兵庫県知事選挙で、既存マスコミは信じられないとする大衆がネット情報に誘導され、ポピュリズムを体現するかのような投票行動を取り、パワハラが報じられていた斉藤前知事を新しい知事に選出した。この大衆の行動について、非常に参考になる記述が歴史人口学者であるエマニュエル・トッド氏の著作(「西洋の敗北 日本と世界に何が起きるのか」エマニュエル・トッド著 大野舞訳(文藝春秋、2024年))にあった。
「ウクライナ戦争以前、西洋の民主主義は、ますます深刻化する害悪に蝕まれていると見られていた。この害悪によって、思想面と感情面において「エリート主義」と「ポピュリズム」という二つの陣営が激突するようになる。エリートは、民衆が外国人嫌いへと流されることを非難する。民衆は、エリートが「常軌を逸したグローバリズム」に耽っているのではと疑う。民衆とエリートが、ともに機能するために協調できなくなれば、代表制民主主義の概念は意味をなさなくなる。すると、エリートは民衆を代表する意思を持たなくなり、民衆は代表されなくなる。世論調査によれば、「西洋民主主義国」の大部分において、ジャーナリストと政治家は、「最も尊敬されてない職業」だという。いま陰謀論が蔓延しているが、これは、「エリート主義対ポピュリズム」、すなわち社会の相互不信によって形成される社会システムに特有の病理なのだ。 民主主義の理想は、「すべての市民の完全なる経済的平等」という夢にまでは至らなくとも、「人々の社会的条件をなるべく近づける」という観念を含んでいた。第二次世界大戦後、民主主義が絶頂にあった時期には、アメリカを始めとする多くの国で、「プロレタリア」と「ブルジョア」が「大規模になった中流階級」の中に溶け込むことすら想像できたのだ。ところがここ数十年、国によって程度に違いはあるが、私たちが直面してきたのは、格差の拡大である。自由貿易によってもたらされたこの現象は、既成の諸階級を粉砕したが、同時に物質的生活条件も悪化させ、労働者階級だけでなく中流階級の雇用へのアクセスまでも悪化させた。繰り替えすが、私のこうした考察は、誰もが同意するはずの至極平凡なものにすぎない。 今日の民衆の代表者、つまり、高等教育を受けた大衆化したエリートたちは、第一次産業および第二次産業に従事する人々を尊重しなくなり、どの政党に属していようが、根底では、自らが高等教育で身につけた価値観こそが唯一正統なものだと感じている。彼らにとっては、自分はエリートの一員であり、その価値観こそが自分自身であり、それ以外は何の意味もなさず、虚無でしかない。こんなエリートなら自分以外の何かを代表することなど絶対にできないだろう。」(上掲書 p.162~p.163)
エマニュエル・トッドが引用している世論調査によれば、ジャーナリストと政治家は最も尊敬されていない職業だという。既存マスコミや既成政党が尊敬されておらず、社会の相互不信の中で陰謀論が蔓延しているのが、現在の西洋民主主義国の実態である。その結果、既成政党は選挙で敗北し、トランプ氏に支配された共和党や、極右ポピュリスト政党が選挙で議席数を増やしているのである。
大卒エリート、日本では大卒の割合が25%程度であり、20代から30代では大卒割合が50%を超えているため、大卒はすでに大衆化された存在であるが、「高等教育を受けた大衆化したエリートたち」が有権者の意思を代表できず、高等教育で学んだことを金科玉条のごとく信奉し、大衆と乖離する存在となっていない状況では、既存マスコミも政治家も信頼されないだろう。そこに、ポピュリスト達が、既存マスコミや既存政党は信じられないという反エリート的な言葉をネットで繰り返し垂れ流す。そのポピュリストの言葉を有権者が盲信し、投票行動に移す。この現象が、東京都知事選挙や兵庫県知事選挙で見られたのだろう。
新自由主義がもたらした格差の拡大、その結果による中流階級の衰退がこのようなポピュリズムの蔓延を招いてるのである。一部の富裕層のための新自由主義が中流階級をぶち壊し、ポピュリズムを蔓延させている状況を変えなければ、民主主義の崩壊を止めることはできないだろう。
既存マスコミも既存エリートとなり、庶民を代表する存在でなくなっている。既存マスコミの記者達は自分たちの価値観こそが絶対的に正しいという信念のもとで報道を繰り返すことから、既存マスコミの報道は庶民感覚とは乖離したものとなり、その結果、庶民は既存マスコミを信じることなく、逆にネットでの陰謀論に引き寄せられるのである。
新自由主義によって、株主が大きな存在となり、株主配当を増やし続けている企業、そして補助金のバラマキや法人税減税などにより企業優遇を続ける政府。他方で、格差が拡大し、中流階級は細っていき、可処分所得が減り続け、日々の生活に精一杯になる多くの人達。
マスコミは、日本は自由で民主主義の国だと言うが、実態は、エマニュエル・トッド氏が指摘するように、国民の代表である国会議員が国民を代表することなく、官僚は国民の実態を踏まえることなく、他方で企業経営者や富裕層を代表するという、民主主義ではなく寡頭制政治が実態となっているのである。民主主義国家には国民の意見を代弁する代議士によって成り立つ国会があり、国会は国民の信託を踏まえて国民の意見を代表して論議する国権の最高機関であるはずなのに、国会議員が国民の意見を代弁することなく企業や富裕層の声を代弁する実態をふまえれば、日本は民主主義ではなく寡頭制政治と言えるだろう。
日本の状況もまた、西洋と同じ状況であり、日本の民主主義も敗北しているのであろう。民衆の意見を尊重せず、自分が身につけている価値観こそが唯一正統なものだと感じている大衆化したエリートであるジャーナリストが記事を執筆する既存メディアもまた、あらゆる階層の意見を尊重する民主主義を捨て、寡頭制政治を代弁する存在に成り下がったのだろう。
日本の民主主義を再生するためには、中流階級の再形成が必要である。そのためには、差別主義的な新自由主義から決別し、民主主義に必要な所得の再配分を公正に行うことができ、また、庶民の実態を体感できる人達を増やし、まともなジャーナリズムとまともな政治家取り戻すことが必要なのである。