今日は珍しく千葉県立美術館に出かけました。
ここは箱物は立派ですが、何しろ予算が涙金ほどのため、通常、県内の中高生や美術サークルの人々の貸し会場みたいになっています。
ここで学芸員をやっている友人がおり、彼から聞いた年間予算では、とても大規模な企画展示など出来ようはずもありません。
それに比べ、千葉市美術館は、どういうからくりか、小規模ながら興味深い企画展示をたびたび行っているため、よく出かけます。
貧乏な千葉県立美術館が、なんと平山郁夫展を開催したというのですから、さしてかの画家に興味がない私としても、出向かざるを得なかったというしだい。
平山郁夫というと、なんとなく茶色っぽい、砂漠を行くシルクロードの絵画を思い浮かべますが、多くの画業の間には、様々な作品を残しています。
シルクロードの絵もそうですが、仏画、日本の風景画、人物画、果ては抽象画まで。
中でも私は、飛天という作品に心惹かれました。
飛天です。
飛天とは、如来の周りを飛び回って仏を礼賛する、一種の天使です。
古くは翼が描かれていたという説がありますが、今見られる仏教美術の飛天には翼はなく、ただひらひらと飛んでいます。
そしてまた、飛天は如来の周辺を固める脇役というイメージが強いですが、上の絵には如来が描かれておらず、飛天だけが描かれているのが特徴的です。
画像では分かりにくいですが、実際に絵を見ると、非常に躍動感があふれ、さらに金と青のコントラストも見事なうえ、幻想的な雰囲気を醸し出し、良い感じです。
ただ、展覧会全体を俯瞰してみると、平山郁夫という人は東京藝術大学の学長を務めたくらいで、純粋な芸術家という感じがしません。
どこか批評家っぽいというか。
それが、私を欣喜させる力強さの不足に繋がっているように思います。
もちろん、それは私の好みの問題で、この画家に感応する力を持ち合わせなかったというに過ぎず、この人が現代美術界の巨人であったことは間違いないでしょう。
展覧会のなかに、平山郁夫の言葉として、建物であれ自然であれ、そこに長い人々の営みや歴史を感じた時、絵筆を取る気力がわく、といった意味の言葉が掲示されていました。
なるほど、それなら私の美的感覚と合うはずがありません。
私は生身の人間の激しい営みを感じると興味が失せ、うそ臭い偽物にこそ現われる純粋な美を好むのですから。
天気予報では、首都圏は大雪だと騒いでいましたが、千葉市周辺はただの雨です。
千葉県北西部には大雪警報が出ていますが、千葉市も大きくくくれば北西部だと思いますが、いったいどこに雪が降っているのでしょうねぇ。
不思議です。
まぁ、降らないと言って降るより、降るぞ降るぞと脅しておいて降らないほうが気分的にはよろしいようです。
去年はひどく降りましたからねぇ。
実際の雪は、とくに出勤しなければならないサラリーマンにとって、なかなか恨めしいものですが、観念上の雪となるとまた趣を異にします。
例えば、私が敬愛してやまない若山牧水のこんな歌。
おとろへし わが神経に うちひびき ゆふべしらじら 雪ふりいでぬ
当時流行りの神経衰弱を患っていたのでしょうか、あるいはまた、純粋に芸術上の問題で憂愁に沈んでいたのでしょうか。
雪が衰えた神経にさわるというのは、おそらく精神上のことであろうと思います。
そう思うと、辛い雪が歌人を責めているというより、歌人はどこか心地よいメランコリーに浸っているようにも感じられます。
ひとしきり あはく雪ふり 月照りぬ 水のほとりの 落葉の木立
こちらは先ほどの歌と比べて、小憎らしいほどうまい出来栄えです。
雪・月・落葉の木立と、対比が見事で、寒々しい空気感までが感じられるようです。
私はこのような美的な歌を良しとします。
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考えてみると私は、実際の雪月花よりも、本当の自然よりも、本気の恋よりも、偽物の、観念上の美や情感を好んできたように思います。
バヴァリアの狂王、ルートヴィヒが、お屋敷の離れに偽の月を浮かべ、人工の池を作り、船を浮かべて半裸の美少年を侍らせて喜んでいたように。 ルートヴィヒです。
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張りぼての城に比べて、本物は、私には過酷過ぎるようです。
その私が、月曜日から金曜日まで、現実の雑事に追われ、これをこなしているとは、我ながら芝居巧者だと思います。
しかしもう、職場でお役目を演じ続けるのは疲れました。
経済上の要請により、これを辞めることは出来ませんが、精神的には、ご隠居気分で日々を乗り切りたいと思っています。
今日は馬鹿に寒いですね。
寒さは今日あたりが底でしょうか。
明日は雪になるかもしれないと、天気予報では言っていました。
去年は雪でひどい目にあいました。
首都圏は極端に雪に弱く、すぐに電車は止まるし、タクシーは事故を恐れてか、休むドライバーが多いように感じます。
稼ぎ時だと思いますがねぇ。
私は冬タイヤもチェーンも持っていないので、雪が降ったら公共の交通機関に頼らざるを得ず、それが結構なストレスです。
去年、ごつい長靴を買ったので、電車が動いてさえいればとくだん問題はありません。
去年は履物が悪く、何度もこけました。
寒さが底を迎えれば、もう春はすぐ。
私は春愁の気にあてられて、春には憂鬱に沈むことが多いですが、さすがにこう寒いと春が待ち遠しく感じられます。
啓蟄や 日はふりそそぐ 矢のごとく
高浜虚子の句です。
啓蟄は例年3月初旬。
それまではまだ一か月以上ありますが、降り注ぐ日を待ちわびながら、日々の雑事をこなしていきたいと思っています。
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今、イスラム国による人質事件が起きて、イスラム教というもの、ひいては宗教というものの在り様を考えざるを得ません。
私たち日本人は、宗教に極めて寛容で、あなたは何教徒ですか、と問われれば、圧倒的多数が無宗教と答えるでしょう。
私自身も、仏教や神道、儒教や西洋哲学が混然一体となった、私一人だけの宗教のようなものを信じているとしか言いようがありません。
それはもはや宗教などというものではなく、個人的な思想信条と言うべきものなのでしょうね。
これは世界では特異な現象なのではないかと思います。
欧米では、インテリ層の多くがキリスト教を信じてはおらず、単なる慣習と捉えていると聞いたことがあります。
それでもインテリ層以外では、今もキリスト教は心の支えになっている例が多いようです。
ロシアでもソビエト崩壊後、ロシア正教が復活し、多くの信者を集めています。
イスラム圏となると、イスラム教を信じる者でなければ真なる友情を育むことは難しいと聞き及びます。
よく聖書に隣人という言葉が出てきますが、ものの本によると、隣人というのは何も隣近所に住む人という意味ではなく、同じ宗教を信じる親類縁者という意味だそうです。
したがって、敵を愛せという教えも、敵対する個人や国家というより、異教徒とか、親類縁者以外の者という意味になるようです。
これは宗教を意識せずに生きている日本人にとって、驚愕すべき事態で、裏を返せば私たちが宗教に無頓着であるという事実は、イスラム教徒らにとって驚くべき状態ということになるでしょう。
私たちはこの島国の小さな常識に従いつつ、多くの国々においては宗教が死活的に重要な意味を持っていることを思い知るべきでしょう。
1986年にスペースシャトルが打ち上げ直後に爆発するという痛ましい事故が起きました。
この時大江健三郎は、宇宙意志からの警告という挑発的な言葉を使いました。
下品な物言いだと思います。
しかし私は、宇宙意志だか主だかアッラーだか知りませんが、何かしら人智を超えた存在が確かに在るという予感を持ち続けています。
もしかしたらそれぞれの宗教が最高神と呼ぶものはすべて同じなのではないか、と。
それをそれぞれの文化に合った形の宗教にしているだけで、本質は変わらないような気がしてなりません。
SFでよく描かれるような、人間よりほんの少しだけ知能が高い生命体が太古の昔に地球にやってきて、それを人々は神様だと信じたのだとかいう与太話も、あながちウソではないような気がします。
単なる知能の高い生命体であればこそ、神様は完全では無く、争いの種を生んだのかもしれません。
唯一絶対神を設定してしまえば、それ以外の神様はすべて偽物だということになるのは理の当然で、神様は唯一だとする教義を持てば、争いが絶えるはずはありません。
わが国では仏教の受容に際し、神仏習合とか本地垂迹とかいう理屈をひねり出し、神も仏も姿かたちや成り立ちが異なるだけで、本質的には同じものなのだという一種の方便を作り出し、それがゆえ、たとえ他宗派と激しく議論したり、時には罵り合いのようなことをしながらも、宗教戦争というのはついに起きませんでした(但し、権力者に弾圧された場合の抵抗は除く)。
ここに、宗教的対立を解決する糸口を見出すのは、私がこの国に生まれ育ったことだけに拠るものでしょうか。
もしそうなら、宗教対立について、私は語る言葉を持ちません。
そうでないなら、わが国以外にも神仏習合や本地垂迹に相当するような思想を生み出す余地があると言え、私はそれこそが宗教に起因する争いを防止する策であろうと考えています。
もし宇宙意志が平和を望まない邪悪な存在でないなら、それは達成可能な目標のような気がします。
平和な国のマイナーな意見かもしれませんが、私はまじめにそう考えているのです。
イスラム国を名乗る過激派による日本人人質事件、混迷の度合いを深めてきました。
2人のうち、1人はすでに殺害された模様。
もう1人を解放する条件は、ヨルダンで収監中のテロリストにして死刑囚の女の解放です。
これにはヨルダン政府も困っちゃったでしょうねぇ。
わが国とイスラム国の問題だったはずなのに、ヨルダンが当事国になってしまったのですから。
で、ヨルダン人のパイロットもイスラム国に拘束されているとかで、このパイロットと抱き合わせで日本人を解放すべく、女テロリストを引き渡すべきだとする意見と、何があってもテロリストは引き渡すべきではない、という意見があるようです。
どちらも一理あります。
しかし私は、ことここに至っては、ヨルダンには申し訳ないですが、女テロリストを引き渡してでも、ヨルダン人パイロットと日本人の命を守ってほしいと思っています。
もちろん、イスラム国は日本人と女テロリストの交換を申し出ている段階ですので、ヨルダン人パイロットを解放するかどうかはわかりません。
しかし、女テロリストはイスラム国では象徴的な存在らしいので、交渉に乗ってくる可能性は十分あります。
本音を言えば、外務省が渡航するなと言っている地域に自らの意志で出かけ、命がけで取材だかなんだかをしたのですから、殺されてしまえ、迷惑なやつめ、という気持ちもしなくはありません。
しかし、どういう状況であれ、自国民の保護に努めるのは政府の義務。
現時点で、武力によって人質を奪還することがほぼ不可能である以上、ある程度は相手側の言い分を聞き、絶対飲めない条件を除いて、妥協点を探るほかありますまい。
果たして落としどころは奈辺にあるんでしょうねぇ。
それにしても、困ったことをしてくれますねぇ。
君子危うきに近寄らず、と申します。
自ら危険地帯に出かけて行って事件に巻き込まれ、政府を困らせるのはやめてほしいものです。
私の職場、インフルエンザが猛威を奮っています。
20人ほどの小さな課で、3人が罹患してすでに治りましたが、今日2名から電話があり、罹患したそうです。
すると20分の5ということになります。
すいぶん多いですね。
幸い、私はインフルエンザに罹患していません。
去年は発症してえらい目にあいました。
50キロしかなかった体重が47キロまで落ちましたし。
今は少し増えて、50キロから52キロの間をうろうろしています。
お年寄りや子供でないかぎり、通常、インフルエンザで死に至ることはありません。
薬を飲まなくても、かなりしんどい思いはしますが、大抵は自然に治るようです。
ただ、普通の風邪よりもはるかに高い熱が出るし、全身の倦怠感、喉や鼻の痛みが辛いので、その辛さと感染力とが、人をしてかの病を怖れさせているように思います。
そういえば去年、インフルエンザで外出禁止になっているのに、懸案の仕事があるとかで出勤し、「早く帰れ」と言われ、「私のは犬型インフルエンザだから人にはうつりません」と笑えない冗談を言い、「お前を心配して言ってるんじゃない。ほかの職員のためだ」と上司に叱られている間抜けなやつがいました。
迷惑なやつです。
さすがに今年はそんな妙なやつはおらず、きちんと外出禁止を守っています。
当たり前ですが。
今日は馬鹿に暖かく、春の訪れを感じます。
インフルエンザの季節ももう終わりでしょうか。
今日は晴れて風も無く、暖かい日でした。
朝飯を食ってからセルフのガソリンスタンドに行きました。
1Lあたり117円。
ずいぶん値下がりしたものです。
千葉は千葉港があるせいか、東京や神奈川よりも10円くらい安いようです。
給油の後、洗車機にかけ、洗車場で車についた水滴を拭いていたら、じろじろ見られます。
さもありなむ。
私は着流しに襷をかけて作業をしていたのです。
何時代の人でしょうね。
午前中はのんびり過ごし、昼はすぐ隣にある雑居ビルに入っているモス・バーガーでチーズバーガーを食しました。
もちろん、着流し。
近所では有名になっているかもしれません。
その後1時間ほど散歩しました。
じつに暖かくて、太陽に向かって歩いていると暑いくらいです。
途中、公園でシガリロをふかしました。
野球場が併設されており、少年野球チームの少年たちが、数名のおじさんに指導され、野球に打ち込んでいました。
あの中で何人、日曜日の少年野球を楽しみにしている子がいるんでしょうね。
私は少年野球の経験はありませんが、私だったら貴重な日曜日に集団でタマを投げたり打ったり、嫌になるでしょうね。
土がついたりして不潔だし。
きっと楽しみなはずの日曜日が憂鬱な日になってしまうでしょう。
そんなことを考える私はひねくれ者です。
たとえ憂鬱な経験だとしても、無駄な経験というのは無いもので、将来、もし組織人になったなら、少年野球での経験を反面教師として、個人を縛るような真似はしなくなるでしょう。
このまま暖かい日が続くわけもありませんが、確実に春は近づいているようです。
これから三寒四温の毎日でしょう。
最近体調を崩しがちなので、体調管理を万全にしたいものです。
今日は朝6時には起きて土曜日恒例の朝湯をつかいました。
幸せ。
朝飯は納豆と卵、ソーセージ2本とお新香です。
ゆっくりと新聞が読めるのもお休みの日の贅沢。
8時半には行き着けの理髪店に行ってさっぱりしてきました。
そこで驚いたのが、私の真っ黒い髪、理髪師に言わせると赤色がかっているのだとか。
じつは私の年齢を知っている床屋が、白髪も薄毛も来ないのは珍しいが、床屋に言わせるとそういう髪質だとすぐに分かるのだとか。
特徴は、一見太そうに見えながらじつは毛が細いのと、真っ黒に見えながら淡く赤が入っていることだとか。
餅は餅屋と申しますから、素直に納得してみせました。
お昼はマンション向かいのイタ飯屋で海老とほうれん草のトマトクリームパスタを食しました。
ちょっとくどかったかな。
昼食後はそこから徒歩2分ほどの魚屋で貝の刺身の盛り合わせと〆鯖を購入。
これから月に一度の精神科に通院です。
何かと忙しいですが、土曜日というのは気分よく過ぎていくものですね。
われらがボスは少々オツムが弱いようで、奇妙なことを言って私を笑わせてくれます。
例を挙げますと、
朝の挨拶は「おはようございます」と言うだけではダメで、ボスが朝部屋に入ってきたな ら、ずさっと立ち上がり、声 を そろえて「おはようございます」と言え、とか。
帰宅の際、部屋中に聞こえるように「お先に失礼します」と言うだけではダメで、ボスの前に行き、ボスよりも早く帰 宅 する理由を述べてから帰れ、とか。
そのほかにも、どうでもいいような細かいことを縷々。
私は馬鹿馬鹿しいのでことごとく無視していますが、何も注意されません。
どうも一匹狼的な立ち位置になってしまったようで、緩やかに干されています。
でもそれは私の望むところです。
干されて給料をもらえるんなら、こんな楽なことはありませんから。
その冷たい風貌と官僚的硬直から、私は密かにボスをゲシュタポと呼んでいるのです。。
最近、平成生まれの若手が増えてきました。
あと5年もすれば、21世紀生まれが幅を利かせることになるでしょう。
昔から、中高年は「近頃の若いものは・・・・・」と苦言を呈し、それは中高年の義務とさえ言えましょう。
かつて新人類と呼ばれた世代ももう50代。
ゆとり世代も若手として社会で活躍しています。
そういう意味では、世代間ギャップを言い募るのは馬鹿げていると思います。
数十年くらいで、人間の本質が変わろうはずもありません。
明治20年代には、明治生まれが国の中枢を担ったら、国は滅びると言われたそうです。
それは半ば当たりました。
第二次大戦を指導したのは明治生まれですから。
しかし、戦後復興を強力に推し進めたのも明治生まれ。
それで相殺といったところでしょうか。
今後、平成生まれ、さらには21世紀生まれがどんな活躍を見せるのか、もはや活躍の場とてない疲れた中年の私には、そればかりが楽しみです。
日本人2人がイスラム国を名乗るテロ集団に拉致され、身代金2億ドルを払わなければ2人を殺害すると、日本国政府を脅しています。
過去、英国や米国のジャーナリストなどが実際に殺害された事例があり、日本人2人の命も風前の灯火というべきでしょう。
おそらく、日本政府は身代金を払わないでしょう。
かつて福田総理がテロリストと取引きし、「人命は地球より重い」との迷言を吐いて世界から失笑を浴びました。
同じ轍を踏むわけにはいきますまい。
それに2億ドルなんて大金、そう簡単に工面できるはずもありません。
外交ルートを通じて交渉しようにも、相手はテロ集団ですから、ほとんど話し合いにならないでしょう。
仮に2億ドルを支払ったなら、イスラム国の重要な外貨となり、さらには日本人を狙えば身代金が得られると思われ、さらなる犯行を誘発すること必定です。
二人の日本人には気の毒ですが、あえてこの時期に危険な場所に出向くからには、それなりの覚悟がおありのことと推察します。
あるいは死に場所を求めてイスラム国に行き着いたのかもしれません。
もちろん、2人を救うべく最善の努力を尽くすべきですが、テロリストとは取引きしない、という大原則を曲げてはなりません。
大原則を曲げて身代金を払ってしまえば、日本人はかの地で最も狙われる標的になるばかりか、国際社会の非難を浴びるでしょう。
イスラム国と戦う国々から見れば、2億ドルもの資金援助をしたのと同然ですから。
正直、2人を助けるのは極めて困難でしょう。
不本意ではありましょうけれど、わが国の礎となってもらうほかありません。
もはやそういう状況になってしまいました。
誠に残念です。
今朝新聞の日付を見て、あれ、今日は何の日だったかと気になりました。
そういえば今日は同居人の誕生日でした。
私が22歳、同居人が23歳で出会ってから、この年度末で丸23年。
同居し始めてからでも17年目になりました。
もう40代も半ばを過ぎようとしています。
こんな長い付き合いになろうとは。
お互い、第一印象はあまり良いものではありませんでした。
私は彼女を見て、面白味のない堅物と思いましたし、後に聞いたところでは、同居人は私を、どこか悪げで不真面目で、誠実さが感じられないと思ったそうです。
それがくっついちゃうんだから男女の仲というのは不思議なものです。
まぁ、一種の悪因縁でしょうねぇ。
その間に、私が一生背負っていかなければならない業病、双極性障害の発症があり、躁状態が現れて同居人を困惑させました。
現在、躁もうつも5年以上表れず、安定していますが、症状がきつかった頃のことはぼんやり覚えています。
私がぼんやりとしか覚えていないのは当事者だったからで、身近で変化していく私を見ていた同居人にとっては、強烈な印象を残し、鮮明に記憶しているようです。
人が生きていく以上、何事もなく平穏無事ということはあり得ないのだろうと思います。
程度の差はあれ、山あり谷ありというのが当然の人生というものでしょう。
先のことは分りませんが、双極性障害は服薬することでほぼ抑えられますし、病歴があっては出世なんて望むべくもなく、子供もいないとあって、そんなに大きな山も深い谷も、もうないんじゃないかと漠然と思っています。
たとえ山にひるもうと谷に落ちかけようと、私は薬の力と同居人の共感力とに助けられ、無事に過ごせるものと信じています。
もう誕生日が嬉しい年はとうに過ぎているようですが、少なくとも40代後半に突入するまで大病もせず生きられたことに感謝する日としたいものです。
2015年の9月に人類が滅亡するという噂が飛び交っているようです。
マヤ暦から解釈したり、ほかの多くの予言などから導き出したようです。
もともとマヤ暦では2012年が滅亡の年とされ、その年にも騒いでいましたが、なんでも閏年を換算していなかったとかで、それを考慮すると2015年になるんだそうです。
なんとなくご都合主義のような。
平安の昔、人々は末法の世になることを怖れ、世界の終わりを怖れました。
また、1999年には、ノストラダムスの予言から、人類滅亡を本気で信じる人々が現れ、その数字の並びの不吉さも手伝ってか、テレビなどでさかんに人類滅亡への警鐘が鳴らされました。
SEKAI NO OWARI というそのものズバリの名前を持つバンドが人気を博すなど、またもや人類滅亡という観念に人々は浮かれているようです。
不思議なことに、人類滅亡とか世界の終わりとかいう観念には、人々を高揚させる力があるようです。
SF映画などでもその手のテーマを扱った作品は数知れず。
いずれもどこか感傷的に、この世の終わりを描いています。
なるほど、地球の命が永遠で無い以上、人類はやがて滅亡するでしょう。
しかし、核戦争が起ころうと、天災地変が頻発しようと、今年の9月に人類が滅亡するはずもありますまい。
未来は誰にも分らないとは言うものの、9ヶ月後に人類が滅亡することはないであろうくらいのことは、常識的に考えて当たり前だと思います。
平安の末法思想、1999年のノストラダムス、その他個別の宗教もしくは似非宗教が、終末は近いと説くことで信者を獲得し、巨額のお金を得てきました。
オウム真理教のハルマゲドン然り、太陽寺院の集団自殺然り。
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カルト教団太陽寺院事件 (新潮OH!文庫) |
辻 由美 | |
新潮社 |
私は今年の9月だと一部で騒がれている人類滅亡の予言など、相手にする気はさらさらありません。
しかし、人々が何故終末に一種の憧れを覚え、渇望するのか、その心理には興味があります。
現実逃避か、あるいは狂信か、さらには絶望ゆえの自暴自棄から来る怠惰な精神か。
私はかつて、終末を渇望する青年を主人公とするお話を書いたことがあります。
もちろん、終末はいつまでたってもやってきません。
青年は深い絶望に沈むのです。
それはあるいは、若かりし日の私を投影したものであったかもしれません。
若い頃、私は大量虐殺の執行者や、大量破壊の指揮官となって、この世を地獄絵図に変貌せしめ、そのスペクタクルに酔い痴れることを夢想しました。
多くの青少年は、多かれ少なかれ暴力への志向を隠し持っているもので、それをまさか実行することは出来ず、ただ夢想したり、あるいは終末を描いた物語や予言を求めたりするのでしょうね。
そして大人になって社会に出れば、自然と、そんな馬鹿げた観念への興味を失っていくのでしょう。
それを成長と呼ぶのか、精神の堕落と呼ぶのかは別にして。
そう思うと、このたびのマヤの暦に始まった終末騒ぎ、主に青少年の昏い欲望が底辺に渦巻いて作り出したもののような気がしてなりません。
昨日、風邪で休みましたが、今朝は調子が良かったので出勤しました。
で、驚きました。
私が所属する部署、20人もいない小さな部署ですが、3人が昨日からインフルエンザで休み始めたとのこと。
インフルエンザは猛威を奮っています。
昨日の電話でインフルエンザは陰性だったと伝えていたにも関わらず、私が出勤したのを見てみなさんびっくり。
のみならず、なんだか近寄ろうとしないように感じました。
検査結果を信用していないようです。
そういえば学生の頃、教室の中だけとはいえ、死に至る伝染病の流行は見えざる神の手による人口調節だ、と過激なことを言っている東洋哲学の先生がいました。
「ペストはなかなか良い病気なんだよね、致死率が高いから」なんて言っていました。
太平洋戦争に従軍し、戦場で片手を失い、いつも着流し姿で表れる変なおじいちゃんでした。
でもそれは、一種の警句にはなるでしょうけれど、物事の真実を突いているわけではありますまい。
ウィルスも生物である以上、拡大への欲望を持っているはずで、その限りない欲望が、拡大しすぎてやがて自滅していくわけですから、そこには一種の儚ささえ感じます。
もちろん、エボラ出血熱など、致死率の高い病気に罹患した患者からすれば、ウィルスの欲望だの儚さだの、安全なところで勝手なことをほざいてやがる、くらいにしか思わないでしょうけれど。
人に限らず生物の夢や欲望は限りがないものだと痛感します。
明け方、悪寒に襲われて目を覚まし、布団の中でぶるぶる震えながらくしゃみを連発しました。
熱も上がって、朝一番で内科を受診しました。
怖れていたインフルエンザの検査は陰性で、ひと安心。
風邪だろうということで、感冒薬やら解熱剤やら抗生物質やら胃薬やら、たくさん薬が出ました。
熱が下がったら明日にでも出勤して構わない、とのこと。
インフルエンザの予防接種を受けている場合、インフルエンザに罹患しても重篤化しないことが多く、かえってインフルエンザの発見が遅れたりするんだそうですね。
それならいっそ予防接種を受けないほうが良いのかもしれません。
去年は予防接種を受けていたにも関わらずインフルエンザに罹りましたし。
何事も良し悪しですねぇ。