快読日記

日々の読書記録

読書中『罪と罰−ナニワ人生学−』青木雄二

2016年06月22日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
6月21日(火)

『罪と罰−ナニワ人生学−』(青木雄二/角川春樹事務所)の続き。
最初からひたすらパチンコの話。
ギャンブルのおもしろさが全然理解できない身からすると、いろんな意味の「へえ〜」連発だが、そこにはほんのわずかの「うらやましいなー」も含まれる。
ギャンブル好きな人には一種の「身軽さ」みたいなものを感じる。
人間の外皮が薄いっていうか、「運」みたいなものにヒョイと身を投じてしまえる気安さと危なっかしさと軽さは、自分は全く持ち合わせていない。

読書中『半生の記』松本清張

2016年06月21日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
6月20日(月)

松本清張の自叙伝『半生の記』(新潮文庫)を読み始める。

重い。押しつぶされそうだ。

読書中『罪と罰−ナニワ人生学−』青木雄二

2016年06月20日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
6月19日(日)

青木雄二『罪と罰−ナニワ人生学−』(角川春樹事務所)を読む。
花登筐に似ている。
カモになるやつと、カモにするやつとは何が違うのか。
どちらにもあまり縁がないので、すごくおもしろい。

ところで、青木雄二って、自分の似顔絵を描くのがうまいんだなあ、と気づく。
美化もせず、恥ずかし紛れのデフォルメもしない。
意外とそういう人は少ないのではないか。

亡くなって、もうどのくらい経つのだろうか。

読了『一瞬と永遠と』萩尾望都

2016年05月27日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
5月26日(木)

『一瞬と永遠と』(萩尾望都/朝日文庫)は、最近読んだエッセイで一番よかった。

24年組は断然山岸凉子派!のわたしだが、いつも思うのは“山岸凉子のいいたいことはわかる。考えてることも(思い込みかもしれないが)わかる。でも萩尾望都の考えてることはわからない”である。
萩尾望都ってなんかこう、壁の向こう、大気圏のずっと向こうにまで思いを馳せてる気がする、常人の想像を超えるスケールだ。しかも深い。
だから、彼女が手塚治虫に共鳴するのもよくわかる。
このエッセイにもそうした常人ならざるものを感じさせる場面が随所に出てくる。
一方で、彼女を認めてくれない両親との葛藤の話も印象的だ。
以前、浦沢直樹とEテレで対談していて、両親が萩尾望都の仕事を認めてくれたきっかけが朝ドラ『ゲゲゲの女房』だと言っていたから強烈だ。ついこの間じゃん!!

後半は、SFや手塚治虫などの書評や映画評。
萩尾望都の頭と心がいかに豊潤かがよくわかる。
SFが大の苦手なわたしでも、ちょっと読みたくなった。

萩尾望都は今の日本の漫画文化を作り上げた偉大な作家の一人だ。
文学は完全に負けていると思った。

読書中『衣もろもろ』群ようこ

2016年04月26日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
4月25日(月)

中年になって何が面倒って、服や髪型や靴や鞄やそういうモノだ。
好きならなんでもいいというわけにはいかない。

群ようこ『衣もろもろ』(集英社文庫)の冒頭、50代の群ようこが自分の裸を鏡で見て「なんだこりゃ」とつぶやく場面に笑う。
「きゃー!」でも「……(無言あるいは絶句)」でもなく「なんだこりゃ」。
わかる気がする。

着やすさを優先するとおしゃれから遠ざかるし、「素敵な服」は「素敵な体型」の上にしか成立しないし、そこを無理すると健康被害がある。いや本当に。

別に、ものすごく若く見られたいとか現実以上に美しく見られたいとかを望むわけではないのだ。
自分自身が機嫌よく生活できるくらいの見た目、他人様が見て不愉快にならないくらいの見た目でいいのだ。

中年女はどのあたりを狙えばいいのか。
群ようこがどんな境地にたどり着くのか楽しみ。

読了『若山富三郎・勝新太郎 無頼控 おこりんぼ さびしんぼ』山城新伍

2016年04月08日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
4月7日(木)

名著との誉れ高い『若山富三郎・勝新太郎 無頼控 おこりんぼ さびしんぼ』(山城新伍/廣済堂出版)が文庫で復刊してたのに、うかつにも知らずにいた。

「噂の兄弟 トミーとカツ」、若山富三郎の天然ぶりと勝新の天才ぶりもさることながら、それ以上に彼らを見つめる山城新伍のまなざしがいい。
水道橋博士のような「誰かを好きになりすぎる」(byビートたけし)盲目的な好意(それはそれでおもしろいんだけど)とは違う。
この兄弟(とくに兄)にほとんど慈愛みたいな気持ちや恋心に近い憧れを抱きながらも、どこか芯の部分で醒めていて、熱くなりきらないところがせつない。
山城新伍って頭がよすぎたのかも。
生まれつき貼り付いているさびしさみたいなものを感じる。
天然でも天才でもない、医者の息子(だったよね確か)、山城新伍って近代文学に例えたら谷崎潤一郎じゃなくて太宰治なんじゃないか。
自分の口先の巧みさに自己嫌悪を感じているふしもある。

山城新伍がこの兄弟を見つめたような目で、山城新伍を見てくれる人がいたらよかった。

吉田豪の解説はもちろん文句なしだ!

読了『ぐっとくる題名』ブルボン小林

2016年04月07日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
4月6日(水)

ジャケ買いならぬ「タイトル買い」した本は多い。
例えば『幸せではないが、もういい』や『日本人はなぜ切腹するのか』は、ずっと昔に買ったまま、まだ読んでいない。
タイトルだけで充分満腹なのだ。

そういうタイトルを集めてなぜいいのかを考察した『ぐっとくる題名』(ブルボン小林/中公新書ラクレ)を読了。

『幸せではないが、もういい』も取り上げられていてうれしい。

『噂の刑事 トミーとマツ』は「マツとトミー」ではいけない、には同感。
そういうのってなんだろう、リズム?音感?音の響きかな?
「ガスパール&リサ」をわざわざ「リサとガスパール」に変えるのも、そういう“気持ちのいい音”を追求した結果で、そこにこそヒットの秘密みたいなものがありそう。

この本も『ぐっとくるタイトル』では若干軽い。
『ぐっとくる題名』にしたことで、重みというか野暮ったさから来る力強さが加わった。

読書中『おいしい中国 「酸甜苦辣」の大陸』楊逸

2016年03月26日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
3月25日(金)

『おいしい中国 「酸甜苦辣」の大陸』(楊逸/文藝春秋)の続きを読む。
ちょいちょいわからない食べ物の名前が出てくる。
註が欲しい。
でも、そんなこと気にせずどんどん話を進める楊逸が好きなので、まあいいかと思う。

近所に纏足のおばあさんがいて、楊逸のおばあさんと年が変わらないくらいの人だったという。
歴史の上の話だと思っていることが突然目の前に迫ってくる感覚。
実はわたしの父方のひいじいさんは江戸時代の人で、明治の維新のときにはすでに成人していたらしい。
親戚の家にちょんまげ姿の写真があって驚いた。

そういう、時代がつながってるかんじ、そして、日本と中国大陸もつながっているかんじが伝わってくる。

読書中『おいしい中国 「酸甜苦辣」の大陸』楊逸

2016年03月25日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
3月24日(木)

録画していたドラマ「ナオミとカナコ」の高畑淳子を見てたら、久しぶりに楊逸を読みたくなった。
図書館で『おいしい中国 「酸甜苦辣」の大陸』(楊逸/文藝春秋)を借りる。

赤ん坊のとき、祖母に抱かれて食べた温かい牛乳の膜の話に始まる、1964生まれの楊逸の半生と中国の“食”をからめたエッセイ。
わたしと7つほどしか違わないのに、登場する写真が「大地の子」みたいだ…と思ったけど、自分の写真も充分“昭和”なんでした。

「下放」って言葉がでてきたけど何だろう?
読みつづけたらわかるかな。


夜、『やりなおし高校国語』(出口汪/ちくま新書)をちょっと読んで就寝。

読了『「思いやり」という暴力』中島義道

2016年03月05日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
3月4日(金)

『「思いやり」という暴力』(中島義道/PHP文庫)を読了する。

「この国では「他人を傷つけず自分も傷つかない」ことこそ、あらゆる行為を支配する「公理」である」(168p)

自らが正しいと信じることを訴え、異なる考えを持つ人と言葉を介して正面から対立し、議論する。
…なんてことはできないので(なぜできないのだ!)、意味のない言葉を緩衝材がわりに並べ、摩擦を避けて生きていく。
なぜできないのだ?
それは心身ともに傷つけたり傷つけられたりすることへの耐性のなさと覚悟のなさが原因だろう。
言葉を信じ、人間を信じて、血みどろかつ本物のコミュニケーションを図る、そんな中島義道の主張を“確かに理想だ”とは簡単に言い切れない、というのが正直な感想。
だって、「覚悟」がないんだもん。

わたしたち(敢えて「たち」と言ってみた)の「覚悟のなさ」を日本の政治や外交といった場面から指摘してるのが『「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』(浅羽通明/ちくま新書)。
「原発反対!」や「民主主義ってなんだ♪ これだ♪」というデモに何万人集まった、というニュースがあったが、そこに「デモへ逃げるな! 実力を造れ!」(帯より)と訴えている。
本気で安倍政権に勝ちたいなら、歴史に学び、知恵を絞り、「勝つ方法」を考えろ、と。
デモに集う人々、組織を嫌い、「個人」を強調する彼らが、それゆえに力を持てないままでいる原因が“覚悟のなさ(&組織力のなさ)”であるという指摘に、今の日本人の甘えん坊っぷりとわたし自身の甘え体質がぴったり重なって、自己嫌悪でぐったりする。

その国民と国家は相似形をなす、って何かで読んだ気がする。
自分が生きる国が自分そっくりな国だなんて、想像もしたくない。
ちなみに、この際わたしは甘ったれたまま人生を終わりたい。
そしたら破滅するのかもしれない。
…ってことは?

だんだん妄想じみてきたので寝る。

読書中『「思いやり」という暴力』中島義道

2016年03月01日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
2月29日(月)

常にその場の空気を読んで自分の言動を決める、主張しない、思いを口にしない、という暗黙のルールが支配する「世の中」は、小学校ですでに始まっていたと思う。
一方で“曖昧な態度はよくない。YESかNOかはっきりしない日本人は外国人に誤解される。しっかり意思表示できる国際人たれ”という教育も確かにあった。
しかし、今思えばあれは建て前だった。
純朴な小学生だったから“将来はそう変わっていくんだ!”とぼんやり信じていたのだ。
30年経ってもそういう日本社会の体質は全く変わらないどころか悪化している--『「思いやり」という暴力』(中島義道/PHP文庫)を読みながらつくづく思った。

「言葉を尊重しない・信頼しない」(90p)日本人は「対話」を避け、空気読みに労力を費やし、“言葉を与えられなかった思い”は飲み込まれたまま胸に溜まり腐敗して爆発する。

「ウソでもいいから、すべて正確な言葉にしなさい」(42p)

しっかり言葉にする訓練を幼いころからしていればモヤモヤも軽減するし、若い人にかぎらず中年も年寄りも救われるはずだ。
自殺者も減ると思う。

“空気読み”とか“しがらみ”にがんじからめになり、さらに無神経なことにはその自覚もなく、なんなら居心地のよさすら感じている老若男女の善人たちを糾弾する中島義道のこの主張は、ひろさちやと同じだ。

哲学の中島義道と、仏教のひろさちや、真反対のようで実はものすごく共通点が多い(もちろん決定的に違うところはある)…ということを改めて確認して寝る。

読了『寄る年波には平泳ぎ』群ようこ

2016年01月04日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
1月3日(日)

思いがけずドタバタしたお正月になった。
もっとのんびりできるかと思いきや。
でも、時間がたっぷりあるときより ちょっとした待ち時間とかの隙間の方が案外集中して読めるかも。考えようによっては。

『寄る年波には平泳ぎ』(群ようこ/幻冬舎)を読了。
電車の中で自分が吐いたものを見ない振りして降りちゃう子連れの女の話も、散歩コースで起きる事件(軽いアクシデント、ではなく本当の“事件”)の話もすごいが、
そういう「どいつもこいつも」な世の中で、怒りをふつふつと煮え立たせながらも猫と穏やかに暮らしている群ようこが一番すごい。
ゆったり平泳ぎというよりは全力のバタフライだ。
自身の母親と弟にかなりきついことを書いているが、ここまでおおっぴらにしていいのかな、モメないのかな、と他人事ながら心配になる。

夜は『ウエストウイング』(津村記久子/朝日新聞出版)の続きを読む。
群ようこと共通しているのは、世の中には「こっち側」の人と「あっち側」の人がいる、という感覚だ。
それは、料理をする人/しない人 だったり 本を読む人/読まない人 だったりする。
こっち側だからみんな価値観が一緒、というわけではないけど、確実に言えるのは「あっち側」とはものの考え方から常識からすべて違っていて理解不能だということだ。
もちろん「あっち側」から見たら「こっち側」も理解不能だ。
そういう感覚はものすごくわかる。
お互いに“類トモ”の中だけで生きていけたら素晴らしいけど、そうじゃないからつらいね。
MJなら「そこがいいんじゃない!」って言うだろう。

読書中『寄る年波には平泳ぎ』群ようこ

2016年01月03日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
1月2日(土)

『寄る年波には平泳ぎ』(群ようこ/幻冬舎)の「見間違い」の話。
「奇跡のアライグマ」ってどんな?と思ったら「奇跡のクライマー」だったり、送られてきた小包に書かれた品名「クツ」が「クソ」に見えたり。
あるある~!
わたしも毎日あるそれ。

特に新聞読んでるときが甚だしい。
目のせいなのか、脳が劣化してるのか。
きっと「両方」が正解なのね。

でも、そういえば坂田靖子の『叔父様は死の迷惑』も、本屋で見た『秩父路は死の迷路』という本を見間違えたおかげで生まれたタイトルだっていうから、
見間違いも悪いことばかりではない。

…と強がるのもむなしいお正月。

「二度寝とは、遠くにありて想うもの」津村記久子

2015年11月02日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《☆☆ 10/20読了 講談社 2015年刊 【日本のエッセイ】 つむら・きくこ(1978~)》

エッセイ集第2弾。

きまじめでちょっと融通が利かないかんじが好き。

おっとりとぬけたところも魅力だけど、「仕事」と「人間関係」の話題になると急にキリッとしっかりした大人に見える、その振り幅もいい。


/「二度寝とは、遠くにありて想うもの」津村記久子

「石の裏にも三年 キミコのダンゴ虫的日常」北大路公子

2015年08月25日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《☆☆ 8/23読了 集英社文庫 2015年刊(文庫オリジナル) 【日本のエッセイ】 きたおおじ・きみこ》

北海道在住キミコの日記。

12月から始まるんですが、来る日も来る日もひたすら雪かきしていて、なんだか恐ろしい。

「市内の雪捨て場に、まだ十メートルほどの雪が残っている(88p)」のがなんと7月31日!だったり「スタッドレスタイヤのCMが始まってしまった」(94p)のが8月22日!!だったり。
ちなみに次の日には暖房器具フェアのCMを見ています。
北海道ってそんなに過酷なのか!

共に暮らすお父さんとお母さんも(いろいろありつつも)お元気そうでなによりです。

「泥酔日記」シリーズや「生きていてもいいかしら日記」「頭の中身が漏れ出る日々」に比べると爆笑度は下がるけど、その分じんわり度は上がり、滋味がにじみ出始めたような気が…。

例えば知り合いの赤ちゃんを抱っこした日。
「赤ちゃんはいかにも「新品」の顔でニコニコ笑っている。つるつるでふわふわでぎゅっとしていて軽いのに重くて、まるで種みたいだった」(119p)

巻末に、北海道在住作家4人(乾ルカ、桜木紫乃、小路幸也、キミコ)によるご当地座談会あり。
(これはそんなにおもしろくなかった。)
北海道(の一部)では、タイヤが雪などでスリップして空回りしちゃうのを「あずる」っていうんですね。
山梨では「つっぺる」っていうんです。
どちらもかわいいです。
実際になっちゃうと悲劇ですが。

それから、ひとごとながら心配になったのは、泥酔したまま入浴する習慣があるっていう話。ただちにやめてください。

それから、宮路オサムと宮史郎の区別については、わたしは「バブルっぽい方が宮路オサム」と区別しています。

/「石の裏にも三年 キミコのダンゴ虫的日常」北大路公子