![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/76/e7092aefe7db06d9e628d88bcefd8f78.jpg)
まず、見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏の技を、以下参考動画でご覧いただきたい
柳川氏はほとんど視力が無いという、一般的な空手家のイメージ、筋骨隆々とはほど遠い体格
しかし、素人の私が一目見ても、繰り出す技の威力が異常に強いのを感じる
そんな柳川氏が、生き残るには何をすべきだろうか?たどり着いた答えが、これらの技ということになる
超人とはどのような人間で、どうしたらそうなれるのだろうか、おそらくそこには潜在アワ量の異常な蓄積が起因しているのではないだろうか
だとしたら、実践的に、超人式潜在アワ量蓄積術が存在するはずである
よって、武道ド素人ではあるが、今回解説を試みようと思った次第である
武道的感性の高め方
著者 柳川昌弘 株式会社BABジャパン
より敬意を持って引用させていただく 茶色文字部分
柳川昌弘氏略歴
1939年12月9日生まれ。東京理科大学理学部化学科卒業。海上自衛隊勤務、システムエンジニア、企業調査等を経て、最上荷山大荒行入行、僧籍に入る。1967年より、全日本空手道連盟和道会柳川道場を主宰。現在は、日本伝二聖二天流柔術憲法を創設。全世界武道空手連合主宰。
山蔭神道家第79代故山蔭基央氏の著書「神道の神秘」春秋社
より敬意を持って引用させていただく 紫色文字部分
宇野多美恵解釈・総集編
日本の上古代文明とカタカムナウタヒ (第一巻) 潜象物理学会
より敬意を持って引用させていただく 青色文字部分
ブログ主考察 緑色文字部分
p108 2行
空手道初代名人十段・大塚博紀最高師範は、その著『空手道』にて、武道修行の戒めとして「十悪」を説いている。それは「恐れ」「我慢 (おごり高ぶること、侮ること )」「過信」「貪欲」「怒り」「危あやぶみ」「疑い」「迷い」「悔い」「慢心 (増上慢、卑下ひげ慢)」である。これらのうち「怒り」「悔い」は、過去の重荷を引きずっているにすぎない (現在には存在しない思い込み)。「業ごう」として無意識の感性の働きを妨害するものである。故にその心が現在の真実に立脚していないから、技の理を得ることができない。技や体の動きは、時々刻々と誘導弾のように変化する。その変化の様子はアナログ的にみえるが、コンピュータはデジタル的に情報を得て判断し実行命令を出している。心の働きも全くコンピュータの如く働くから、技は点から点へと移るのが真実である。つまり、心は常に現在の状況のみをとらえ、次の点のみ予測するのであって、初めからターゲットの位置に技を向けているのではない。故に、「永遠の現在」の真実をみる心でなければ、真の「技・術・芸」に至ることはできない。
過去の主に(記憶)は、状況判断を誤る結果となろう。それ故、現在において存在しない思いは「妄想」であって、捨てるべき思いなのである。それが無心であり、技の進歩は「無心が極意」なのである。また「恐れ」「危ぶみ」「疑い」「迷い」の心も、現住の真実をみていない心の状態である。言い換えると、未だ来てもいないプレッシャーと呼ばれる妄想である。永遠の現在の心でしか真実をみることはできないのである。
中略
「過去は過ぎ去り、未来は未だ来ず」あるは現在のみであり、それが唯一の真実である。「悪い暗示にとりつかれたり」「とり越し苦労をしたり」しないほうがよいのである。大方の悩みというものは「実体」がなく、したがって「悩まなければ」ないも同然であろう。その証拠に、三〇年以上昔の人間関係について、未だ悩んでいる人は皆無であろう。
このように、真実でない過去や未来の思いは、顕在意識の持つ妄想であり、潜在意識の感性に悪影響を与えてはならないのである。
野生動物は、そうした思い込みがないから、相手がどうであれ堂々と戦うことができる。未来の予想もせず、したがってプレッシャーは存在しない。
中略
武道修行にとって、これら十悪は、最もつまらぬ心の居着きなのである。感性とは無心のなかにのみ存在することを知るべきである。
「居着く」とは、「そこに落ち付いて、いつづける」、「来たまま帰らずに住みつく。居すわる」など、武道的「居着き」とは心や体の態勢が停止状態になっているため、相手に対して柔軟で素早い反応が出来ない、いつでも動ける静止状態(スタンバイ状態)とは異なると思われる
未来の予想も不安も、意識を「今、今に生きる」ようにすれば消える、それが超人への道の第一歩となるようだ
p299 18行
「イマ トハ ヒトワ」とは、
「イ」の「マ」である「今」(現在)は、「イマ」「イマ」が統合トハされた結果ヒトワとして存在するのであり、忽ち次の 「イマ」に統合トハされて「ヒトワ」となる。その「イマ」の一瞬といえども、それまでの、すべてトハの「イマ」、則ち過去のスガタトキ・カタチトコロが、その一瞬にヒトツに統合ワされたものである、という認識である。
どのような事件であっても、ある一瞬イマを起点とするが、その一瞬イマに至るまでの、「イマ」「イマ」のツヅキがあってこそ、のことである。
「イ」 生命体を形づくる最小単位、現象界最小単位の粒子
「マ」 現象の中の潜象(ヌシ)
イマとは、現象の中の潜象(ヌシ)のはたらきで、生命体を形づくる最小単位、現象界最小単位の粒子が生まれる
現象界において潜象のチカラは常にはたらいている、潜象のチカラのかかわりがなければ生命のイマは存続されない、つまり、生きるとは、潜象のチカラによって生かされている、ということ、潜象のチカラのおよぶ速さは、光も超える無限高速粒子、アマハヤミ(「ミ」潜象の粒子)だ、潜象存在カが思念したと同時にいのちが生まれ、いのちが生きかされる、瞬時なのだから、そこに時間差はないように思う
イマに意識を合わせるとは時間差なく「神の意識」とシンクロするということで、とても感動的なことに思える
「カ(潜象存在)」のオモヒが生まれた瞬間に、「ミ(潜象の粒子)」が、イマ、イマに降り注ぐ
p113 7行
自信と忍耐力は、武道の鍛錬だけでなく、感性訓練、超能力訓練に欠かせないほど有効である。
霊能力開発とも言い換えることが出来る
p115 2行
荒行は「忍」の修行である。「かわいい子には旅させよ」は昔の話であるが、人は苦労を苦労と感じないようになることが大切である。苦労が顔に出るようでは好ましくない。動物にはそれが全くない。苦労が苦労ではなくなったとき、人は感性が冴え、大きなチャンスがみえるようになるのである。平常心である。平常心は自然体にのみ住するのである。
あまりに身体に合わない荒行は危険だが、人生の厳しいときこそ平常心を失ってはいけない、という教え、サバイバルの知恵ではないだろうか
p119 3行
不毛な自我意識を守ろうとする「思い込み」は、武道の上達にとって最大の敵とされている。
中略
「何も考えるな」と、理性を押えようとすれば、かえって理性が働くものである。そこで「呼吸を抑え、姿勢を正し、音に対する集力を高め、周囲の気配の変化に感性を向けるこどが基本である。
「呼吸を抑え」 静かな呼吸 リラックス状態にする
「姿勢を正す」 心身に無駄なストレスがかからず、リラックス状態にする
「音に対する集中力を高め」 この方法非常に有効、素早く集中力を得やすい
「周囲の気配察知の変化に感性を向ける」 上記3つの実行により直観力をフル稼働可能にし、この次元とさらに上の次元が同時に感受可能になる
今まで自分を狭い世界に閉じ込めていた、自我意識の枠を打ち破ってこそ、新たな精神の自分に出会える、「カムナガラ」の生き方は、自我意識と無限の宇宙意識の割合が、初めは9:1くらいから、1:9くらいに変化し、日常の意識が無限に近く広がる感覚に思える
「音に対する集力」は鎮魂においても、素早い効果を発揮すると実感する
p120 4行
武道的感性の能力発揮スイッチは、いつでもどこでも一瞬で入らなくては実用にならないからだ。特に立っている場合での自然体が、まずできていなければならない。
そうすれば、坐っている場合の自然体も自ずと可能となるものである。平常心も自ずと備わってくるものである。
坐っているとき、正中線を崩されたとき、わかりづらい、一方、立っている場合のときはぐらつきがハッキリわかるから、まずは、「立っている場合の自然体」の体得は大切に思われる
p121 2行
何気なく周囲の気配に集中し、感性が自ずと働くようになれば、理性を働かせても何らとらわれることなく無心が習慣づけられてゆくのである。
どんなときでも、平常心・不動心でいられるなら、危機回避は可能になる、直観力は少し先の未来を予知することも可能にする、そのため現代より古代はもっと直観力を活用していたように思う
p122 2行
このような話は案外多いものである。姿勢が良いというのは自然体を指す。自然体には平常心が働くから「問題に対する感性がフル稼働する」ものである。実は文章を書くのも、理性でなく感性によることでスムーズに進むのでのである。理性は校正のために使用するものである。
故に苦手な芸に対しては、まず姿勢正すことが先決である。姿勢の悪さは「体のどこかにストレスがある」証拠である。ストレスは「邪念・雑念」と共存するものである。それでは芸が不自然となるから、苦手となるのは当然である。故に、苦手な芸に対しては姿勢を正して体当たりすれば、必ず克服することができる。ただし、芸によって対応する個性は様々だから、必ずしもその芸の道が自らに向くとは限らない。しかし、苦手の克服は自らの道 (芸)を向上させるものである。「一芸は万芸に通ず」は真実である。
p128 6行
しかし、武道では一瞬の居着きが、同程度の技量の者同士の勝負では致命的となることが多い。この事実は日本文化としての武道の技術が「居着きがないところまで発達した」からでもあろう。
古代の日本は、「居着きがない」文明だった、伝統ある武道にはそれが受け継がれている、それら日本の伝統を受け継ぐものを学ぶとは、現代の心身「居着き」だらけの日常から、己を解放させるキッカケを与えてくれるのかもしれない
p128 11行
まして、居着きの有無は武道の技術にとって日常とは比べものにならぬ重大事なのである。故に、居着きを除く努力工夫は日常の心構え、そして気構えとするよう『五輪書』でも説いているのである。心構えは意叢的な心掛けであるが、気構えとは「感性」の問題であり、リラックスした身構えの上に養成されるもので「自然体・平常心」ないし「大胆・細心」 (『五輪書』)などと表現する。
武道で問題となる居着きは「目・呼吸・心・身体・足捌き・技術」に表れる。しかし、「感性と一体化した技」を磨くなら、「目・呼吸・身体・技術」の居着きは自然と消えてゆく。
「神懸かり」から派生する自動書記などの防御態勢での応用の場合は、静止状態で行うから、「呼吸・心・身体」の居着きを取り除けばよいことになる
「自然体・平常心」を保てば、呼吸と身体の居着きは自然と消えるという
「自然体をつくるための正しい姿勢・平常心をつくるための澄んだ心」を維持できれば、準備が出来たことになる
正しい姿勢で座り、澄んだ心を体得するのは、鎮魂行まんまである
鎮魂行において、悪しきものに憑依されやすいというのは、不自然な呼吸、不自然な姿勢の時に思う、鎮魂行で変に頑張りすぎたり、力みすぎたり、逆に虚脱状態になったりと、不自然な状態になった時が心身の弱い状態になったときで、鎮魂以外に、瞑想、坐禅などもの時も同様に思う、平常心・不動心・リラックス状態が重要
p130 5行
これでは正しい技にはならない。その原因は「意識的に極めようとすること」なのである。それでは武道の技にはならない。体幹で突き、蹴り、進むことなくして、正確で、素早く強力な技にならず、ついに技の理へ至ることができない。それによって正中線の意識も得られぬことになろう。
中略
結局は無用な意識が先に働くことが原因なのである。
「無用な意識」が発生するのは、焦りなどの欲、小さい自我意識に捕らわれている時のよう思う、大きな存在とのつながりである、感受が途切れた時、顕在意識のみによる空回りが起こったとき、雑念の暴走を止めるには鎮魂行も一つの方法
p170 6行
鎮魂の意義
この「鎮魂」とは、死者の霊を鎮撫する「レクイエム」のことではない。また、単に精神を静かにした坐るだけのことでもない。
「鎮魂」という言葉の歴史は古い。『二十二社本縁』という古書の「石上神宮」の条に、「鎮魂というは、離遊の運魂をして身休の中府に鎮めしむるの義なり」とあり、また平安時代に編まれた「令義解りょうぎのげ」には、「人の陽気を魂と言う。魂は運なり。離遊の運魂を招きて、身体の中府に鎮む。故に鎮魂と日いう」とある。
この鎮魂法として有名なのは、奈良県大理の石上神宮に伝わる「鎮魂」法である。これは「十種とくさの神宝かんだから」という神秘な呪文を唱えながら行なうもので、病を癒し、死者の亡魂をも引きとどめて生き返らせる古来の秘法とされるが、ただしこれは神職が人に施す修法であり、求道者の行法ではない。山蔭家にも別流の「十種の神宝」法が伝わっているが、それについては省略する。
ともあれ、一般の人々の魂は、身体の周りにブワーッと散乱している。それを凝集させるのが「鎮魂」である。
このことは霊的な感受力がなければわからない。多くの人の心は、霊的な観察力で見ると、人体の周囲に半径五〇センチからし七〇センチほどの大きさでガス状に広がっているのである。このガスは、アンテナのように感受性が強く、幽霊であれ、人の心であれ、無差別に感受する。特に霊感体質の人、チャネラーなどと自称している人は、このだらしなく広がったガス状アンテナで、何でもお構いなしに受け取ってしまうので、しばしば、心の分裂を起こしたり病気になったりするのである。この心は、少なくともサッカーボールくらいの大きさにぎゅっと凝集されているのが望ましい。できればー〇センチくらい の大きさで、臍下丹田さいかたんでんに納まっているのが理想である。このような状態にもっていくことを「鎮魂」というのである。こうなった時、心は静まり、四魂の働きは整えられ、内奥にある直日霊との接触が初めて可能になるのである。
これを導くには、正しい坐法・呼吸法などの行法が必要である。山蔭神道の行法は、誰にでもできるやさしいもの
禅病の原因は、全身をめぐる「気」のエネルギーが頭に上がりすぎることによって起こるという説あり、そのため気を臍へそ下にある臍下丹田へと降ろしてあげると症状が改善するといわれる
「臍下丹田は、どこにあるのかよくわからない?」問題、私も以前はそうだった、それには、合氣道家藤平光一氏の心身統一合氣道の考え方が、非常に分かりやすい、後日記事掲載予定
p172 図より引用
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/18/86c3f2c4440dd28e960353ff6016a629.jpg)
p132 3行
空手の理 (フィーリング)とは感性の問題なのである。「居着き」は、こうした感性が働く世界では、決して起こることはないのである。故に武道空手は「形」の「理」から入ることが必須条件といえるのである。
ぐうたら寝ていても、警戒すれば、すっと一瞬で目が覚める、野良猫の世界には心身の「居着き」が全くない、そしていつもリラックスしている、だから猫が道路の真ん中で寝転んでいても、結局は危機回避をして平気である
p134 4行
いついかなる時であれ、「感性」と「脱力」とは同居する性質があること“それは「読み」に対するだけのものでなく、技の裏面 (目に見えぬ部分)である「理」の要点 (一端)における真実なのである。
具体的にいえば、武道空手の技術は、かつてより「力ではない」とか「小よく大を制す」といわれてきた。なぜなら「同じカでも楽で効率的に、しかもタイミングよく使用できる」技術だからである。
そのうえ技の「起こり」や「気配」を消すことも容易であり、技の威力も生のカの二倍以上とすることも十分可能である。しかも、技の成長において年齢的限界はないといっても過言ではない。年齢的限界とはスポーツ的な無理に対する限界だけでない。「理」に基づく武道空手の技・術・芸は、限りなく上達する喜びを伴うことのほうが大事な点であろう。
このような武道空手の体得を目指すためには、基本技や形をカー杯練習するだけではまず不可能である。何よりも大切なことは、形を正しく鍛錬することである。正しくとは、武道の理を可能な限り表現するために、作られている形の心を知ることである。
「脱力」は全身だらっとした虚脱状態とは異なるを覚えておくこと。注意すべきは、虚脱状態は「最も弱い態勢」になり、「隙」となり悪しきものの憑依を誘発しやすくなる。大切なことは、高級霊は虚脱状態をけっして望まない。
つまり常時、「自然体・平常心」でいることに気を付けることも重要になる。
「正しくとは、武道の理を可能な限り表現するために、作られている形の心を知ることである。」とは、武道空手に限らず、究極レベルまで極めようとすれば、天然自然の不変の法則を理解し、そのことわりに沿わなければ到達できない、カタカムナで言うところのマノスベ(「天然自然マの変遷ノする方法スベ」)に生きなければ解決しない、ということに思われる。武道に限らず、上達の途上にスランプが起こるのも、「あなたのやっていることは、マノスベですか?」と正しい道へのヒントが与えられているのだろう
p136 7行
それは、『五輪書』の水の巻の主旨である「技はゆっくりと、スムーズにできれば (無論、無心で)達人の境地」とは全く異なるものであることを認識することが何より先決である。
「ゆっくりと、スムーズに」の意味のなかに、常に「どこを、どのように脱力するか」かつ、「リラックスとは一方では無心であること」を教えている。もし、それが可能になれば、いやでも「技」と「理」とが調和していることがわかるであろう。「鳥の両翼」とは、そうした安定したフィーリングを表す例えである。
こうした古人の思惑は、いつの時代でも裏切られがちのようである。形の種類が増し、流派が生じるのも人々の個性だけの理由ではなく、癖によるところも少なくない。しかも、技に対する癖であり、「理」にはそれがないことはいうまでもない。「理より入るは上達早し。技から入るは上達遅し」とは、その言葉通りの意味というより、「理を認識して鍛鍊する者が少ない」という意味が 強いように思われる。
故に、「ゆっくりと、スムーズに」が大切なのである。そうすれば「技」も「理」も「烏の両翼」となって勝手についてくるのである。
「ゆっくり」していないとき、「忙しい」とは心が亡くなると書く、日常生活で「ついうっかりして」は忙しい時が多い、注意力欠如は、忙しく、ひとつのことに気を取られているから起こる
忙しい時だけでなく、焦りや不安なときなども、ひとつのことに気を取られているから、注意力欠如になりがちになる、これもある意味「居着き」
「ゆっくり」させない、というのも戦術になるだろう、ペースを乱し、注意力を欠如させると、防御が甘くなる、隙ができる、だから相手のペースに乗せられず、どんな場合においても、「ゆっくりと、スムーズに」を守ることが防御の要にもなるように思う
p138 9行
この「組太刀」の如く「ゆっくりと、スムーズに」無心で、脱力して形を「理」として鍛錬するのである。形のなかの技は実戦のヒナ型ではなく基本技であるから、そのままの形かたちでカ一杯・素早く行うと、その「理」を失ってしまうのである。意識的なカやスピードを優先すると、「理」 (フィーリング)を体感できないことを知らねばならない。そして「ゆっくりと、スムーズに行うこと」は、技に必要なすべての力を使わなければできないことを知ることにになる。
故に、武道空手の形は、初めは「理」と考えるほうが上達が早いものである。カー杯の練習では、技も理も体得できないことを知り、脱力し、リラックスして行うことが何よりも重要なのである。
最後に、ブログ主の受けた運転免許更新講習の内容の一部から
ドライバーが、事故を未然に防ぐため
※常に余裕を持つこと
事故の背後要因は、「焦り 思い込み イライラ 早とちり」、これらの対策には
◎もしや?と、疑うこころ
◎一時停止
◎確認
安全運転の鍵を握るのは、『あなたのこころ!!』
(自動車だけに「鍵」で、講習ラストを締めている、きれいに決まった)
直観ココロなきところに、安全なし!!!
(「直観ココロ」をフルに使おう、武道も、自動車運転も、日常何でも、いつも忘れずに)
見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏のシリーズは次回に続く