アマゾン以外でも購入出来るようで、大元出版のHPには以下の様にあるので、一般書店でも購入可能のようだ
「大元出版の本は、地方・小出版流通センターから送られます。お近くの書店で注文すると、数日で書店に届きます。その際、「地方小出版流通センター取扱い」と言ってください。お急ぎの場合、出版所からの直送も致します。FAXか電話でご注文下さい。3・4日でお届けします。」
「出雲王国とヤマト政権」 ー伝承の日本史ー
富士林雅樹著 大元出版
より敬意を持って引用させていただく
p117 8行
2.武御名方たけみなかたの諏訪移住
コシの国(越後えちご国)から富家に輿入れしていたヌナカワ姫は、御廬みいほ(仮屋)を建ててコトシ口ヌシのモガリ(古代豪族の長期の葬式)を挙行した。その 「御廬」の発音が変化して、その地は「美保」と呼ばれるようになった。
ヌナカワ姫は、コトシ口ヌシが不慮の事件で亡くなられた後、淋しさがつのり、故郷の姫川や黒姫山の景色ばかりを想い出していた。
そして彼女は淋しさに耐えかねて、コシの国の実家に帰ることを決意された。ヌナカワ姫の御子のタケミナカタも、父のコトシ口ヌシを助けられなかったことを残念に思っていた。そして、その苦い思い出のある出雲の地を離れ、母君とともにコシの国に移った。
娘のミホススミは出雲の美保関に残り、父の霊を祀まつる祠を建てた。その社は、市恵美須いちえびす社と呼ばれている。彼女は死後、美保関港の東端にある客 人まろうど山の地主じぬし社に祀られた。のちに、彼女の住居跡に美保神社 (松江市美保関町美保関、図16)が建てられ、コトシ口ヌシと王女・ミホススミ(美穂津姫)が祀まつられた。
ヌナカワ姫は、コシの国で亡くなられた。出雲王家に輿入れしたヌナカワ姫はコシの国で尊ばれていたので、ヌナカワ姫を祀まつる神社がっくられた。糸魚川市の天津神社境内には、奴奈川神社があり、ヌナカワ姫の御神像がある。上越市居多には、一ノ宮沼川神社が建てられている。
コシの国に住んだタケミナカタは、信濃国に新しい王国をつくろうと思い立った。そこで多くの家来とともに姫川を逆上り、まず長野県上田市の下之郷しものごうに移り住んだ。かれはそこに、サイノカミを祀まつる生島足島いくしまたるしま神社を建てた。
その後タケミナカタは、黒曜石の産地であった和田峠をこえて諏訪盆地に進出した。そして諏訪湖の南岸に住みつき、そこで王国をつくった。かれの子孫は、その地の豪族として栄えた。
タケミナカタは、移住先にサイノカミの社を建てた。かれの死後、そこはかれを祀まつる諏訪大社の上社本宮かみしゃほんぐうとなった。
諏訪大社本殿のまわりの四隅には、高い柱(御柱、図17、春宮)が4本建てられた。それは、三内丸山遺跡に建っていた六本柱の伝統が、少し形を変えて神社のまわりに残ったものと考えられる。
三内丸山遺跡特設ページ | 青森市観光情報サイト「あおもり案内名人」
のちに諏訪大社は、上社かみしゃの本宮ほんぐう、前宮まえみやと、下社しもしゃの秋宮あきみや、春宮はるみや(図17諏訪大社春宮前)の四社となった。下社は、古墳時代の頃に出雲暦の影響を受け、春宮と秋宮の二社に分かれた。当時は、1年を夏期と冬期に分けて数えていた。春宮では春正月(春分)に春祭りが行われ、そのあとの夏期1年(現在の半年)はそこに神霊が宿った。同じように秋正月(秋分)には秋宮で秋祭りが行われ、そのあとの冬期1年(現在の半年)は、そこに神霊が遷座し宿った。遷座祭では神霊の御輿がかつがれ、そのあとに幸舟さいふねと呼ばれる舟形の山車だしが一緒に移動する。その舟の上には、クナトノ大神と幸姫命の人形が乗せられている。舟が社に着くと、その人形は焼かれ神霊は天に昇る。出雲王国時代には、春分と秋分の日にサイノカミの大祭が行われたので、下社の祭りもその影響を受けたものと考えられる。
タケミナカタはサイノカミ信仰を信濃地方に持ちこんだため、そこでもその信仰が広まった。現在でも長野県にはサイノカミの石像が多く見られ、クナトノ大神と幸姫命が仲良く並んだ姿で彫られている。それらは、シナ語の道祖神どうそじんの名称で呼ばれているが、インドのサイノカミ信仰はシナの道祖神より古い。起源や特色が異なるので、日本で道祖神という言葉を使うのはふさわしくない。同じような石像は鳥取県淀江町周辺でも多く見られるが、こちらでは古代と同じくサイノカミと呼ばれている。ただ名称の問題はあるものの、出雲王国時代の信仰が、現在に至るまで信濃地方で大事にされていることは、生きた歴史として大変貴重である。
タケミナカタの足跡は、神社の名称にも残っている。平安時代の『日本三代実録』には、諏訪大社のことを建御名方富 命たけみなかたとみのみこと神社と書いている。長野市や飯山市にも、建御名方富とみ命彦神朋ひこかみわけ神社が鎮座している。
「タケ」とは、「全権将軍」の意味であった。意味を漢字で表すと、「建」よりも 「武」の方がふさわしい。実際にはかれは、「タケシミナカタ」や 「タケルノミコ」と呼ばれていた。「御名みな」は出雲王の大名持や少名彦の 「名」と同じで、「出雲王家」を意味する言葉であった。つまり「御名方」とは「出雲王家の御方」という意味で、尊敬の念が込められた呼び方であった。「富」とつくのは、かれが東出雲王家の富家出身であることを示していた。かれは、タケミナカタ富’彦とも呼ばれていた。
のちに諏訪大社のタケミナカタの分霊は、出雲地方に里帰りした。斐川町名島には、タケミナカタを祀まつる御名方神社がある。そのすぐ北隣の斐川町鳥井には鳥屋神社があり、やはりタケミナカタが祀まつられている。
アシタカとは、「もののけ姫」(主人公はもののけ姫ではない)の主人公で、東北の蝦夷エミシの一族(出雲族の末裔)の長になる為の教育を受けた、王家の血を引く少年、舞台となる鉄を作る村、タタラ場は、出雲か諏訪の地と思われる