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友に捧げます

柳川昌弘氏5 思わず笑ってしまう柳川氏ガチエピソード集

2024-03-31 07:33:08 | 見た目と逆の武道空手家柳川昌弘

 

まず、見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏の技を、以下参考動画でご覧いただきたい

 

 

「武道空手」とは実戦前提の空手でスポーツの空手とは異なる、つまり「やるか、やられるか」、「○ろされるかもしれない」という状況のガチで生き残りを懸けた技、ということになる

柳川氏はほとんど視力が無い、加えて体格からして腕力はない、非常に不利ではある、だが実戦で勝ちたい、つまり生き残るには何をすべきだろうか?たどり着いた答えが、これらの技ということになる

超人とはどのような人間で、どうしたらそうなれるのだろうか、おそらくそこには潜在アワ量の異常な蓄積が起因しているのではないだろうか

だとしたら、実践的に、超人式潜在アワ量蓄積術が存在するはずである

よって、武道ド素人ではあるが、今回解説を試みようと思った次第である

柳川氏の解説記事を1~4まで続けてきて、前回でまじめな解説は終わった

今回が一応最終回となる、では今回はというと、柳川氏の武道の魅力もさることながら、俗世の価値観に縛られずまるで仙人のように生き、超人だが、温かみのあるお人柄に、「弟子になりたいなぁ~」と思ってしまう方も少なくはないはず、私もその一人だ

だが、同時に「ガチ過ぎな稽古は到底ついて行けなそう」、「手加減されてもあんなパンチ食らいたくないなぁ」とそんな言葉が頭をよぎり、弟子入りを断念してしまった

そんな風味なあなたに贈る、このシリーズ最後を飾るのは、弟子入りしたつもりで実体験したかのように読みたい、魅力あふれる柳川氏のエピソード集をご紹介する

以下緑色文字部分 ブログ主

 

月刊 秘伝 2023年7月号 株式会社BABジャパン(今ならまだバックナンバー購入可能かもしれない、この号は面白かった)

より敬意を持って引用させていただく 茶色文字部分

柳川昌弘氏 二聖二天流柔術憲法/権僧都

保江邦夫氏 理論物理学者/冠光寺眞法 「完訳 カタカムナ」天野成美著 明窓出版で監修をされている

 

柳川氏が、極真重量級の若い子に軽くゴンとやった結果

柳川 前に極真重量級の若い子が入って来たんだけど、ミットを持たせて歩く力でゴンとやったらそのまま座り込んで立てなくなって、それでいつの間にか道場からいなくなっちゃった。代わりに服部先生に来てもらえば良かったね (笑)。
最近の若い子は本当のパンチカというのを知らないんです。体重に比例するんだろうくらいに思っている。そんな甘いもんじゃないんだ。正直、私のパンチカはカシアス・クレイの三倍はありますよ。現役の力士に私が突つ張りを教えれば一撃で相手を吹つ飛ばせるようになります。阿炎あび辺りに教えたいね。受動筋力を使った突きというのは相手が死んでしまうこともあるんだ。同意のことを宮本武蔵も言っていますよ。

 

 

極真会館 - Wikipedia

 
 

モハメド・アリ - Wikipedia

 
 

阿炎政虎 - Wikipedia

 
 

宮本武蔵 - Wikipedia

 

 

中略

柳川氏が、まさかのヤ○ザに監禁されて

柳川 中略 ところで、保江先生もよく言われる宮本武蔵の「うつらかす」同期・同調ですね。これが見事に決まつたことが私にもあります。五人ほどのヤクザが私を玄関に引つ張り込んで逃げないように監禁する訳です。誰かを吹つ飛ばしてしまうと全員で掛かってくるなと思つたので、凄く落ち着いてね。心なんてものは半分芝居みたいなものですから、態度も声も穏やかに振る舞った訳です。そうすると集団催眠にかかったように皆動けなくなった。奥に親分が座っているんだけど、動けないし声ら出せない。そこで私は「これでよろしいですか ?」と二分くらいかけてゆっくり歩き、道の角を曲がったところで走うて逃げたのです (笑)。 

中略

道場破りの連中が来た時、柳川氏が本気で

柳川   前にロシア人が訪ねて来た時も、道場破りに来たような連中も、私が本気で巻藁を突くと、いつの間にかいなくなっちゃうんです。爆弾が爆発したような衝撃があるから怖いんだね。

 

つまり、柳川氏の何が具体的に凄いかというと

保江 脳に関して言うと、皆視覚や聴覚で感じ認識しているのを「今」だと思っています。相手のパンチが飛んでくるのを見て、認識できていると思っている。でも実はできていないんです。視覚・聴覚などは大脳皮質で処理されます。その処理には意外と時間がかかり、速くとも 0.3秒、遅い人は 0.5秒、これが実験の結果です。 0.5秒あればパンチは完全に届いてしまう。ただ、これは相手にも言えて、相手も突き蹴りを出そうと意図して出すのに 0.5秒かかるのです。だから互いに 0.5秒のハンデをもらって戦っていることになる。そのラグを使わずに動作できたら相当に有利です。だから古来から達人と呼ばれるような人たちは考えない。ブルース・リーが言う「考えるな、感じろ」は正にそれです。脳科学を武術に応用して結果を出そうとするならこの事実が大事です。

ブルース・リーが言う「考えるな、感じろ」とは

 

そんなわけで、テストしてみたところ、「柳川氏は、人間じゃないんじゃないか」反応

自由意志をも超えた! 柳川昌弘の “0.07秒”

以前に全身反応速度テストを行った際、柳川氏は0.07秒という結果を打ち出したという。検査官は「0.2秒を切ることは絶対に有り得ない」と山勘を疑い、 3度テストを重ねたが、3回とも同じ反応速度が出たそうだ。

 

0.07秒の柳川氏に、(自分のように)「工夫次第で誰でも到達できる境地でもある。人間は誰でもそんなに変わらないですよ。」と言われても、この上なく無理ゲー

柳川   私は以前、高岡英夫さんに「生死の境に立っている」と言われたんだけど、それがよくわかる気がする。「生きるも死ぬもどっちでもいい」と思っているわけではない。思う暇もないのね。ただす一っと歩いてくと技が早く出る。逆境に徹底的に追い込まれるとそのようになるのです。ただ死を思うだけではこうはならない。もうこれ以上苦しい想いは無いというタイミングで、さらなる不幸に見舞われる。すると「もうなるようになれ」という気持ちになる。それが却って上手くいく原因になったりということが幾度も重なると、考える姿勢が無くなってきます。その状態を言葉で人に認識させるのは難しいです。だから言葉でその辺りのことを説明することはありません。その代わり、「技ができるようになればそのような安心の境地になるから」と確信を持って伝えています。パンチが目前に迫っても入り込んで当たらないようになれば、 自信を持って幸せに生きられるようになりますよ。だから工夫次第で誰でも到達できる境地でもある。人間は誰でもそんなに変わらないですよ。

 

柳川氏に向けられた密かな生徒のたくらみ

柳川 中略 音魂、言魂は一瞬に届くんだ。道場を始めた頃「じゃあ、突いて来い !」と言ったら、生徒が「ここで蹴ったら先生にも入りそうだな」と考えているのが聞こえてきたんで「お前、そう考えているのか ?」と言ったら「すみません、勘弁してください」って (笑)。「それは超能力ですか ?」と言われるけど、恐らく五感を総動員して察知しているんじゃないかな。

 

柳川氏が、TV番組で鍛錬法を披露もガチ過ぎて、たけし氏は

ウィキペディアより引用

柳川は独特の鍛錬方法をいくつも考案している。その中の一つに、棒立ちになったまま壁に倒れ、額を壁にぶつけて身体を止めるものがある。ビートたけし司会のテレビ番組「スーパージョッキー」でこれが披露された時は、その真剣な姿が逆に笑いの対象になっていた。

 

柳川氏が、「スー○ージョキー」で、頭の上に金ダライを落とされる

武道的感性の高め方 柳川昌弘 株式会社BABジャパン より引用

p64 15行

それもテレビ出演の話で恐縮だが、芸人たちの感性の鋭さと、度胸には頭が下がる思いで一杯である。ある番組で、高い所から私の頭に金ダライを落として反応をみるシーンがあった。金ダライが当たる衝撃自体は何ということもない。ただ大きな音がするだけである。

 

柳川氏の言う謎のT氏とは、たけし氏と思われる、たけし氏のせいで、計7回も訳の分からないことに付き合わされたのだろうか

これを見たT氏が私に「あなたはなぜ瞬き一つしないでいられるのか」と首を傾げた。その時、私が「それはですね……」。その瞬間、T氏は「あっ、そうか」と。

私はこれまでこの人ほど感性の鋭い人物に接したことはない。そんな関係からか、T氏の要望 (とディレクターに聞いた)で、計七回も出演した。この七回で行ったことは正中線さえできていれば、誰でもできることばかりである。

 

「金ダライが頭上に落ちて来たらどうしよう!?」、そんな非常事態でも大丈夫!つまり正中線って何?正中線の柳川氏の解説をまとめた記事はこちら

 

柳川昌弘氏2 正中線の確立により起こる驚異の大変化 - トモニ ミチスガラ カムナガラ

前回に引き続き、見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏の技を、以下参考動画でご覧いただきたい柳川氏はほとんど視力が無いという、一般的な空手家のイメージ、筋骨隆々...

goo blog

 

全5回も使って、結局は、柳川昌弘氏のファンなのでは?と思われたかも知れない、最後は、こんなファンサイト風味な作りになってしまったから否定は出来ない、なぜなら、何を隠そうこの最終回が一番気に入っている

参考動画

TV番組「スーパージョッキー」の名物コーナー「ガンバルマン」では、「(素人には絶対に無理な、むしろ決して真似してはいけない)技に無謀なチャレンジをする」という、いつもお決まりの内容 ※これは、残念ながら柳川氏の映像ではない、また、熱湯風呂に浸かった時間分だけ、浸かった人が自分のしたい宣伝を出来るという「熱湯風呂」のコーナーもあり、昔のTV番組の内容は、体当たり的な内容が多く、この時代は規制がなくて面白かった


中村天風11 われ在る処(ところ)

2024-03-30 15:34:25 | 積極精神!!中村天風

 

完全積極精神を目指してみたい方へ、中村天風氏の短いけどためになることば

「中村天風 一日一話」 財団法人天風会 株式会社PHP研究所

元気と勇気が湧いてくる、哲人の教え366話

より敬意を持って引用させていただく

 

3/6 われ在る処(ところ) 

 

古聖の訓(おし)えにも、

・われ在る処(ところ)に常に光あらしめん

・われ行く処にまた光明を点ぜん

というのがあるが、

 

誠と愛の心を以(も)って、万物に接する時、

期せずしてそれは光明となるのが必至である。

 

これこそ、まことに最も近くして最も遠く、

最も新しくして最も古き、

すなわち久遠(くおん)より永劫への、

昭として一貫する不易の人生哲学と

人生科学の真髄である。

 

中村天風

 

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謎の黒っぽい妖精和田くん現る?

2024-03-29 08:41:18 | 花鳥風月

イラスト AIにて作成、なわけない、マウスにて

DJカナリヤ男のラジオステーション、こちらは末広がりの88.8MHzで素敵な音楽から、良い意味で「気が抜けそう」なものまで、深い意味は無く脱力系、リラックスモードでお届けしている、さて、またまた、ブログ主からのお便りだ

ブログ主より

今日は、本当にあったお話、ある本の以下の部分についてである

 

氣の威力 籐平光一著 幻冬舎 より敬意を持って引用させていただく

p50 5行

日本は「氣の文化」といわれるように、ふだんから氣という言葉を盛んに使っているわけだが、昔から日本人が氣についてはっきりと知っていたわけではない。だが、わからなくても、一芸にひいでた人たちは、じつは氣を応用してきたのである。
たとえぱ、抜刀術だとか居合術の名人と呼ばれる人たちがそうである。常人にはできない技ができたのも、氣を出すことができるからである。神技といわれるのは、心身統一した状態、すなわち統一体で行った技を指す。剣豪といわれた人々も、氣を体得していたといっていいだろう。

すばらしい音色を出すことで有名な福原百之助という笛の名人と、昔あるところでいつしよになったことがある。そのとき、福原さんから氣を出す方法を教えてくれと頼まれた。そこで、笛をもったときの姿勢をしてもらうことにした。私はその姿勢をとっている福原さんの胸を強く押してみたが、微動だにしない。これは心も体もグラついていない状態であり、心身統・している証拠である。

私は感心していった。

「それでよいのです。氣が出ているから、あのすばらしい音色になるのですね」だが、福原さんがふだんの姿勢にもどったところを見はからって、ふたたび押してみると、今度はあっけなく倒れてしまった。そこで、一言つけ加えた。

「笛を竹いても   心身統・が乱れなければ、本当の意味で氣を体得したことになるのです」

このように名人と呼ばれるような人は、氣を使って技をみがいている。それは無意識のうちに使っている場合がほとんどである。

ふと、本をめくり目にとまったところがこの文章で、そこだけ読み終えると、床についた

その夜、不思議な夢をみた(2024年3月23日)備忘録として

 

私の2倍ほどの身長を持つ、謎の妖精?精霊のようなゆるくて可愛い存在が現れた

妖精は超絶上手く歌を歌い、私もつられて2オクターブくらいまで合わせて歌ったが、音が高くなって歌えなくなってしまった、私は妖精に話しかけた

わたし「とても歌がお上手ですね、もう高くて声が出ません、どのくらい高くまで歌えるのですか?」

黒っぽい妖精「何オクターブなのかわからない程の広い広い音域で歌える」

わたし「凄いですね!!私も歌がうまくなりたいなぁ~」

黒っぽい妖精「どのくらい上手くなりたいのかい?」

わたし「誰が聴いてもうまいと思えるくらい」

私は、妖精の顔を見ていると、なぜだかある賞をとれるほどと表現しようと思い

「グラミー賞を取れるくらいです!」と、無駄にスケールの大きいことを言ってしまった

黒っぽい妖精「いいですよ」

そう言うと、黒っぽい妖精は大さじスプーンくらいの大きさのひしゃくのようなもので、何やら目には見えないけれど、キラキラ光るエネルギーのような粉を頭上から振りかけた

「???」一体、何が起こっているのか!?

 

ここで目が覚めた、吹もの系楽器も、歌うことも、基本的に同じに思う

端的に言えば、どちらも心身統一の状態において体の態勢を保ち、良い音を出す

臍下丹田の臍下の一点に力が吸い込まれるように、集まってゆくようなイメージで、肩の力を抜き、リラックス状態で、「心身統一の四大原則」を守って

※詳しくは、今後、籐平光一氏の著書を「心身統一合氣道藤平光一」のカテゴリーで順次解説予定

どのように判断すれば正しい心身統一なのか、夢からインスピレーションをもとに私が考察した方法をお話しする

良く響く、共鳴状態の発声、のどに無駄な力を一切入れず、体のどこにも不要な力が入っていない、ストレスの無い状態、自分の力は使わず、氣によって体から自然に声が出るような、このような発声法で発声し、どんな態勢になったら、それが崩れたかを観察する

良く響く、共鳴状態の発声、こんな感じで発声してみよう、冗談では無く、こういうイメージで伸びやかに、自分の氣が発声と共に天地に無限に広がる感じで

心身統一の「氣の呼吸法」では、「正面に向かい、口から静かにまっすぐ息を吐く」(氣の生活 籐平光一著より)とある、「呼氣」のやり方に発声を加えるだけの方法である

実際に「あー」っと長く発声して、様々な態勢を取ってみて、心身統一状態が崩れ、声は良く共鳴しない時、その時が、氣が抜けている時、と判断できる

発声のやり方を把握できたら、次に音を出さず体のポジションはそのままで今度は、「呼氣」のみでやってみる、この時「呼氣」とともにとても気持ちの良い感覚があるはずだ、吹もの系楽器はもちろん、あらゆる分野で使えるのではないだろうか?

以上考察おわり

 

読者の方にも、歌を歌ったり、楽器をなさる方や、とにかく、体の状態を全開にされたい方は、今後、記事でご紹介してゆく、籐平光一氏の心身統一法がお役に立つのではと思った、私事の夢の話をしたワケである

そして、あの超絶歌のうまい妖精は、不思議にこの方に似ているなぁ~と思いついたのだった!? スティービー・和田の妖精? だからグラミー賞? 有難い貴方様は、どなた様?いつでも夢にいらして下さいお待ちしております、ご教授頂きありがとうございます


中村天風10 完全を願う意欲観念

2024-03-28 09:00:05 | 積極精神!!中村天風

完全積極精神を目指してみたい方へ、中村天風氏の短いけどためになることば

「中村天風 一日一話」 財団法人天風会 株式会社PHP研究所

元気と勇気が湧いてくる、哲人の教え366話

より敬意を持って引用させていただく

 

3/2 完全を願う意欲観念

 

人間には不完全を嫌い、

完全を喜ぶという気持ちがあるでしょう。

 

壊れた時計と壊れていない時計と

両方見せられて、

好きな方を持っていきなって言われたら、

 

誰だって壊れていない時計を

貰っていくはずです。

 

だから自己の健康や運命も、

誰でもが完全であることを願うんです。

 

たまには患ってみたいとか、

にっちもさっちもいかない運命の中に

陥って苦しんでみたいと思う人は

いないでしょうが。

 

何ごとも完全にあらしめたいという

意欲観念は、生まれながらに

自分の生命の中にある本能なんです。

 

中村天風

 

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出雲王国3 クナ族の渡来 出雲王国の成立

2024-03-27 08:26:12 | いつも出雲

 

アマゾン以外でも購入出来るようで、大元出版のHPには以下の様にあるので、一般書店でも購入可能のようだ

「大元出版の本は、地方・小出版流通センターから送られます。お近くの書店で注文すると、数日で書店に届きます。その際、「地方小出版流通センター取扱い」と言ってください。お急ぎの場合、出版所からの直送も致します。FAXか電話でご注文下さい。3・4日でお届けします。」

http://oomoto.net/sub3-j.html

 

「出雲王国とヤマト政権」 ー伝承の日本史ー

富士林雅樹著 大元出版

より敬意を持って引用させていただく

p34 9行

第二章 クナ族の渡来

5.イズモ族の文化

クナト王が日本列島に上陸した時に、クロガネの冑をかぶり、アカガネの矛を杖につけて持っていた、と出雲の旧家では伝承されている。古代世界の各地では矛は王権の象徴であり、王以外の人が持つことは許されなかった。
また「カネ」とは、ドラビタ語で金属のことである。クロガネとは鉄製品で、アカガネとは銅製品であったらしい。「カネ」という言葉は、現代の日本でも使われている。
古代インドでは金属器は生活必需品になっていたので、クナト王は移住の際に、金属精錬の技術者を連れてきた可能性がある。

国立歴史民俗博物館の春成秀爾氏らにより、精度が高いとされる放射性炭素14年代測定・AMS法で遺跡の年代測定が実施されるようになった。土器に付着したススなどを多数測定した結果、福岡県糸島市の曲まがり田遺跡から出土した鉄器片は、紀元前10世紀の物という結果が出た。これはシナの最古の鉄製品よりも古い、という結果であった。また、同じくらいの年代の佐賀県菜畑なばたけ遺跡出土の木製品に、明らかに鉄製品の加工の跡がついていることも確認されている。これらは、日本の製鉄がシナを経由することなく、インド方面から直接伝わった可能性を示している。

クナ族が日本の本州に上陸した時、日本は縄文時代であった。東北や北海道には、アイヌ人やブリャート人が先住民として暮らしていた。東北では、クナ族の勢力は次第にアイヌ人よりも優勢になっていった。そのため、アイヌ人は北海道を中心に住むようになった。そして本州に残ったアイヌ人は、クナ族と混血していったものと考えられる。
クナ族は津軽半島に上陸したあと、三内丸山さんないまるやま遺跡の地にしばらく住んだ、と出雲の旧家で伝承されている。

 

ウィキペディアより引用

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前[1])の大規模集落跡。当時、クリクルミなど手入れされた落葉広葉樹林(ナラ林帯)に囲まれた集落で[2]、現在の沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。1997年3月5日[3]、国の特別史跡に指定。2021年7月27日[4]国際連合教育科学文化機関により、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。遺跡には竪穴建物(竪穴住居)群、高床建物高床倉庫)群、大形竪穴建物のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料や出土品の展示施設「縄文時遊館」もある[5]。青森県教育庁三内丸山遺跡センターが継続的に発掘調査を行っている。

File:140913 Sannai-Maruyama site Aomori Japan01bs6bs6.jpg - Wikimedia Commons

File:140913 Sannai-Maruyama site Aomori Japan01bs6bs6.jpg - Wikimedia Commons

 

 

 

三内丸山遺跡は、約5500〜4000年前までの間に使われた集落であったことがわかっている。クナ族が、津軽半島に上陸したのが約4000年前であるので、この集落の晩期のころに住み着いたことになる。
三内丸山遺跡には、アイヌ人やブリャート人が先住民として住んでいたと考えられる。クナ族がその地に到着すると、先住民の多くは他の土地へ去っていったものと考えられる。クナ族は、残った先住民と共存・混血して三内丸山遺跡に住みつき、そこで先住民と文化を融合・発展させていったものと考えられる。かれらは、のちに出雲の地へ移住してイズモ族となったが、便宜的に以後はイズモ族と呼ぶことにする。
三内丸山遺跡では、クリの木の六本柱の神殿(口絵1)が建てられていた。のちにイズモ族によって出雲大社が建てられたが、三内丸山遺跡の神殿の記憶が後世まで残っていたようで、同じような考えで高層の神殿がつくられた。

 

出雲大社の謎 古代に存在した巨大神殿のルーツに迫る  –  國學院大學

出雲大社の謎 古代に存在した巨大神殿のルーツに迫る – 國學院大學

 「古事記」などで伝えられる日本の神話。それらの背景を考古学から迫ると、本当の〝古代〟が見えてくる。第2回は、出雲大社がかつて〝巨大神殿〟だった、その秘密を考古...

國學院大學

 

 

イズモ族は本州北部にしばらく住んでいたが、そのあと南に移住して広がったと言われる。南下の理由は、寒冷化の影響を受けたためであった可能性がある。
川幡穂高氏らの研究によると、青森県陸奥湾の堆積物の花粉分布から気温の変遷を調査した結果、4200年前に急激な寒冷化がおこり、クリなど陸上の食料や、陸上動物が減少したことが明らかになった。そしてこの気候の急激な変化が、三内丸山遺跡の衰退や、日本全国の縄文人の人口減少の原因になった可能性が高いという。

 

ウィキペディアより引用

陸奥湾(むつわん)は、青森県下北半島夏泊半島津軽半島に囲まれたである。

File:Tsugaru Strait.png - Wikimedia Commons

File:Tsugaru Strait.png - Wikimedia Commons

 

 

 

p39 1行

第三章 出雲王国の成立

1.良質砂鉄の国

イズモ族は日本海沿岸を南下したあと、最後に出雲の地に到達し、そこに定住したという。
出雲は雪深い土地であった。最近でこそ雪は少なくなったが、昭和の初めごろまでは雪が深く、1年の半分近くは雪が残っていて、田畑が作れないような状態であったという。太平洋側にはもっと暖かい土地が多くあるのに、雪深い出雲にとどまった理由は、「出雲に黒い川があったからだ」と、出雲の旧家では伝えられている。黒い川とは、現在の斐伊川ひいかわのことであった。現在でも、斐伊川の川底や河原には、砂鉄がたまって黒く見える所がある。この砂鉄の採集に適した土地であることが、出雲定住の理由であった。
古代には、簸で黒い川砂をすくい砂鉄を集めていた。川の水の中で簸を揺らすと、軽い砂は浮いて流れ、重い砂鉄が簸の中に沈んで残る。それを繰り返して、砂鉄を集めていたという。

 

ウィキペディアより引用

斐伊川(ひいかわ)は、島根県東部および鳥取県西部を流れる一級水系斐伊川の本流古事記にも肥河(ひのかわ)として記述が見られる。

歴史[編集]

古くから度々洪水が起こっており、これが八岐大蛇(やまたのおろち)伝説の元になったという説もある。

洪水の原因は斐伊川の上流が風化しやすい花崗岩質の地域を貫流し、そうした風化物が大量に流れ込んだからであるが、その他の原因として製鉄の存在がある。

古くから山陰地方の山側では砂鉄の採取が盛んであり、斐伊川の上流もそうであった。初期の採鉄では自然に集まった砂鉄を採るだけの小規模なものであったが、江戸時代中期から鉄穴流し(かんなながし)と呼ばれる手法が活発に用いられるようになった。この手法は花崗岩風化堆積物からなる土砂を段階的に樋に流し、鉄とその他の岩石の比重の違いを利用して鉄を選別する比重選鉱法である。この方法が積極的に用いられることによって、人為的な土砂の流入が爆発的に増大した。

斐伊川と神戸川は、それぞれ「出雲大川」、「神門川」と呼ばれ、出雲平野を西に流れ、共に神門水海(現在の神西湖の前身)に注いでいた[5]。洪水は度々川の流れを変え、その都度流域の住民を苦しめており、近世になると川の流れを人工的に変えるようになり(川違え)、その中でも一番規模の大きい川違えは寛永12年(1635年)の洪水の際に行われたものである。この工事によって、それまで神門水海を通じて日本海に注いでいた斐伊川を完全に東向させ、宍道湖に注ぐようにした。

File:Hiikawa river.jpg - Wikimedia Commons

File:Hiikawa river.jpg - Wikimedia Commons

 

 

 

p41 12行

ところで、火力を強くするためには風を送る必要があるが、出雲王国の時代には風を起こす装置の鞴ふいごがまだ無かったので、自然風を使っていたものと考えられる。
奥出雲の船通せんつう山の北風が強く吹きつける傾斜地に、直径 70センチほどの深い穴でできた野ダタラの跡が残されている。そこでは火が焚かれ、木炭と砂鉄が交互に入れられた。そして、タタラの横の小穴から強風が吹き込まれると、700〜800度まで加熱された。長時間の加熱のあとに、野ダタラの穴はこわされ、底に固まったケラ(鉧)が取り出された。それは上質な可鍛鉄で、刃金の材料となった。

 

ウィキペディアより引用

たたら製鉄(たたらせいてつ、:Tatara)とは、日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称である。砂鉄鉄鉱石粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高いを生産できることを特徴とする[1][2]近代の初期まで日本の国内鉄生産のほぼすべてを担った[3]明治以降急激に衰退し、現在では、日本刀の原材料「玉鋼」の生産を目的として、島根県仁多郡奥出雲町にある「日刀保たたら」などが稼働している。

File:Japanischer Tatara-Ofen mit Flügelgebläse (18 Jahrhundert).jpg - Wikimedia Commons

File:Japanischer Tatara-Ofen mit Flügelgebläse (18 Jahrhundert).jpg - Wikimedia Commons

 

 

 

島根半島 - Wikipedia

島根半島 - Wikipedia

 

 

 

 

島根半島・宍道湖中海ジオパーク Shimane Peninsula and Shinjiko Nakaumi Estuary Geopark

 

p42 8行

イズモ族が出雲に定住したもう一つの理由として、出雲が良港であったことが考えられる。出雲北部の島根半島は、天然の防波堤になっており、中海は、波が静かで、港とするのに好都合であった。出雲では、銅や鉄、玉類が産出したので、交易の船が他国から来ることが多かった。特に鉄が各地の人々に好まれ、買いに来る人で出雲の港や周辺の村は賑わったという。

時が経つうちに、イズモ族は出雲の地を交易だけでなく、お互いの交流の場として活用するようになっていった。

イズモ族の王は、現在の神魂かもす神社 (松江市町大庭おおば町、カバー写真の表)の地に、王宮をつくった。王宮の前の広場は王庭と呼ばれ、人々が交流の場として集まるよつになった。

神魂神社 | しまね観光ナビ|島根県公式観光情報サイト

神魂神社 | しまね観光ナビ|島根県公式観光情報サイト

巨大な自然石を積み上げた石段といい、古代出雲の神々の里らしいおごそかな落ち着いたたたずまいがあります。縁結、授

しまね観光ナビ|島根県公式観光情報サイト

 

 

p43 10行

2.出芽の国

イズモ族どうしの交流が盛んになった結果、かれらが日本に上陸してから千数百年の時を経て、民族統一の気運が生じた。そして、日本で初めて統一的な広域王国が成立した。この王国のことを、出雲王国と呼ぶ。
ここで、出雲王国の成立年代について考えてみたい。出雲の旧家の伝承によると、『日本書紀』ではヤマト政権の初代大王の即位年代は、実際よりも古い時代にずらされて、あたかも出雲王国が成立した頃に即位したかのように書かれたという。

つまりこの伝承によれば、『日本書紀』の初代大王の即位紀元(干支は辛酉かのととり)すなわちB.C.660年の頃に、出雲王国が成立したことになる。

この出雲王国は、武力による統一王国ではなく、同じ宗教により結ばれた王国であったという。王家は、クナト王の直系の向家むかいけであった。各地の豪族を 「言向ことむけた」(言葉により説得した)ことから、古くはムケ家と言われた。「言向ことむけ」の言葉は、のちには「征服する」という意味で使われるようになった。

『出雲国造家文書』の「国造北島道孝覚書」には、向家について次のように書かれている。

むけ八 平ことむけナリ、… 二神ヨリ授ケラレタ広矛ひろほこヲ所持テ国ヲ平シ時云々、…   向むかい上官職八右の平ナリ、…

上記の二神とは、向家の先祖のクナトノ大神と幸姫命さいひめのみことのことであった。また、広矛とは王権の象徴であった。
王の職名は、「大名持おおなもち」と呼ばれた。奈良県吉野には、この呼び方の 「大名持神社」が残っている。

 

ウィキペディアより引用

大名持神社(おおなもちじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町河原屋にある神社式内社名神大社)で、旧社格郷社。通称を「大汝宮」とも[3][4]

伊勢街道・旧東熊野街道の分岐点付近、独立峰の妹山の山麓に鎮座する[4]

File:Ōnamochi-jinja02.jpg - Wikimedia Commons

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なお古代には、亡くなった人の名は最後に「命みこと」をつけて呼ばれたが、この本では生きていた時の話をするときは、命を省略して呼ぶことにする。

初代大名持は、各地の豪族の意見によく耳を傾けたことから、八耳やつみみ王 (菅之八耳すがのやつみみ)と呼ばれた。かれの后は、稲苗いなだ姫という御方であった。稲田姫は、現在の須賀神社 (雲南市大東町須賀)の地に実家があり、そこから王宮に輿入れしたという。

p45 14行

その後、イズモ族の各地の代表は、春分・秋分の日に出雲の王宮の前に集まり、大祭を行うようになった。そして、大祭に参加した人々は、土産物を向家に捧げるようになった。それが、倉に山と積まれた。その様子を見て、人々は向家むかいけのことを富家とみけとも呼ぶようになった。

もともと出雲では、富のことをトビと発音した。出雲王国では、稲は富草とびぐさとも言われた。クナト王がインドから、稲の種を持って来たとの伝承があった。それで稲は、クナト王の家系にちなみ富草と呼ばれた。この稲とは、陸稲であった可能性が考えられる。

稲田姫の名は、田の女神の名としても使われた。稲の豊作を祈る際に、稲田姫が祀まつられたという。この名前は、出雲王国の前期の時代に、すでに稲作が始まっていたことを示している。

 

 

出雲国は、もとは「出芽いずめの国」と呼ばれた。イズモ族が住んでいた熱帯のインドでは、常緑樹が濃緑色に茂っていた。ところが、移住先の雪深い出雲の地では、春に出て来る新芽の緑色が、目にしみるように美しく感じられた。イズモ族はその色を愛でて、自分たちの住む地方を「出芽いずめの国」と呼んだ。それは、伸びて発展する縁起の良い名前だと考えられた。また「出芽いずめ」には、日本の文化がここから生まれ出たという意味もあり、かれらの誇りが込められた呼び名でもあった。のちにその発音が変化して、「出雲の国」になったと伝わる。それで王家の向家(富家)は、出雲家と称することもあった。

のちに向家では、分家と区別するため、本家のみが富家を名のって良いとの決まりができた。その家は現代でも富家として続いているので、この本では以下、向家のことを富家と呼ぶことにする。

富家の現当主は、クナト王から数えて第190代目であると伝えられている。この伝承は、イズモ族が日本に渡来した年代を考える際の目安になる。1代あたり20 ~30歳とすれば、イズモ族が約4000年以上前に渡来したという伝承ともおおよそ一致する。

 

次回に続く