野老の里

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武蔵野の記憶 滝の城

2012年07月15日 | 武蔵野の記憶
(中富の農地から大岳山と御前山)

旧国名である武蔵国は現在の地域に直すと、埼玉県と離島を除く東京都のほぼ全域
そして神奈川県川崎・横浜市の一部に相当するという。
その中で武蔵野と呼ばれる地域は東京都の多摩地域と23区西部そして埼玉県南西部の台地を主に指している。
この武蔵野に相当する地域を歩くと都市部(東京都と埼玉県を単純に合わせた人口は2000万人に達する)にありながら
実に多くの自然が残されていることに気付く。
ボクは幼少の頃に所沢に越してきてからは高校を卒業するまで武蔵野に関わって生活してきた。
通学で東村山から国分寺へ向かう西武線に乗ると広がる農地と雑木林そして国分寺駅近くの国分寺崖線が印象に残る。
そしてボクが越してきた頃の所沢はまだ70年代以降に進んだ宅地化が進行中で、
農地から宅地への端境期にあったと言っていい。
社会科見学といえば近所の養鶏所や牛舎で農家の暮らしを知ることであった。
自宅の裏には小さいながらも武蔵野に特徴的な雑木林があり、同じ年代の子供たちにとって格好の遊び場であった。

あれから30年近くが経ち、雑木林は駐車場になり、自宅であった共同住宅も取り壊され、分譲地となった。
臭いが嫌われた養鶏所や牛舎は宅地化の進んだ所からは姿を消し、畑の真ん中に細々と残るだけである。
正直なところ都内多摩地域の変化はよくわからない。
ただ所沢を含めた埼玉県南西部の人口は40年の間に2~2.5倍に増えている。
だから宅地化が一気に進行したことはある程度仕方の無いことなのかもしれない。
それでも依然として武蔵野らしい土地の記憶を残している所は多い。
夏の暑い日にそんな場所を訪ねてみることにした。

滝の城(たきのじょう)は所沢ICに近い東京都清瀬市との境にある中世の城跡だ。
ボクの住む家は所沢の北部にあり、滝の城は間逆の南の端にある。自転車で1時間ほどの距離だ。
夏の暑い日に1時間も自転車に乗るのは地獄とも言えるが、出来るだけ農地の中を抜けていく。
農地を吹き抜ける風はいくらか涼やかだ。東京都心に比べると埼玉県は押し並べて夏の気温が高い。
それでも海風が入ってくる都心に比べ、埼玉県南西部は実際の気温よりも涼しく感じることは多い。
それは各地に残るやや広めの農地とこの地域を特徴付ける雑木林の存在によって都市の熱が冷やされるからだ。
同じ埼玉県であっても雑木林の少ない東部地域(稲作が多い)はかなり暑く感じるのはボクだけだろうか。
所沢の農地といえば三富新田の下富・中富地区が有名だが、日比田や亀ヶ谷、南永井といった地区も農地は多い。
所沢の語源ともなったといわれる東川(桜の名所でもある)を渡ると滝の城のある城地区だ。
雑木林と農地以外にインターチェンジが近いせいか、倉庫や工場が多い。
東所沢駅から延びてくる県道に出ると滝の城公園を指す道標が現れる。西武バスの停留所「城」も近い。
道標に従い細い道路を進む。正面に見えるこんもりとした雑木林が滝の城跡らしい。
雑木林に近づくと入口に看板が立つ。消えかかっているが、簡単な地図もあるので見ておくとよいだろう。
自転車をそのまま乗り入れると城山神社の社務所と駐車場前に出る。
駐車場に自転車を置き、歩いて周囲を散策することにする。

(滝の城入口)


(城山神社社務所)


(駐車場 手前に鳥居があるので事故に注意)

社務所の前の明るく開けた広場が滝の城の本丸だという。城山神社の拝殿があり、その前は崖地になっている。
崖地からの見晴らしはなかなか良い。見張台としては好適地だろう。現在は武蔵野線の高架がよく見える。
また現在は見えないが、実際は柳瀬川がすぐ見下ろせる位置にある。ここは川を利用した天然の要害であったのだ。
滝の城内は郭と言われる掘割が巡らされ、現在は掘割が半ば遊歩道のようになっている。
この辺は山の城跡とは史跡の利用方法が違うようだ。

(城山神社)


(本丸からのパノラマ 写真は撮り方が悪く、ちょっと歪んでます)


(本丸)

掘割を柳瀬川へ向かって下りていく。山百合が咲き、夏の盛りが近付いていることを知らせている。
城山神社の鳥居前に出るが、まだ崖地の中段辺りにいる。
雑木林の中を更に下っていくと下は運動場などがある滝の城祉公園となっている。
城跡を下から眺めたいところであったのだが、城跡全体を眺めるのに適した所はこの近くにはないようだ。

(遊歩道となっている掘割)


(山百合)


(城山神社西の入口 意外と比高はある)


(公園から城跡を見上げる)

公園の立派な駐車場を抜けて、西側から道路を歩いて城跡を目指す。
坂道のヘアピンカーヴ手前にある霧吹きの井戸跡にはちょっとした石積みが残っている。
台地の上にある所沢は水の確保に苦労した所だと小学生の頃教わったが、
武蔵野台地はこうした崖地から水が湧き出すことが多いようだ。
ヘアピンカーヴを登りきると城跡の反対側に稲荷神社がある。
ここも樹木が伸びていなければ、それなりの見晴しは得られるだろう。
現在は道路が寸断しているが、昔からあった道なのだろうか。

(猫)


(霧吹きの井戸跡)


(稲荷神社)

城の西端に上がると不動明王像などの石像がある。役ノ行者らしき像もあった。
掘割の中の道を適当に進むと「血の出る松跡」なる看板を発見する。
この城跡はかつてあったこの松の存在によってミステリースポットとして扱われている。
こういった扱いを好まない人は多いだろう。だがミステリースポットというのもまた土地の記憶なのかもしれない。
入口に戻り、今度は三の丸跡を目指す。目指すと言ってもすぐ近くではあるのだが。
ロープ柵で仕切られた道を進むと三の丸跡(茶飲み郭)だ。丘の上の小平地で結構藪が多い。
縁に近寄ると周囲は結構深く落ち込んでいるようだ。
現在入れる遺構はこのくらいで、他は民家の敷地となっていて、許可なしに立ち入ることは出来ない。

(掘割)


(不動明王)


(役ノ行者だろうか)


(向かいは病院 手前を道路が切り通しのようになって通っている)


(血の出る松跡)


(三の丸跡)


(周囲は落ち込んでいる)

入口に戻り、自転車を回収する。大体一周30分位は掛かるようだ。
振り返ると特徴の無い雑木林でしかない。南の公園側から見るのとは大分印象が違う。
主に南からの侵攻を想定した城であったのだろう。
帰りは往路を戻る。途中日本大学芸術学部(日芸)の脇を通る。
日芸は中富南地区という新興住宅地にあり、この辺りだけがエステシティと呼ばれる住宅地となっている。
だが日芸の脇はすぐ中富地区であり、昔ながらの武蔵野の農地が広がっている。
防風林や薪炭林としての役割を担った雑木林の向こうに高いビルが建つようになったのが現在だとしたら、
更にその奥に聳える大岳山や御前山は昔と変わらない光景だと言えるのかもしれない。

(北側から見た滝の城跡)


(雑木林の中の道)


DATA:
滝の城 自家用車で所沢ICから5分 
    西武バス 所沢駅東口~志木駅南口 城バス停下車 徒歩5分

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