トモニ ミチスガラ カムナガラ

友に 共に 黄泉帰る道すがら 神ながら

自然免疫を高め 健康を取り戻す 実践の記録

友に捧げます

柳川昌弘氏5 思わず笑ってしまう柳川氏ガチエピソード集

2024-03-31 07:33:08 | 見た目と逆の武道空手家柳川昌弘

 

まず、見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏の技を、以下参考動画でご覧いただきたい

 

 

「武道空手」とは実戦前提の空手でスポーツの空手とは異なる、つまり「やるか、やられるか」、「○ろされるかもしれない」という状況のガチで生き残りを懸けた技、ということになる

柳川氏はほとんど視力が無い、加えて体格からして腕力はない、非常に不利ではある、だが実戦で勝ちたい、つまり生き残るには何をすべきだろうか?たどり着いた答えが、これらの技ということになる

超人とはどのような人間で、どうしたらそうなれるのだろうか、おそらくそこには潜在アワ量の異常な蓄積が起因しているのではないだろうか

だとしたら、実践的に、超人式潜在アワ量蓄積術が存在するはずである

よって、武道ド素人ではあるが、今回解説を試みようと思った次第である

柳川氏の解説記事を1~4まで続けてきて、前回でまじめな解説は終わった

今回が一応最終回となる、では今回はというと、柳川氏の武道の魅力もさることながら、俗世の価値観に縛られずまるで仙人のように生き、超人だが、温かみのあるお人柄に、「弟子になりたいなぁ~」と思ってしまう方も少なくはないはず、私もその一人だ

だが、同時に「ガチ過ぎな稽古は到底ついて行けなそう」、「手加減されてもあんなパンチ食らいたくないなぁ」とそんな言葉が頭をよぎり、弟子入りを断念してしまった

そんな風味なあなたに贈る、このシリーズ最後を飾るのは、弟子入りしたつもりで実体験したかのように読みたい、魅力あふれる柳川氏のエピソード集をご紹介する

以下緑色文字部分 ブログ主

 

月刊 秘伝 2023年7月号 株式会社BABジャパン(今ならまだバックナンバー購入可能かもしれない、この号は面白かった)

より敬意を持って引用させていただく 茶色文字部分

柳川昌弘氏 二聖二天流柔術憲法/権僧都

保江邦夫氏 理論物理学者/冠光寺眞法 「完訳 カタカムナ」天野成美著 明窓出版で監修をされている

 

柳川氏が、極真重量級の若い子に軽くゴンとやった結果

柳川 前に極真重量級の若い子が入って来たんだけど、ミットを持たせて歩く力でゴンとやったらそのまま座り込んで立てなくなって、それでいつの間にか道場からいなくなっちゃった。代わりに服部先生に来てもらえば良かったね (笑)。
最近の若い子は本当のパンチカというのを知らないんです。体重に比例するんだろうくらいに思っている。そんな甘いもんじゃないんだ。正直、私のパンチカはカシアス・クレイの三倍はありますよ。現役の力士に私が突つ張りを教えれば一撃で相手を吹つ飛ばせるようになります。阿炎あび辺りに教えたいね。受動筋力を使った突きというのは相手が死んでしまうこともあるんだ。同意のことを宮本武蔵も言っていますよ。

 

 

極真会館 - Wikipedia

 
 

モハメド・アリ - Wikipedia

 
 

阿炎政虎 - Wikipedia

 
 

宮本武蔵 - Wikipedia

 

 

中略

柳川氏が、まさかのヤ○ザに監禁されて

柳川 中略 ところで、保江先生もよく言われる宮本武蔵の「うつらかす」同期・同調ですね。これが見事に決まつたことが私にもあります。五人ほどのヤクザが私を玄関に引つ張り込んで逃げないように監禁する訳です。誰かを吹つ飛ばしてしまうと全員で掛かってくるなと思つたので、凄く落ち着いてね。心なんてものは半分芝居みたいなものですから、態度も声も穏やかに振る舞った訳です。そうすると集団催眠にかかったように皆動けなくなった。奥に親分が座っているんだけど、動けないし声ら出せない。そこで私は「これでよろしいですか ?」と二分くらいかけてゆっくり歩き、道の角を曲がったところで走うて逃げたのです (笑)。 

中略

道場破りの連中が来た時、柳川氏が本気で

柳川   前にロシア人が訪ねて来た時も、道場破りに来たような連中も、私が本気で巻藁を突くと、いつの間にかいなくなっちゃうんです。爆弾が爆発したような衝撃があるから怖いんだね。

 

つまり、柳川氏の何が具体的に凄いかというと

保江 脳に関して言うと、皆視覚や聴覚で感じ認識しているのを「今」だと思っています。相手のパンチが飛んでくるのを見て、認識できていると思っている。でも実はできていないんです。視覚・聴覚などは大脳皮質で処理されます。その処理には意外と時間がかかり、速くとも 0.3秒、遅い人は 0.5秒、これが実験の結果です。 0.5秒あればパンチは完全に届いてしまう。ただ、これは相手にも言えて、相手も突き蹴りを出そうと意図して出すのに 0.5秒かかるのです。だから互いに 0.5秒のハンデをもらって戦っていることになる。そのラグを使わずに動作できたら相当に有利です。だから古来から達人と呼ばれるような人たちは考えない。ブルース・リーが言う「考えるな、感じろ」は正にそれです。脳科学を武術に応用して結果を出そうとするならこの事実が大事です。

ブルース・リーが言う「考えるな、感じろ」とは

 

そんなわけで、テストしてみたところ、「柳川氏は、人間じゃないんじゃないか」反応

自由意志をも超えた! 柳川昌弘の “0.07秒”

以前に全身反応速度テストを行った際、柳川氏は0.07秒という結果を打ち出したという。検査官は「0.2秒を切ることは絶対に有り得ない」と山勘を疑い、 3度テストを重ねたが、3回とも同じ反応速度が出たそうだ。

 

0.07秒の柳川氏に、(自分のように)「工夫次第で誰でも到達できる境地でもある。人間は誰でもそんなに変わらないですよ。」と言われても、この上なく無理ゲー

柳川   私は以前、高岡英夫さんに「生死の境に立っている」と言われたんだけど、それがよくわかる気がする。「生きるも死ぬもどっちでもいい」と思っているわけではない。思う暇もないのね。ただす一っと歩いてくと技が早く出る。逆境に徹底的に追い込まれるとそのようになるのです。ただ死を思うだけではこうはならない。もうこれ以上苦しい想いは無いというタイミングで、さらなる不幸に見舞われる。すると「もうなるようになれ」という気持ちになる。それが却って上手くいく原因になったりということが幾度も重なると、考える姿勢が無くなってきます。その状態を言葉で人に認識させるのは難しいです。だから言葉でその辺りのことを説明することはありません。その代わり、「技ができるようになればそのような安心の境地になるから」と確信を持って伝えています。パンチが目前に迫っても入り込んで当たらないようになれば、 自信を持って幸せに生きられるようになりますよ。だから工夫次第で誰でも到達できる境地でもある。人間は誰でもそんなに変わらないですよ。

 

柳川氏に向けられた密かな生徒のたくらみ

柳川 中略 音魂、言魂は一瞬に届くんだ。道場を始めた頃「じゃあ、突いて来い !」と言ったら、生徒が「ここで蹴ったら先生にも入りそうだな」と考えているのが聞こえてきたんで「お前、そう考えているのか ?」と言ったら「すみません、勘弁してください」って (笑)。「それは超能力ですか ?」と言われるけど、恐らく五感を総動員して察知しているんじゃないかな。

 

柳川氏が、TV番組で鍛錬法を披露もガチ過ぎて、たけし氏は

ウィキペディアより引用

柳川は独特の鍛錬方法をいくつも考案している。その中の一つに、棒立ちになったまま壁に倒れ、額を壁にぶつけて身体を止めるものがある。ビートたけし司会のテレビ番組「スーパージョッキー」でこれが披露された時は、その真剣な姿が逆に笑いの対象になっていた。

 

柳川氏が、「スー○ージョキー」で、頭の上に金ダライを落とされる

武道的感性の高め方 柳川昌弘 株式会社BABジャパン より引用

p64 15行

それもテレビ出演の話で恐縮だが、芸人たちの感性の鋭さと、度胸には頭が下がる思いで一杯である。ある番組で、高い所から私の頭に金ダライを落として反応をみるシーンがあった。金ダライが当たる衝撃自体は何ということもない。ただ大きな音がするだけである。

 

柳川氏の言う謎のT氏とは、たけし氏と思われる、たけし氏のせいで、計7回も訳の分からないことに付き合わされたのだろうか

これを見たT氏が私に「あなたはなぜ瞬き一つしないでいられるのか」と首を傾げた。その時、私が「それはですね……」。その瞬間、T氏は「あっ、そうか」と。

私はこれまでこの人ほど感性の鋭い人物に接したことはない。そんな関係からか、T氏の要望 (とディレクターに聞いた)で、計七回も出演した。この七回で行ったことは正中線さえできていれば、誰でもできることばかりである。

 

「金ダライが頭上に落ちて来たらどうしよう!?」、そんな非常事態でも大丈夫!つまり正中線って何?正中線の柳川氏の解説をまとめた記事はこちら

 

柳川昌弘氏2 正中線の確立により起こる驚異の大変化 - トモニ ミチスガラ カムナガラ

前回に引き続き、見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏の技を、以下参考動画でご覧いただきたい柳川氏はほとんど視力が無いという、一般的な空手家のイメージ、筋骨隆々...

goo blog

 

全5回も使って、結局は、柳川昌弘氏のファンなのでは?と思われたかも知れない、最後は、こんなファンサイト風味な作りになってしまったから否定は出来ない、なぜなら、何を隠そうこの最終回が一番気に入っている

参考動画

TV番組「スーパージョッキー」の名物コーナー「ガンバルマン」では、「(素人には絶対に無理な、むしろ決して真似してはいけない)技に無謀なチャレンジをする」という、いつもお決まりの内容 ※これは、残念ながら柳川氏の映像ではない、また、熱湯風呂に浸かった時間分だけ、浸かった人が自分のしたい宣伝を出来るという「熱湯風呂」のコーナーもあり、昔のTV番組の内容は、体当たり的な内容が多く、この時代は規制がなくて面白かった


柳川昌弘氏4 「心の目的意識」の有ることが成就の核

2024-03-24 08:39:25 | 見た目と逆の武道空手家柳川昌弘

 

まず、見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏の技を、以下参考動画でご覧いただきたい

柳川氏はほとんど視力が無いという、一般的な空手家のイメージ、筋骨隆々とはほど遠い体格

しかし、素人の私が一目見ても、繰り出す技の威力が異常に強いのを感じる

「武道空手」とは実戦前提の空手でスポーツの空手とは異なる、つまり「やるか、やられるか」、「○ろされるかもしれない」という状況のガチで生き残りを懸けた技、ということになる

柳川氏はほとんど視力が無い、加えて体格からして腕力はない、非常に不利ではある、だが実戦で勝ちたい、つまり生き残るには何をすべきだろうか?たどり着いた答えが、これらの技ということになる

超人とはどのような人間で、どうしたらそうなれるのだろうか、おそらくそこには潜在アワ量の異常な蓄積が起因しているのではないだろうか

だとしたら、実践的に、超人式潜在アワ量蓄積術が存在するはずである

よって、武道ド素人ではあるが、今回解説を試みようと思った次第である

 

武道的感性の高め方

著者 柳川昌弘 株式会社BABジャパン

より敬意を持って引用させていただく 茶色文字部分

柳川昌弘氏略歴

1939年12月9日生まれ。東京理科大学理学部化学科卒業。海上自衛隊勤務、システムエンジニア、企業調査等を経て、最上荷山大荒行入行、僧籍に入る。1967年より、全日本空手道連盟和道会柳川道場を主宰。現在は、日本伝二聖二天流柔術憲法を創設。全世界武道空手連合主宰。

p180 10行

この「心の目的意識」がない場合、「初心忘るべからず」や「継続は力なり」の対象にはなり得ないのである。なぜなら「意」による当面の目的を目指して努力し続けたとしても、あるレベルから先の進歩は全く期侍できないからである。それは「心の目的」を燈台の光に例えれば、大海の荒波の中を彷徨い続け、ついには難破するか、運が良くても無人島に打ち上げられるしかないからである。

あるいはその技芸が一見すぐれているように見えても、燈台なくしては枝道に入るか価値のない我流に終わるしかないだろう。この燈台とは、武蔵のいう「初めからある真実であり、それは作るものでなく思い出すもの」なのである。それは潜在意識の持つ記憶である。

一方、「心の目的」を正しく持つ者はどうであろうか。初心を維持すると共にそれを一段と明確なものへと育ててゆけば、遠からず必ず「心の目的」と「意の目的」とは一体化して、真の道を成就することになろう。これが日本文化の目標であり、「自然体・平常心」を極意とする所以である。 

そしてその時、初めて気づくことは、初めはボンヤリとしていた初心 (心の目的)が明確な真実そのものであったこと。また、初心が強い願望のようなものと感じていたが、本当のところ「そうなるという予知であった」と。

 言い換えると「心の願望ないし目的と思われたものが、初めからあった「成就した結果におけるフィーリング」に対するものであった、と。さらにいえば、人が先天的に持つ体験上の記憶であった、と気づくのである。それ故に、「人はすでに成りたいものに成っている」といわれるのである。
つまり、人は然るべき結果 (願望の成就)を初めから識っているからこそ、そのための手段 (当面の目的)を正しく選択することが可能なのであり、また努力を尽くすことができるのである。 
故に「心の目的」の有無が、その道を成就し得る最大の素質なのである。単なる一生懸命やカー杯の努力だけでは、その道での大成は不可能なのである。先述したように「価値感の多様化」は、かえって自己実現への道を誤る動機となる所以である。その道の結果 (心の目的)を知ることなく、人工的努力をいかに積み上げたとしても、その道の先にあるのは真実(道理)ではなく、幻想であり妄想であることは、現実が十二分に証明している通りである。

それは、この世で理性的 (人工的)に作った一切の〇〇主義や X X哲学、政治的ビジョンといった数々の理想がかつて実現したこともなく、未来永劫成就することがない幻であることを示している。

「感性の世界には、時間の観念が明確でない」から、結果とか原因といった時系列的差別はなく、過去の原因は、即ち現在の結果 (等流因・等流果と呼ぶ)であり、同じもの、同じ思いなのである。感性の思いは初めから結果と同じ思いであり、後に修行を通じて理性がその真実を確認するのである。 

p186 2行

感性によって真実を発見することは、あらゆる分野にとって共通の目標である。なぜなら、そこに無限の価値を見い出せるからである。
この無限の価値こそ唯一の価値観とすることが真の人生観でなければならないとし、この人生観に合一する道を鍛練するのが日本文化の特徴である。それは自己実現の道であり、武道も例外ではない。 
自己実現が自ずと社会的貢献につながるのは、それが真実なるが故である。そして自己実現には自ずと危機管理の能力が伴うものである。

 

柳川氏の著書を読んで、感じたことをまとめてみると

1 感受を可能にする、新たな知覚の開拓

2 感受の状態に留まり続ける、新たな知覚の定着

3 感受の状態と身体を連動させる、新たな身体の使い方の開拓

4 1~3をくり返すことで、練度が上がり、精神が高まる

武道、鎮魂行も最終目的は全て同じ、目に見えない存在、潜在意識、カタカムナでいう潜象世界の存在、宇宙、神、と呼ばれる存在とつながることではないだろうか

感受の体験から、精神を高め、生きることの意味、人とは如何に生きるべきか、を知り、さらにまた精神を高める

以前の精神は今より低く、以前の欲求も今より低いということに気が付く

以前の欲求、武道なら試合に勝ちたい、鎮魂なら霊力を高めたい、などは現在の精神性から考えると、以前よりこだわりなく思えてきたり、もしくは欲求自体は変わらないかも知れないが、その欲求のもとの価値観が変わってくるかもしれない

例えば、価値観が、個人の為のものから、世の為のものに変わったなど

武道や鎮魂行は、振り返ってみれば精神を高めるためのきっかけ、手段だったと気が付く、自分に自覚が無かっただけで、無意識の自分は精神を高めるためにはそれらの手段が必要と知っていたとも思える

では、精神が高まったその先にあるものは何だろうか?

それは、おのおのこの世界に、使命、命ミコトを以て、今このタイミングで生まれて来た謎解きが待っていると実感する

そして、その使命、命ミコトは、生まれる前に決められたとしても、決められた理由は、決定より前の経験から導き出されているはずだ

人の寿命を考えれば、少なくとも何十年単位ではなく、何百年単位で計画が練られたことになる、現世の日常に流され続けるか、何百年単位で練られたであろう計画を見つけられるか、その謎解きのヒントは武道や鎮魂法に、さらに、冗談のようだが、アンパンマンの歌詞にもある

 

何のために 生まれて

何をして 生きるのか

答えられない なんて

そんなのは いやだ!

 

時は 早く 過ぎる

光る星は 消える

だから 君は 行くんだ

微笑んで

 

見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏のシリーズは次回「思わず笑ってしまう柳川氏ガチエピソード集」で最終回となる


柳川昌弘氏3 自然体・平常心が最強なワケ

2024-03-17 07:17:28 | 見た目と逆の武道空手家柳川昌弘

 

まず、見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏の技を、以下参考動画でご覧いただきたい

柳川氏はほとんど視力が無いという、一般的な空手家のイメージ、筋骨隆々とはほど遠い体格

しかし、素人の私が一目見ても、繰り出す技の威力が異常に強いのを感じる

そんな柳川氏が、生き残るには何をすべきだろうか?たどり着いた答えが、これらの技ということになる

超人とはどのような人間で、どうしたらそうなれるのだろうか、おそらくそこには潜在アワ量の異常な蓄積が起因しているのではないだろうか

だとしたら、実践的に、超人式潜在アワ量蓄積術が存在するはずである

よって、武道ド素人ではあるが、今回解説を試みようと思った次第である

 

 

 

武道的感性の高め方

著者 柳川昌弘 株式会社BABジャパン

より敬意を持って引用させていただく 茶色文字部分

柳川昌弘氏略歴

1939年12月9日生まれ。東京理科大学理学部化学科卒業。海上自衛隊勤務、システムエンジニア、企業調査等を経て、最上荷山大荒行入行、僧籍に入る。1967年より、全日本空手道連盟和道会柳川道場を主宰。現在は、日本伝二聖二天流柔術憲法を創設。全世界武道空手連合主宰。

 

山蔭神道家第79代故山蔭基央氏の著書「神道の神秘」春秋社

より敬意を持って引用させていただく 紫色文字部分

 

宇野多美恵解釈・総集編

日本の上古代文明とカタカムナウタヒ (第一巻) 潜象物理学会

より敬意を持って引用させていただく 青色文字部分

 

ブログ主考察 緑色文字部分

 

p108 2行

空手道初代名人十段・大塚博紀最高師範は、その著『空手道』にて、武道修行の戒めとして「十悪」を説いている。それは「恐れ」「我慢 (おごり高ぶること、侮ること )」「過信」「貪欲」「怒り」「危あやぶみ」「疑い」「迷い」「悔い」「慢心 (増上慢、卑下ひげ慢)」である。これらのうち「怒り」「悔い」は、過去の重荷を引きずっているにすぎない (現在には存在しない思い込み)。「業ごう」として無意識の感性の働きを妨害するものである。故にその心が現在の真実に立脚していないから、技の理を得ることができない。技や体の動きは、時々刻々と誘導弾のように変化する。その変化の様子はアナログ的にみえるが、コンピュータはデジタル的に情報を得て判断し実行命令を出している。心の働きも全くコンピュータの如く働くから、技は点から点へと移るのが真実である。つまり、心は常に現在の状況のみをとらえ、次の点のみ予測するのであって、初めからターゲットの位置に技を向けているのではない。故に、「永遠の現在」の真実をみる心でなければ、真の「技・術・芸」に至ることはできない。 
過去の主に(記憶)は、状況判断を誤る結果となろう。それ故、現在において存在しない思いは「妄想」であって、捨てるべき思いなのである。それが無心であり、技の進歩は「無心が極意」なのである。また「恐れ」「危ぶみ」「疑い」「迷い」の心も、現住の真実をみていない心の状態である。言い換えると、未だ来てもいないプレッシャーと呼ばれる妄想である。永遠の現在の心でしか真実をみることはできないのである。

中略

「過去は過ぎ去り、未来は未だ来ず」あるは現在のみであり、それが唯一の真実である。「悪い暗示にとりつかれたり」「とり越し苦労をしたり」しないほうがよいのである。大方の悩みというものは「実体」がなく、したがって「悩まなければ」ないも同然であろう。その証拠に、三〇年以上昔の人間関係について、未だ悩んでいる人は皆無であろう。

このように、真実でない過去や未来の思いは、顕在意識の持つ妄想であり、潜在意識の感性に悪影響を与えてはならないのである。
野生動物は、そうした思い込みがないから、相手がどうであれ堂々と戦うことができる。未来の予想もせず、したがってプレッシャーは存在しない。  
中略
武道修行にとって、これら十悪は、最もつまらぬ心の居着きなのである。感性とは無心のなかにのみ存在することを知るべきである。

「居着く」とは、「そこに落ち付いて、いつづける」、「来たまま帰らずに住みつく。居すわる」など、武道的「居着き」とは心や体の態勢が停止状態になっているため、相手に対して柔軟で素早い反応が出来ない、いつでも動ける静止状態(スタンバイ状態)とは異なると思われる

未来の予想も不安も、意識を「今、今に生きる」ようにすれば消える、それが超人への道の第一歩となるようだ

p299 18行

「イマ トハ ヒトワ」とは、 
「イ」の「マ」である「今」(現在)は、「イマ」「イマ」が統合トハされた結果ヒトワとして存在するのであり、忽ち次の 「イマ」に統合トハされて「ヒトワ」となる。その「イマ」の一瞬といえども、それまでの、すべてトハの「イマ」、則ち過去のスガタトキ・カタチトコロが、その一瞬にヒトツに統合されたものである、という認識である。
どのような事件であっても、ある一瞬イマを起点とするが、その一瞬イマに至るまでの、「イマ」「イマ」のツヅキがあってこそ、のことである。

「イ」 生命体を形づくる最小単位、現象界最小単位の粒子

「マ」 現象の中の潜象(ヌシ)

 

イマとは、現象の中の潜象(ヌシ)のはたらきで、生命体を形づくる最小単位、現象界最小単位の粒子が生まれる

現象界において潜象のチカラは常にはたらいている、潜象のチカラのかかわりがなければ生命のイマは存続されない、つまり、生きるとは、潜象のチカラによって生かされている、ということ、潜象のチカラのおよぶ速さは、光も超える無限高速粒子、アマハヤミ(「ミ」潜象の粒子)だ、潜象存在が思念したと同時にいのちが生まれ、いのちが生きかされる、瞬時なのだから、そこに時間差はないように思う

イマに意識を合わせるとは時間差なく「神の意識」とシンクロするということで、とても感動的なことに思える

「カ(潜象存在)」のオモヒが生まれた瞬間に、「ミ(潜象の粒子)」が、イマ、イマに降り注ぐ

p113 7行

自信と忍耐力は、武道の鍛錬だけでなく、感性訓練、超能力訓練に欠かせないほど有効である。

霊能力開発とも言い換えることが出来る

p115 2行

荒行は「忍」の修行である。「かわいい子には旅させよ」は昔の話であるが、人は苦労を苦労と感じないようになることが大切である。苦労が顔に出るようでは好ましくない。動物にはそれが全くない。苦労が苦労ではなくなったとき、人は感性が冴え、大きなチャンスがみえるようになるのである。平常心である。平常心は自然体にのみ住するのである。

あまりに身体に合わない荒行は危険だが、人生の厳しいときこそ平常心を失ってはいけない、という教え、サバイバルの知恵ではないだろうか

p119 3行

不毛な自我意識を守ろうとする「思い込み」は、武道の上達にとって最大の敵とされている。

中略

「何も考えるな」と、理性を押えようとすれば、かえって理性が働くものである。そこで「呼吸を抑え、姿勢を正し、音に対する集力を高め、周囲の気配の変化に感性を向けるこどが基本である。

 

「呼吸を抑え」 静かな呼吸 リラックス状態にする

「姿勢を正す」 心身に無駄なストレスがかからず、リラックス状態にする

「音に対する集中力を高め」 この方法非常に有効、素早く集中力を得やすい

「周囲の気配察知の変化に感性を向ける」 上記3つの実行により直観力をフル稼働可能にし、この次元とさらに上の次元が同時に感受可能になる

 

今まで自分を狭い世界に閉じ込めていた、自我意識の枠を打ち破ってこそ、新たな精神の自分に出会える、「カムナガラ」の生き方は、自我意識と無限の宇宙意識の割合が、初めは9:1くらいから、1:9くらいに変化し、日常の意識が無限に近く広がる感覚に思える

「音に対する集力」は鎮魂においても、素早い効果を発揮すると実感する

p120 4行

武道的感性の能力発揮スイッチは、いつでもどこでも一瞬で入らなくては実用にならないからだ。特に立っている場合での自然体が、まずできていなければならない。

そうすれば、坐っている場合の自然体も自ずと可能となるものである。平常心も自ずと備わってくるものである。

坐っているとき、正中線を崩されたとき、わかりづらい、一方、立っている場合のときはぐらつきがハッキリわかるから、まずは、「立っている場合の自然体」の体得は大切に思われる

p121 2行

何気なく周囲の気配に集中し、感性が自ずと働くようになれば、理性を働かせても何らとらわれることなく無心が習慣づけられてゆくのである。

どんなときでも、平常心・不動心でいられるなら、危機回避は可能になる、直観力は少し先の未来を予知することも可能にする、そのため現代より古代はもっと直観力を活用していたように思う

p122 2行

このような話は案外多いものである。姿勢が良いというのは自然体を指す。自然体には平常心が働くから「問題に対する感性がフル稼働する」ものである。実は文章を書くのも、理性でなく感性によることでスムーズに進むのでのである。理性は校正のために使用するものである。

故に苦手な芸に対しては、まず姿勢正すことが先決である。姿勢の悪さは「体のどこかにストレスがある」証拠である。ストレスは「邪念・雑念」と共存するものである。それでは芸が不自然となるから、苦手となるのは当然である。故に、苦手な芸に対しては姿勢を正して体当たりすれば、必ず克服することができる。ただし、芸によって対応する個性は様々だから、必ずしもその芸の道が自らに向くとは限らない。しかし、苦手の克服は自らの道 (芸)を向上させるものである。「一芸は万芸に通ず」は真実である。

p128 6行

しかし、武道では一瞬の居着きが、同程度の技量の者同士の勝負では致命的となることが多い。この事実は日本文化としての武道の技術が「居着きがないところまで発達した」からでもあろう。

古代の日本は、「居着きがない」文明だった、伝統ある武道にはそれが受け継がれている、それら日本の伝統を受け継ぐものを学ぶとは、現代の心身「居着き」だらけの日常から、己を解放させるキッカケを与えてくれるのかもしれない

p128 11行

まして、居着きの有無は武道の技術にとって日常とは比べものにならぬ重大事なのである。故に、居着きを除く努力工夫は日常の心構え、そして気構えとするよう『五輪書』でも説いているのである。心構えは意叢的な心掛けであるが、気構えとは「感性」の問題であり、リラックスした身構えの上に養成されるもので「自然体・平常心」ないし「大胆・細心」 (『五輪書』)などと表現する。

武道で問題となる居着きは「目・呼吸・心・身体・足捌き・技術」に表れる。しかし、「感性と一体化した技」を磨くなら、「目・呼吸・身体・技術」の居着きは自然と消えてゆく。

「神懸かり」から派生する自動書記などの防御態勢での応用の場合は、静止状態で行うから、「呼吸・心・身体」の居着きを取り除けばよいことになる

「自然体・平常心」を保てば、呼吸と身体の居着きは自然と消えるという

「自然体をつくるための正しい姿勢・平常心をつくるための澄んだ心」を維持できれば、準備が出来たことになる

正しい姿勢で座り、澄んだ心を体得するのは、鎮魂行まんまである

鎮魂行において、悪しきものに憑依されやすいというのは、不自然な呼吸、不自然な姿勢の時に思う、鎮魂行で変に頑張りすぎたり、力みすぎたり、逆に虚脱状態になったりと、不自然な状態になった時が心身の弱い状態になったときで、鎮魂以外に、瞑想、坐禅などもの時も同様に思う、平常心・不動心・リラックス状態が重要

p130 5行

これでは正しい技にはならない。その原因は「意識的に極めようとすること」なのである。それでは武道の技にはならない。体幹で突き、蹴り、進むことなくして、正確で、素早く強力な技にならず、ついに技の理へ至ることができない。それによって正中線の意識も得られぬことになろう。

中略

結局は無用な意識が先に働くことが原因なのである。

「無用な意識」が発生するのは、焦りなどの欲、小さい自我意識に捕らわれている時のよう思う、大きな存在とのつながりである、感受が途切れた時、顕在意識のみによる空回りが起こったとき、雑念の暴走を止めるには鎮魂行も一つの方法

p170 6行

鎮魂の意義
この「鎮魂」とは、死者の霊を鎮撫する「レクイエム」のことではない。また、単に精神を静かにした坐るだけのことでもない。
「鎮魂」という言葉の歴史は古い。『二十二社本縁』という古書の「石上神宮」の条に、「鎮魂というは、離遊の運魂をして身休の中府に鎮めしむるの義なり」とあり、また平安時代に編まれた「令義解りょうぎのげ」には、「人の陽気を魂と言う。魂は運なり。離遊の運魂を招きて、身体の中府に鎮む。故に鎮魂と日う」とある。

この鎮魂法として有名なのは、奈良県大理の石上神宮に伝わる「鎮魂」法である。これは「十種とくさの神宝かんだから」という神秘な呪文を唱えながら行なうもので、病を癒し、死者の亡魂をも引きとどめて生き返らせる古来の秘法とされるが、ただしこれは神職が人に施す修法であり、求道者の行法ではない。山蔭家にも別流の「十種の神宝」法が伝わっているが、それについては省略する。
ともあれ、一般の人々の魂は、身体の周りにブワーッと散乱している。それを凝集させるのが「鎮魂」である。

このことは霊的な感受力がなければわからない。多くの人の心は、霊的な観察力で見ると、人体の周囲に半径五〇センチからし七〇センチほどの大きさでガス状に広がっているのである。このガスは、アンテナのように感受性が強く、幽霊であれ、人の心であれ、無差別に感受する。特に霊感体質の人、チャネラーなどと自称している人は、このだらしなく広がったガス状アンテナで、何でもお構いなしに受け取ってしまうので、しばしば、心の分裂を起こしたり病気になったりするのである。この心は、少なくともサッカーボールくらいの大きさにぎゅっと凝集されているのが望ましい。できればー〇センチくらい の大きさで、臍下丹田さいかたんでんに納まっているのが理想である。このような状態にもっていくことを「鎮魂」というのである。こうなった時、心は静まり、四魂の働きは整えられ、内奥にある直日霊との接触が初めて可能になるのである。

これを導くには、正しい坐法・呼吸法などの行法が必要である。山蔭神道の行法は、誰にでもできるやさしいもの

禅病の原因は、全身をめぐる「気」のエネルギーが頭に上がりすぎることによって起こるという説あり、そのため気を臍へそ下にある臍下丹田へと降ろしてあげると症状が改善するといわれる

「臍下丹田は、どこにあるのかよくわからない?」問題、私も以前はそうだった、それには、合氣道家藤平光一氏の心身統一合氣道の考え方が、非常に分かりやすい、後日記事掲載予定

p172 図より引用

p132 3行

空手の理 (フィーリング)とは感性の問題なのである。「居着き」は、こうした感性が働く世界では、決して起こることはないのである。故に武道空手は「形」の「理」から入ることが必須条件といえるのである。 

ぐうたら寝ていても、警戒すれば、すっと一瞬で目が覚める、野良猫の世界には心身の「居着き」が全くない、そしていつもリラックスしている、だから猫が道路の真ん中で寝転んでいても、結局は危機回避をして平気である

p134 4行

いついかなる時であれ、「感性」と「脱力」とは同居する性質があること“それは「読み」に対するだけのものでなく、技の裏面 (目に見えぬ部分)である「理」の要点 (一端)における真実なのである。 
具体的にいえば、武道空手の技術は、かつてより「力ではない」とか「小よく大を制す」といわれてきた。なぜなら「同じカでも楽で効率的に、しかもタイミングよく使用できる」技術だからである。

そのうえ技の「起こり」や「気配」を消すことも容易であり、技の威力も生のカの二倍以上とすることも十分可能である。しかも、技の成長において年齢的限界はないといっても過言ではない。年齢的限界とはスポーツ的な無理に対する限界だけでない。「理」に基づく武道空手の技・術・芸は、限りなく上達する喜びを伴うことのほうが大事な点であろう。

このような武道空手の体得を目指すためには、基本技や形をカー杯練習するだけではまず不可能である。何よりも大切なことは、形を正しく鍛錬することである。正しくとは、武道の理を可能な限り表現するために、作られている形の心を知ることである。

「脱力」は全身だらっとした虚脱状態とは異なるを覚えておくこと。注意すべきは、虚脱状態は「最も弱い態勢」になり、「隙」となり悪しきものの憑依を誘発しやすくなる。大切なことは、高級霊は虚脱状態をけっして望まない。

つまり常時、「自然体・平常心」でいることに気を付けることも重要になる。

「正しくとは、武道の理を可能な限り表現するために、作られている形の心を知ることである。」とは、武道空手に限らず、究極レベルまで極めようとすれば、天然自然の不変の法則を理解し、そのことわりに沿わなければ到達できない、カタカムナで言うところのマノスベ(「天然自然の変遷する方法スベ」)に生きなければ解決しない、ということに思われる。武道に限らず、上達の途上にスランプが起こるのも、「あなたのやっていることは、マノスベですか?」と正しい道へのヒントが与えられているのだろう

p136 7行

それは、『五輪書』の水の巻の主旨である「技はゆっくりと、スムーズにできれば (無論、無心で)達人の境地」とは全く異なるものであることを認識することが何より先決である。

「ゆっくりと、スムーズに」の意味のなかに、常に「どこを、どのように脱力するか」かつ、「リラックスとは一方では無心であること」を教えている。もし、それが可能になれば、いやでも「技」と「理」とが調和していることがわかるであろう。「鳥の両翼」とは、そうした安定したフィーリングを表す例えである。

こうした古人の思惑は、いつの時代でも裏切られがちのようである。形の種類が増し、流派が生じるのも人々の個性だけの理由ではなく、癖によるところも少なくない。しかも、技に対する癖であり、「理」にはそれがないことはいうまでもない。「理より入るは上達早し。技から入るは上達遅し」とは、その言葉通りの意味というより、「理を認識して鍛鍊する者が少ない」という意味が 強いように思われる。
故に、「ゆっくりと、スムーズに」が大切なのである。そうすれば「技」も「理」も「烏の両翼」となって勝手についてくるのである。

「ゆっくり」していないとき、「忙しい」とは心が亡くなると書く、日常生活で「ついうっかりして」は忙しい時が多い、注意力欠如は、忙しく、ひとつのことに気を取られているから起こる

忙しい時だけでなく、焦りや不安なときなども、ひとつのことに気を取られているから、注意力欠如になりがちになる、これもある意味「居着き」

「ゆっくり」させない、というのも戦術になるだろう、ペースを乱し、注意力を欠如させると、防御が甘くなる、隙ができる、だから相手のペースに乗せられず、どんな場合においても、「ゆっくりと、スムーズに」を守ることが防御の要にもなるように思う

p138 9行

この「組太刀」の如く「ゆっくりと、スムーズに」無心で、脱力して形を「理」として鍛錬するのである。形のなかの技は実戦のヒナ型ではなく基本技であるから、そのままの形かたちでカ一杯・素早く行うと、その「理」を失ってしまうのである。意識的なカやスピードを優先すると、「理」 (フィーリング)を体感できないことを知らねばならない。そして「ゆっくりと、スムーズに行うこと」は、技に必要なすべての力を使わなければできないことを知ることにになる。

故に、武道空手の形は、初めは「理」と考えるほうが上達が早いものである。カー杯の練習では、技も理も体得できないことを知り、脱力し、リラックスして行うことが何よりも重要なのである。

 

最後に、ブログ主の受けた運転免許更新講習の内容の一部から

ドライバーが、事故を未然に防ぐため

※常に余裕を持つこと

事故の背後要因は、「焦り 思い込み イライラ 早とちり」、これらの対策には

◎もしや?と、疑うこころ

◎一時停止

◎確認

安全運転の鍵を握るのは、『あなたのこころ!!』

(自動車だけに「鍵」で、講習ラストを締めている、きれいに決まった)

直観ココロなきところに、安全なし!!!

(「直観ココロ」をフルに使おう、武道も、自動車運転も、日常何でも、いつも忘れずに)

 

見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏のシリーズは次回に続く


柳川昌弘氏2 正中線の確立により起こる驚異の大変化

2024-03-10 08:12:00 | 見た目と逆の武道空手家柳川昌弘

 

前回に引き続き、見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏の技を、以下参考動画でご覧いただきたい

柳川氏はほとんど視力が無いという、一般的な空手家のイメージ、筋骨隆々とはほど遠い体格

しかし、素人の私が一目見ても、繰り出す技の威力が異常に強いのを感じる

なぜ、こんな細い体から、こんな爆発的な技が繰り出せるのか、誰しも疑問に思われたと思う

「武道空手」とは実戦前提の空手でスポーツの空手とは異なる、つまり「やるか、やられるか」、「○ろされるかもしれない」という状況のガチで生き残りを懸けた技、ということになる

柳川氏はほとんど視力が無い、加えて体格からして腕力はない、非常に不利ではある、だが実戦で勝ちたい、つまり生き残るには何をすべきだろうか?たどり着いた答えが、これらの技ということになる

超人とはどのような人間で、どうしたらそうなれるのだろうか、おそらくそこには潜在アワ量の異常な蓄積が起因しているのではないだろうか

だとしたら、実践的に、超人式潜在アワ量蓄積術が存在するはずである

よって、武道ド素人ではあるが、今回解説を試みようと思った次第である

一切の理はすべて関連した唯一の理 (正中線)である (本書抜粋)

今回は「正中線」の確立について解説してゆく

「正中線」の確立は、武道家以外の方にも非常に重要に思われる

 

 

 

武道的感性の高め方

著者 柳川昌弘 株式会社BABジャパン

より敬意を持って引用させていただく 茶色文字部分

柳川昌弘氏略歴

1939年12月9日生まれ。東京理科大学理学部化学科卒業。海上自衛隊勤務、システムエンジニア、企業調査等を経て、最上荷山大荒行入行、僧籍に入る。1967年より、全日本空手道連盟和道会柳川道場を主宰。現在は、日本伝二聖二天流柔術憲法を創設。全世界武道空手連合主宰。

 

山蔭神道家第79代故山蔭基央氏の著書「神道の生き方」学研パブリッシング社

敬意を持って引用させていただく 紫色文字部分

 

ブログ主考察 緑色文字部分

 

p26 6行

相手の意図を読む感性と、技に関わる「理」に対する感性の一致といったが、それを可能とするには、結局、自らの正中線の確立が先決である。つまり「攻防一体」の技術とは、正中線の微妙な動きによって、いつでもどこでも可能となるからだ。はっきりいえば、正中線が、心(無意識)、技 (攻防一体の動き)、体 (攻防一体の捌き)のコントロールセン夕—となるように鍛鍊できれば、武道空手は一応可能となるのである。一応とは基本的に、という意味である。

別に空手に限らず相手を制するのは「自らの正中線を自由自在に操作して、相手の正中線の心・技・体を崩すことであるといえる。

これが無意識で可能となり、かつ、相手の意識化を誘うことが武道の極意といっても過言ではない。自然体・平常心を武道の極意とするのも、この事実と全く変わらない。無論、そのような正中線の安定を補助する「居着いつかぬ足捌あしさばき」「浮き身・沈身ちんしん」 (すべて形に秘められている)や、「観の目」が必要であることはいうまでもない。しかし、本当の観の目は、正中線の確立によって、一段と鋭くなるのである。
故に、武道空手入門は、マニュアル的順序があるわけではなく、個人が入り易いところ (理)から入ることが何より大事なことである。そうすれば、一切の理はすべて関連した唯一の理 (正中線)であるから、間違になく真実に接近するものである。

感性の目覚めといっても、正中線の重要性に接近する方向へ向かっていれば何ら問題はない。

正中線の確立で「観の目」がさらに鋭くなる

p29 2行

武道空手を体得しようとするなら、第一に短期目的として、自らが入り易い「理 (技を伴った)」から入ることであり、一方、終始、長期目標として「正中線」を心技体の面から部品を造るつもりで練習し続ければ、遅かれ早かれ「極意を知って鍛錬できる」ようになる。この時点で、すでに一人前になっている。

p30 14行

正中線ができたと認識できる感性は、「理」の体得によって育ってゆくものだ。そのような技術的な感性と共に、相手の心を読む感性を磨くことで、両感性が一体化し一切の居着きが消えてゆくものなのである。合気道でいう「合気」の意であろうか。

正中線の確立で「観の目」がさらに鋭くなる→直観力が高まる→自らの身体の動きをより感受しやすくなって、繊細な動きが可能になる、加えて相手の思念を感受しやすくなる→瞬間に正しい判断とそれに伴う正しい動作が可能になる

p33 1行

ところで、相手の意図や技を読む場合、自らはその意識を真っ白にしておく必要がある。そうすると相手の意識が自らの白紙の心に写ってくるからだ。故に 自然体が大事という教えは真実であることがわかってくるのである。

当ブログ記事で自動書記の実践記録を掲載している、自動書記を行うときも同様に、思念を受信するには、まず自らの思念(この場合、雑念)を鎮めなければならない、自然体とは雑念のない状態、いつでも感受できる態勢での待機状態、波立たぬ水面のような澄んだ意識の状態

自動書記や神懸かりにおいて、雑霊の干渉は非常に多い、雑霊は身体を持たず霊界でさまよう存在、だから、身体を乗っ取る、乗っ取るまでにならなくても干渉をして、自分の思い通りにしたいという欲求が非常に強い

そのような雑霊の人間に対する攻略法的な方法は、驚くことに、武道空手の要諦と同じだ、相手の態勢を崩し、防御の弱まった状態にさせようとする

対戦相手は、正中線を崩しにかかってくるだろう、それは自然体・平常心を保てなくする、相手に正しい判断を出来なくするため、目的は相手を意のままにするため

だから、悪しき雑霊からの防御法とは、意識を乗っ取られないため、正中線の確立と自然な呼吸をどんな時も維持すること

もちろん、心身を健康に保つことも重要である、これも武道と同じく戦う前からの鍛錬のひとつといえる

正中線を崩され、呼吸が不自然になれば、身体に不健康な力(低級な思念波)がかかっている証拠となる

我が師匠が、憑依が解けた姿の私を形容して、「鷹のような背が(障りが無くなったのを)醸している」とおっしゃっていたのはそのためである

それ以外でも体が重い、頭痛がするなどの症状が発生している場合があるが、その場で自覚することが難しい場合がある

もし読者の方の中で、このような良くない憑霊を経験をされている場合、余程堅牢な守備が無い限り、直ちに自動書記などの憑霊はお止めになることを警告として申し上げておく

中略

とにかく、呼吸をリラックスして体の力を抜き、音に集中することにより臭覚が鋭くなることもあれば、味覚が鋭くなる人も少なくないであろう。味覚が鋭くなると、自らに合った適切な食物を選べ、食べる量が少なくなり、一切の感性が鋭くなる。「骨」の正常な発達は感性に直結し、「気骨」を育てるものである (『空手の理』 (福昌堂刊 )参照 )。そして「食」と「骨」と「感性」とが相互に大きく関係することがわかってくる。

音に注意していると他の一切の感性が飛躍するのは、音には霊的な (第六感といわれるような)力があるからかもしれぬ。

私の場合、身体に良くない食品を徹底的に排除した食生活をしていると、味覚や臭覚が敏感になってきた、自分にとって安全な食品、食物も選ぶ感覚も精度が上がり、小食にもなった、全て自然にそうなっていった、この点は柳川氏の体験と同じと言える

野生の動物は、自らの毒になるような食物を自分で判断できる、人間も本来は、そのような直観力が備わっている、それを使わないから鈍ってしまっているだけのように思う

p35 10行

そこではっきりしたことは、武道の名人上手と呼ばれる人は、相手と向かい合ったときに息を止めている (少しずつ吐いている)ことである。

中略

呼吸の停止 (リラックスして)と音への集中の組み合わせこそが、感性の向上の秘訣であると断言できる。それは、自ずと「見の目弱く、観の目強く」働く最良の方法であろう。スポーツ空手の世界では「相手の動きをよく見ろ」と指導することが多い。これでは真の上達はあり得ない。

中略

武道的感性とは、日本文化の必然的発達に向かう大成への必須条件である。

今は日本文化の価値を最も応用し易い時代である。日本文化の有する無限の価値が、今こそ見直されるべき時代である。日本文化の発達に逆行するようなルールから入るスポーツ空手からは、真の価値を何一つ得るところなく、したがって勝者に対しても何ら評価されないのは当然であろう。

p43 12行

人の感性というのは、無言の感動を受けることがある。あるいは、尊敬する人物に似てくることもあるだろう。ユングの説く個人的無意織の内容(構造)では、 似た者同士の間にはシンクロニシティが働き易いという。人の意志というものがエネルギーであり、振動性(波動性)を持つとすれば、それが発信機であると共に受信機でもあるような性質が個人的無意識の性質なのだろう。

p52 8行

武道では「自然体・平常心」と、それに基づく居着かぬ技術によって、落ち着いた深く静かな呼吸を自然と行うようになる。動作の内容に従った呼吸を自然という。宮本武蔵は、呼吸については特に述べていないが、自然体・平常心の一部と考えていたのであろう。空手道初代名人十段・大塚博紀先生も、常に「呼吸は自然でよい」と説いていた。肩 (胸)で荒い息をするようでは、気配どころか、明確な居着きが現れることは誰もが知っている。気配以前に、相手の「腹の底」を知るより「胸の内」を知るほうがずっと容易である。故に、胸で呼吸することは武道では禁物なのである。気配とは、相手やその場の様子を直感する「感性」の意である。正確には、「相手の気配を、自己の気配の如く直観する能力」であり、まさにシンクロニシティそのものである。

子供の頃、「かくれんぼ」という遊びをしたことがあると思う。自分が隠れている所に鬼が近づきつつあると感じた時、誰でも息を止める(潜める)であろう。息を止める (潜める)のは、自らの気配 (存在)を消すと共に、鬼の気配を知ろうとするためである。そのような真実を、人は誰もが生まれながらにして知っているからである。

故に、息を止め (潜め)、心身をリラックスすることは、相手と対峙中に「先に気配を読み、かつ先手を取るための大事な条件である。「見の目」で相手の動きを知ろうとすることは、すでに「後手」となっていると考えるべきである。

心身をリラックスさせるこつは、自然体(正中線)の確立に通じるばかりでなく。酸素の必要量にも大きく関わっている。「体のどこかに無用な力が働いていることと、無用な意識を働かせることは相関性がある」からである。しかも、それが「感性の働きを強く妨害する」ことに気づかねばならない。

無心 (無用な理性を働かせないこと)は、イコール、感性を働かせる最大の条件なのである。それが「見の目弱く、観の目強く」にも通じているのである。 

p69 8行

言い換えると「心 (正しい)の伴わない技は単なる技であり、技の伴わない心は価値がない」とする。故に、価値ある技術・心技を求めるのが日本文化の目的であり、最終目標なのである。「知行合一」を目標とする所以である。 
この最終目標を改めて「芸」という   武芸者とはそんな意味から発した尊称であった。真なる技(芸)は、人工的に作ることはできず「自然体・平常心」を思い出すことにより初めて可能と考えるのが結論である。 
そこには、動きや形である技は考える必要がない。技 (業)は繰り返しにより身につく習性にすぎぬからである。思い出すべき極意を自然体 (体の状態)に備わった平常心と考えたのである。この平常心を無心ともいう。

中略

したがって、「無心」というよりも 「不動心」と呼ぶほうが良いだろう。不動心といつても心が全く動揺しないということではない。一瞬動揺しても、それが加速することなくすぐ元に戻ることである。

p72 4行

もし、我々が「自然体・平常心」を保って生活しているとすれば、自ずと「見・観両眼の使い方」は「見の目弱く、観の目強く」あることだろう。しかし、現代社会で生活していこうとすれば、「見の目弱く、観の目強く」の使い分けが大きく変化せざるを得なくなるだろう。

p73 2行

かっての優れた武人は、皆このようだったのだろう。要するに「 見の目弱く、観の目強く」は普段からテクニックとして学んでおかなければならない、という大事なのだ。

 

言霊についてと、邪気邪霊の対抗作用である平常心、不動心について山蔭基央氏はこう語る

p331 9行

そう、昔から聖者というのは、この中和体の存在なのである。

そうした体になるためには、総合的に愛の心を表現できる“善言美詞よごと”を修得しないといけない。

かつて持統天皇の御代(六八九年)に撰善言詞司よごとえびのつかさという役所が設けられ、善い詞ことばというのはどういう詞かという研究がなされ、その手本となるものが『万葉集』となった。もちろん宣命せんみようや祝詞にもなったのである。

さらに時代が下がり、『古今集』(九〇五年)や『新古今集』(一二〇五年)などが勅撰され、優雅な言葉づかいとともに人の心を動かす詞が撰ばれた。

このよき言葉(上品な言葉)、人の心を打つ言霊をはくことが、人々を幸せにするとされたのである。いつまでたっても変わらぬ善言よごととは、「ありがとうございます」「うれしい」「すばらしい」「あっぱれ」などであろうか。

『古語拾遺』は、天の岩戸開きのとき、神々が唱えた詞を紹介している。

「あな天晴あはれ、あな面白おもしろ、あな手伸たのし(楽し)、あな清明さやけ、おけ」と唱えて、天照大神の再出現を祝ったというのである。

この言葉は「後祝い」というよりも「予祝よしゆく」の言葉として、ことあるごとに唱えるとよい。そうすることで物事がうまくいくようになるとは、多くの体験者が語っているところである。それゆえ精神統一の修行法を実修するときには、体をゆすり動かした後で、「あな天晴れ、あな面白、あな楽し、あな清明、おけ」と唱える。

そうすることで、停滞している心が吹き飛び、明るくなっていくのである。この明るい心でなければ、中和のエネルギーは放射されない。中和エネルギーが出る人でないと、いろいろな邪気邪霊(魔障の霊)を浄化したり祓い除く力は発揮できないのである。

この調和エネルギーを、長時間保持することは容易ではない。どうかしたことで、心がゆらぐと隙間すきまができてしまう。

太古神道でも平常心・不動心は重要

だから、よくいわれるように、平常心だとか不動心が必要となるのであって、常に心を練り鍛えていないと、心はいつでも乱されてしまうのである。

こうしたことから、修行するにあたっては次のようにいわれる。

「心を乱すな、心を濁すな、心を迷わすな」

これは、宗教次第でもなければ、精神修養の格言でもない。武道・華道・書道・芸道、それに会社経営にも通じる心得である。

 

正中線の確立で起こることをまとめると

直観力=「観の目」、潜在意識、生物脳、アワ脳 が強化され優位になる

自然体・平常心を保てる=心身の一番強い態勢をつくれる=深く静かな呼吸がでできる=体のどこかに無用な力が入らない=雑念が起こりにくい

 

正中線は、健康とともに深い意識をもたらし、不動心の入り口になる、悪しき霊の防御にもなる

 

見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏のシリーズは次回に続く

 

心身によくない食物を排した、私の実践した記録まとめ

 

実践してきた解毒法 その1 水 空気 - トモニ ミチスガラ カムナガラ

実践してきた解毒法①水②空気③食物可能な限り毒となるものは「食べない、排出する」「化学物質を避けることが治療であり予防となる」①水水は最高に良質のものを飲むことで解...

goo blog

 

実録、霊界通信の霊界側の発信者、我が師匠大輔たいふの正体とは、以下記事から連載開始

 

神さまのつぶやき祀り001 幸(さい)の神・三神とは - トモニ ミチスガラ カムナガラ

今回から、新カテゴリー「神さまのつぶやき祀り」を始めるまず最初に、「幸(さい)の神・三神」とは何かをご説明する幸の神三神とは、久那斗の大神、幸姫命、サルタ彦大神...

goo blog

 

カタカムナとカタカムナ理論の実践

 

なぜ、すぐに山蔭神道の鎮魂行をやるべきか!!【重要解説】 - トモニ ミチスガラ カムナガラ

F氏へ質問の回答の補足、鎮魂中に浮かぶイメージについて、となぜ、鎮魂を一日も早く実践していただきたいのかの理由故山蔭基央氏の著書によると、「直霊なおひ」=「天之...

goo blog

 

 


柳川昌弘氏1 「見の目弱く、観の目強く」で潜在意識全開

2024-03-03 08:49:23 | 見た目と逆の武道空手家柳川昌弘

まず、見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏の技を、以下参考動画でご覧いただきたい

柳川氏はほとんど視力が無いという、一般的な空手家のイメージ、筋骨隆々とはほど遠い体格

しかし、素人の私が一目見ても、繰り出す技の威力が異常に強いのを感じる

なぜ、こんな細い体から、こんな爆発的な技が繰り出せるのか、誰しも疑問に思われたと思う

「見の目弱く、観の目強く」は『五輪書』 (宮本武蔵・著)の名言(本書抜粋)

「見の目」とは、目で見ること

「観の目」とは、全ての感覚器官からの情報加えて、直観、霊感、超能力と言われるような第六感を駆使して状況をよみとることらしい

「武道空手」とは実戦前提の空手でスポーツの空手とは異なる、つまり「やるか、やられるか」、「○ろされるかもしれない」という状況のガチで生き残りを懸けた技、ということになる

柳川氏はほとんど視力が無い、加えて体格からして腕力はない、非常に不利ではある、だが実戦で勝ちたい、つまり生き残るには何をすべきだろうか?たどり着いた答えが、これらの技ということになる

超人とはどのような人間で、どうしたらそうなれるのだろうか、おそらくそこには潜在アワ量の異常な蓄積が起因しているのではないだろうか

だとしたら、実践的に、超人式潜在アワ量蓄積術が存在するはずである

よって、武道ド素人ではあるが、今回解説を試みようと思った次第である

武道的感性の高め方

著者 柳川昌弘 株式会社BABジャパン

より敬意を持って引用させていただく 茶色文字部分

柳川昌弘氏略歴

1939年12月9日生まれ。東京理科大学理学部化学科卒業。海上自衛隊勤務、システムエンジニア、企業調査等を経て、最上荷山大荒行入行、僧籍に入る。1967年より、全日本空手道連盟和道会柳川道場を主宰。現在は、日本伝二聖二天流柔術憲法を創設。全世界武道空手連合主宰。

 

宇野多美恵解釈・総集編

日本の上古代文明とカタカムナウタヒ (第一巻) 潜象物理学会

より敬意を持って引用させていただく 青色文字部分

 

<相似象学会の書籍販売について>

これまでは、宇野先生のご意向もあり、縁ある方々に読んでいただけるようにとアンケート記入をして戴いておりましたが、先生亡き後、そのアン ケートを読んでいただく方もな...

nawaprasad ページ!

 

ブログ主考察 緑色文字部分

                            

p4 9行

分かり易くいえば、誰もが求める人生の成功が本著の主旨である。人生観とか価値観というように、それは本来唯一の真実を意味する。価値感の多様化はあっても、それは大局を観る「観の目」でみるところとは、次元が異なるのである。
人生の成功については、古今東西絶えることなく論じられてきた。無論、人生の成功といっても、他人からみた客観的尺度や理論的根拠によるものではない。人間の感性による「内証 (自覚)」が伴なう安定した成果を得ること、とでもしておこう。

p30 18行

「ミ」いう日本語は、三・実・身・見・味・美などの漢字にあてられているが、漢字の表相的な意味以上の「ミを入れて」とか「ミを以て」など精神的な意味をこめて使われている。

その「という上古代語を造ったカタカムナ人の造語の思念は、「ヒ・フ・ミ・ヨ・イ」の「ミ」であって、潜象のカムの「ミ」は「カミ」、現象に変遷したアマの「ミ」は「ミナカヌシ」であり、我々の生命体イノチ生命力アワ生命力の最小単位の粒子マリ「ミ」である。【「アワ」も「」も自分の生命イノチの実質であるが、潜象の電気粒子であるから、現代人は自分の身でありながら気ミエナイがつかないのである。】

自分が『生きている』ということは、自分の生命の感受性が感受したものをとして生物脳のアマナミナカヌシに入れる』ことであると、自分の無意識領域の共振波動でワカルようになることが、カタカムナの勉強(感受性の鍛錬)の第一歩なのである。なぜなら「は無意識領のものであるが、確かに、自分の生命体の中に存在する生命力の実質の電気粒子であるから、自分の感受性アワを鍛えて、次々と入ってくる「ミ」と共振して新しい生命力を発生している状態を感受できるようになれば、その無意識の感受を判断して、意識(認識)に出すことも出来るわけである。これが、「感受性アワ」のよって「人間脳サヌキ」を鍛えることであり、カタカムナ人は、正直に自分の「感受性アワ」を鍛え、正直に判断を出し、それをコトバにして示していたのである。

昔から日本人が何となく自分の身のオクにあるココロ」と感じていたものは、この「アワ」のアマナの「ミ」の存在だったのである。

p5 13行

 日本文化の目標といったが、それは真実を求める道の鍛錬によるとはいえ、正しくは求めるものではない 。なぜなら真実は初めからそこにあるもの「初めから持っているもの」である。故に、その真実を思い出し (体感する)、それと一体化することである。この状態を「主客合一」という。しかし、今日に至って、このような日本の感性は薄れ、まして真実に対する目標意識の重要性はほとんど忘れられた感がある。
武道の技も、目標意識の想起に直結する「理」が伴っていなければ、単なる形かたちに終始するであろう。故に、「理」を欠いた「一生懸命」や「カー杯」は、トレーニングであっても錬磨・鍛錬にはならないことを知ることが先決である。「理」を体感し、これを深く再現しようとする過程を練磨・鍛錬と呼んでいる。

目標のプロトタイプである「理」を体感すれば、そのプロトタイプを練り、そして磨こうとする努力は楽しみであり喜びでもある 。なぜなら上達を体感しつつ、目標との合一を自覚できるからである。しかも上達することによって「理が一段と深く広いこと」を知るだろう。
この繰り返しから「無限の上達」が始まると共に、「無限の価値の存在」に気づくことになる。そして、その無限の価値を得たという実感が、価値観となり人生観となる道理である。すなわち、それが人生の成功である。

 

「理」とは、カタカムナでいうところのアワ脳(生物脳)、つまり無意識領域、潜在意識で直観し「はっ」として瞬間にわかった「真理」ではないだろうか、感受した「理」に沿って、トレーニングをすれば上達する

「理」に沿うとは、「マノスベ」に生きること、「天然自然の変遷する方法スベ」に沿って生きること、「マノスベ」に生きることができて、「主客合一」になる

マノスベって何?

 

カタカムナ人の恐怖改造人間マノスベ氏増殖計画4マジンガーZとあしゅら男爵 - トモニ ミチスガラ カムナガラ

よい子のお友達ようこそ私を誰だと思う?教えてやろう世界征服を企む謎の国際的秘密組織ゲロショッカー日本支部所属改造人間炭鉱のカナリヤ男だった過去を持つ魔改造人間か...

goo blog

 

 

p12 6行

人間の知性は、感性と理性とから成る。
そのうち、理性は後天的に学んで身につけたものである。つまり頭で理解し覚えた知性である。一方、感性というのは潜在意識と呼ばれる先天的な知性ということである。もっとも、通常の意識 (顕在意識)と潜在意識とは、お互いに交流があるから事は簡単ではない。

しかし、真実を発見する場合、必ず先に感性が働いて真実を認識するものである。

したがってその真実を説明したり、証明しょうとして作る理論理屈は理性の役目なのである。自己実現とか危機管理においても、その手順を逆にすることは、人問の知性を十分に発揮する方法とはいえないのである。

 

「打たれたら痛いなぁ」、「どうしよう」、そういう顕在意識がはたらいていると、潜在意識がはたらかない、実戦では負けてしまう、だから雑念をなくそうとなる

潜在意識を優位にする方法の一つに、鎮魂行がある、武道家も実戦で心を鎮める、太古神道も武道も同じことをしている

p16 2行

武道で絶対に欠かせない感性とは、五感の総合的感覚と考えられるが、通常「観の目」と呼ばれている。
「見の目弱く、観の目強く」は『五輪書』 (宮本武蔵・著)の名言である。しかし、一般に「観の目強く」は、存外難しいようである。それでも「見の目を弱くすれば、自ずと観の目は強くなる」ことも確かである。現代人の多くは、この「見の目弱く」から「観の目強く」に移るべきである。なぜなら現代人は、かつての時代と違って「見の目」を使いすぎているからだ。「見の目強く」が業ごうの如く習性化しているのが普通だからである。

また「観の目強く」は、単に目の問題ではない。いわゆる第六感も観の目の一部というより、その大部分かもしれぬ。
本著では特別に強調しているように「観の目」といっても、それが「音」その他の感覚に大いに関係する能力なのである。小さな音を聞き分ける能力を鍛錬してゆくうちに、音を越えた能力として身につく第六感ないし予知能力といつた、五感を越えた能力なのである。

 

鎮魂行を行っていくと、直観力が高まり、霊的能力の一部と言われる予知能力も開発されることもある

武道家の超人レベルは、深い鎮魂状態で実戦し、鋭い直観力を用いて勝っていることになる、「なぜそうなったのか?」、「そうしたら勝てるから」

それこそ「勝てるなら、理屈はいらない」という答えだ

p17 9行

感性 (この場合は、頭脳ないし潜在意識による)が先に働き、その判断 (理性による—左脳)は、その事後だということである。ということは、初めから理性を働かしている (頭で何か考えてばかりいる)と、このような感性が働かないということになるであろう。

中略

だが、もし相手と対峙しているとき、どこか夢みるような心境 (ただし見の目弱く、観の目強くしている時)になつているならば、相手の考えていることが、そのまま自らの心に、「耳で聞いているかの如く」感受されたとしても何ら不思議なことではないのである。

p325 12行 

◎ 因みに、この「物理を認識に出す能力」は、人間脳の教養の度ではなく、その人の感受性(アワの生命力)の鍛錬の度までしか出せぬものである。つまり、その人の感受性の鍛錬の量、則ち、生物脳の核内の「ミ」の蓄積量が向上しただけ、今まで無意識で過ごしていたものが少しづつ認識に出てきて、次第にハッキリと認識に出る (本当にワカル)ものである。

p25 9行

武道空手の技は攻防一体でなければならないから、自らが技を出すべき問合やタイミングよりも、まず相手の意図を読むことが優先する。このような相手の意図を読むという感性と、技に関わる「理」に対する感性と一致した時 (無意識化)、初めて自然な組手が可能となるのである。

「見の目弱く、観の目強く」『五輪書』 (宮本武蔵・著)の名言は、「顕在意識に入ってくる情報より、潜在意識が感受した直観の情報を優先させる」こと

超人になりたいなら、潜象の電気粒子「ミ」を自分の生物脳アマナに入れて蓄積し続け、それにより、常に鋭い直観力を鍛え続け、「天然自然の変遷する方法スベ」(=「理」)に沿って技を磨く、これが「主客合一」ではないだろうか

鎮魂法のやり方は「その11」からはじまる

 

実践してきた解毒法 その11 丹田呼吸法 - トモニ ミチスガラ カムナガラ

実践してきた解毒法その11④呼吸法自律神経は無意識にはたらき、自動的にからだの機能を調整する自律神経には交感神経と副交感神経の二つがある自律神経が正常とは交感神経と...

goo blog

 

見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏のシリーズは次回に続く