時の喫茶店

趣味は歴史そして哲学 自然の中に溶け込んでいく心を追い求めたい

風が吹くとき

2015-01-13 19:18:28 | 日記
風が吹くときあらわれるもの、それは風の又三郎。
宮沢賢治の物語は、東北人ではない自分にとって、なぜか謎だ。
早池峰山のなかの森のなかを思わせるような動物たちの集まり。
ただ、風が賢治にとっての物語のきっかけになっている。
風は、賢治にとって生者の世界と死者の世界を渡すものになっているようだ。

ドドドドドド
どどどの歌、
又三郎は人なのか、風の妖精なのか、それとも死者なのか。

賢治の物語は、なぜかどこかわからないようにつくってある。
賢治は、もはや人にわかってもらうために書いていないようだ。

人は人にわかってもらいたい。
それは、自分が思い出す人にだ。

賢治は誰にわかってもらいたかったのか。
若くして死んだ妹にだろうか。
というか妹も賢治とどこかおなじ感性をもっていたのかもしれない。

どっかに出会う人、その人には自分をわかって欲しい。
でも、出会い、そして気づきは、気づいた時には、もう遅い。

いつか風が吹くとき、出会いだったのがわかる。
そこに帰っていくものがあること、それが人が人にひかれるすべてだ。

自分のこころはどこをさまよっている。

秋、11月ごろ、花巻にまでいったことがある。
大学主催の仏像鑑賞旅行みたいなもので、友人から誘ってもらった。
保険料千円だけだったので、大学本部の古い建物に申し込みに行った。
思えば、あのころは自分に友人というものがいたらしい。

そして、岩手県の黒岩寺などをみてまわった。
花巻によった。
紅葉がとても美しくて、
乗り合いバスの小さいのが、停留所の近くに止めてあった。
ここが終点なので、運転手さんはどっかに行っているのだろう。

お堂のなかには、5㍍もある坂の上田村麻呂像があって、岩手出身の先生が、
土地の老人のことばを標準語になおして説明していた。

そこに、風が吹いた。
銀杏の絨毯がざくざく言った。
風の又三郎がいたのだ。

もし、自分と話したい人がいままであったなら、
それは、きっと又三郎、風の記憶を話してといっているのだ。

冬、木枯らしの季節。

今年はあたたかくて、雪は小雨になって降っている。
風が吹いてくる。
風にあたろう。

求めていたものの、ある場所を風は教えてくれるかも。