野鳥にまつわるお話

野鳥に関するいろいろな情報を個人的に調べ、掲載しています。

コノハズクの民話(アイヌ・遠野物語)

2018年04月25日 | 野鳥
コノハズクになった子ども              【アイヌの民話】

※小鳥前生譚と呼ばれる話で、人の魂が小鳥になったという一話である。

「トーキット、トーキット」って、今ごろだったかなあ。よく鳴くの。その小鳥の神さまは、どうしてだか「トキット、トキット」って、かわいそうに、悲しくなるような声をだして、大きい鳥なんだか小さい鳥なんだか。かわいそうに、声を聞いていたら悲しくなる。
「おばあちゃん、なんていう鳥?大きい鳥?小さな鳥?」と聞いたら、
「あれは大きい鳥じゃなくて、スズメよりちょっと大きいかスズメくらいの鳥の神さまだよ。お母さんもお父さんもいない子が、おばあちゃんにおぶわれて育てられて、物心がついてからは水くみもして、おばあちゃんはすわって、その子がおばあちゃんの世話をしていたのに、おばあちゃんがとつぜん死んでしまったんだ。
 それから『フチ(おばあちゃん)、フチ』といいながら泣きつづけて、とうとう死んでしまった女の子だか男の子なんだよ。おばあちゃんを恋しがって、食べることもしないで『フチ、フチ』といいながら泣いて泣いて、とうとう涙で死んだんだ。
これからおばあちゃん孝行しようと思っていた子だったのに、おばあちゃんが急に死んでしまったあとに、恋しがって泣いてばかりいて、とうとうそのために死んだんだから、神さまに鳥にしてもらったの。ぜったい親不孝するな、親不孝は恐ろしいものにされるんだからって、そういう声を出して、聞けば人が恋しくなる声をして、鳴き声を人も聞き、神さまも聞くことができるようにって、今のトキット(コノハズク)という小鳥にしてもらったんだよ」
「トキット、トキット、フチトット(おばあちゃんおっぱい)、トキット、フチトット、トキット、フチトット」
 ほんとに聞いていたら涙がでるくらい悲しい声だよ。
(話者・・・北海道静内町・織田ステ)

夫鳥(コノハズク)の話

『遠野物語』の中から一つの話をとりあげる。それは小鳥前生譚と呼ばれる話で、人の魂が小鳥になったという、起源神話のうちの一話である。

 山には様々の鳥住めど、最も寂しき声の鳥はオツト鳥なり。夏の夜中に啼く。浜の大槌より駄賃附の者など峠を越え来れば、遥に谷底にて其声を聞くと云へり。
 昔ある長者の娘あり。又ある長者の男の子と親しみ、山に行きて遊びしに、男見
えずなりたり。夕暮になり夜になるまで探しあるきしが、之を見つくることを得ず
して、終に此鳥になりたりと云ふ。
 「オツトーン、オツトーン」と云ふは夫のことなり。末の方かすれてあはれなる鳴声なり。(五一話)

ある所に若夫婦があった。ある日二人で打揃うて奥山へ蕨採りに行った。蕨を採っているうちに、いつの間にか二人は別れ別れになって、互に姿を見失ってしまった。若妻は驚き悲しんで山中を、「オットウ(夫)、オットウ」と呼び歩いているうちにとうとう死んで、あのオットウ鳥になった。(以下、省略)


ホトトギスの民話(奈良県)

2018年04月25日 | 野鳥
ホトトギスのきょうだい (奈良県)

 ホトトギスはむかし、おとうととふたりぐらしやってんと。ある日のこと、いっしょにヤマイモをほりにでかけたけど、とちゅうで用をおもいだしたもんやから、
「さきにいんで(かえって)、イモをたきかけてくれんか。」
ちゅうてたのんだんやてな。ほんで、ホトトギスのおとうとは、うちにかえって、ヤマイモをあろうて火にかけたんやて。そやけど、にいやんは、なかなかかえってきよらん。そのうちに、だいぶにえてきたみたいやから、
「もう、はし立つかしらん。」
と、ついてみると、イモは、いいぐあいににえとるや。
「おそいなあ、にいやんはなにしとんかいなあ。アア、はらへった。」
 おとうとは立ったりすわったりしたけど、しんぼうたまらんようになって(がまんできなくなって)、ちっちゃいイモをひとつ食うてみた。ほんならまあ、ヤマイモはほっくりにえて、したがとろけるみたいや。
「こらうまいがな。もうひとつ、ちっちゃいのをたべたろ。」
 また食うた。それでもにいやんは、かえってきよらん。
「そうや、どうせふたつにわけて食うのや。おれのぶんだけさきに食うても、おこれへんやろ。」
 おとうとは、なるべくつるくびのもむない(おいしくない)ところばっかりよりわけて、ええところを、にいやんのぶんとして、のこしといたんやてな。
 やっとして、にいやんのホトトギスがかえってきて、
「ヤマイモにえたか。」
と、きくもんやから、
「うん、にえたよ。だいぶまっとったんやけど、はらへってしゃないさかいに、おれのぶんだけ、さきに食うた。」
 おとうとは、のこしてあったうまいイモをだしてんと。ほいたらにいやんは、こわい顔していうのや。
「たったこんだけか。」
「うん、ちょうど半分にわけたら、そんだけや。」
 にいやんのホトトギスは、むっとふくれてひと口たべてみたけど、はしをほうりだしたんやと。
「なんやねん、このイモは。もむないところばっかりのこして、どういうこっちゃ。うまいところは、みんなおまえが食うてしもたんやろがな。」
「そんなあほな。ええところばっかりのこしたつもりやで。」
「うそたれっ、だまされるかいな。」
 ぼろくそや。しまいにはおとうとも、しゃくにさわるわな。
「そうか、そんくらいおとうとを信用でけへんのやったら、おれのはら、たちわってみてくれ。うそいうてるか、いうてへんか、すぐわかるがな。」
 にいやんはむしゃくしゃまぎれに、おとうとのはら、たちわったんやて。ほんならどうや、やっぱしおとうとのいうたとおり、中にはくずイモばっかりはいっているがな。
「しもた、えらいことした。」
 にいやんは、じだんだふんだが、もうあとのまつりやった。
 そやからホトトギスは、いまでも、
「オトトかわいや、ホーロンかけたか。」
ってなくのやて。それもまい日、八千八声ずつなきつづけるんやて。ないとるとちゅうで、人がまねでもすると、またはじめからやりなおすねんと。たとい、あとひと声でおわりちゅう、八千七声までいってても、やりなおすらしいわ。
 ほいでむかしから、ホトトギスのないているのをきいたら、まねしてやるな、いうねんて。はじめからやりなおすのは、あんまりかわいそうやもんな。
 なきつづけになくもんやから、木にとまってるときは、口ん中があこう見えてる。赤いのは、なきすぎて血ぃはいてるせいやそうや。 (再話・川村たかし)
【ふるさとの民話十四「奈良県の民話」 日本児童文学者協会編 偕成社】