいに咲いたでも、飯がうまかったでも、面白い小説を読んだでも。
今日うれしかったのは、右折が難しい交差点に、右折信号ができたことです。私は車で通勤していますので、運転には神経を使います。もっとも嫌だった交差点に、右折信号ができました。うれしい。
小さな幸せを大事にすること。
大したことがないのは嫌なこと、うれしいことは大したこと。
そうやって生きていけば、世の中は生きやすくなるでしょう。
昨夜、職場の歓迎会が行われました。職員の三分の一ちかくが、変わりました。
私はその飲み会で、自分より躁っぽく見えるような馬鹿騒ぎをしている人や、逆に新しい仕事がストレスなのか、ひどく落ち込んでいる人を見ました。躁うつ病の厳格な定義というのは素人には分かりません。
躁エピソードが起こったため、私の診断はうつ病から躁うつ病に変わりました。現在、気分安定剤としてデパケンR、抗うつ薬としてジェイゾロフトとドグマチ―ル、頓服が、あまり飲みませんが、抗不安薬としてワイパックス、睡眠薬としてサイレースが処方されています。
しかし、実感としては、現在の私は発病前と変わらないと思っています。だからといって勝手に薬を減らしたり、止めたりすることがどれだけ危険か、精神病患者の自助グループに出ていて、よくわかります。
職場に提出する身上調書の健康状況欄に、健康と記すべきか、不健康と記載すべきか、迷います。
よく、躁うつ病に完治はないと聞きますが、自分は本当に精神疾患を抱えているのだろうか、と最近よく思います。フルタイムで働いていますし、生活上、困難を感じることもありません。
医師に減薬の相談をすると、まだ早い、と言われます。専門家の意見なので従っています。三ヶ月に一度の血液検査でも副作用はでていないので、薬を飲むぐらい簡単なことですが、一生飲み続けるのかと思うと、嫌になります。
最近、近所の魚屋に通い詰めです。以前は、魚はスーパーで購入していたのですが、魚屋は安く、しかも旨いのです。
昨日は平目の刺身と生うにを食しました。平目は歯ごたえがあり、脂がのっていました。うには398円という驚愕の安さながら、ほんのり甘く、美味でした。
今日はつぶ貝とかつおのたたきを買ってきました。
出色なのは、甘塩きんきです。これを焼くと、ふぐの一夜干しのようなふっくらした食感と、鯛のような旨みを味わえるのです。スーパーの魚にはない味です。
日々の楽しみが、一つ増えました。