ttlの絵空事
ぼくは
ヨハン・ゼバッシャン・バッハ(1685-1750)
Aiはどのように述べ伝えるか検索してみると
以下のような
試験運用中の語録が出てまいりました。
それらは本来のバッハなのか
確かに現存するあらゆる演奏群から
導き出されたものであり、
・・・・・・
基本バッハは雇われ音楽師である。
任用試験や昇進試験の音楽は確かにバッハ自身が天上界とつながったメロディーを奏でていると言えるが、到底バッハ自身が意図的に作り上げたというよりむしろ聖職者、あるいはその祝祭日に似合うように上級聖職者からこのような意図で、このような進行過程でおおよその時間指定まで受けて止む無くこれでどうでしょうかと何度もお伺いを立てて作り上げられた曲目も多い。
これらは祝祭日に演奏されるカンタータではほぼ当たり前なものであったと思われる。バッハ自身ある程度反発もしたが決定権はいと高き信仰心のほうが最優先する。
次の演奏まで一週間で演劇で言えば台本通りに譜面を作成して練習は完璧でないまま初演することが多かっただろう。バッハの苦悩をはかり知ることができない。
バッハは音楽演奏担当だから
教会の方針には寸分の支持をきちんと履行して音楽を作り上げていた。しかしこの説法ではこのほうがよろしいのではと上申しても認められることはどうもあまりなかったようだ、
今どきのミュージシャンの歌われる曲を提供した作曲家のように
ほぼ自由がなく、(バッハが持っている職権では最終判断は上層部に委ねられていた)禁止事項もかなり指摘されて
理不尽の不自由な日々を送りながらもその中で最善を尽くした。
何も教会の聖職者が聞きわかりが悪いと言っているのではない
聖職者は聖職者で礼拝に来られた方々がより信仰心を深めるための説法をしなくてはならなないからだ。双方が折り合いが合わないと(ある程度妥協点が見出すためにバッハ自身が考えている教会音楽の特にカンタータの演奏の基本方針なるものを
聖職者会議の場でお伺いを立てたが
通り
通るはずもない。
普通このような対立が続くと人間というもの殻に閉じこもるものだがやはりバッハ集大成として完結されたものは人類の遺産となっている。ぼくがバッハをこよなく一生懸命聴き始めたのは
二十二、三歳
ぼくの実年齢はともかく
バッハの教会カンタータのより多くに不自然さを感じ取れる
よいものはよいが、やや命令通りに作曲したことがわかるように
バッハが精魂込めて作り上げたカンタータとは明らかに違うことが皆にわかるように作曲されているようにも僕自身個人的にもう
だから、
Aiが創り上げたそれっぽいバッハの音楽は何の役にも立たないこととなるのではないかと思われる。
現代の演奏家にも似たところもある
演奏家や指揮者は自由に演奏できたかと言えばそうでもない。
ある程度の大きな足かせとというべきものを乗り越えることはできない演奏が今までの主流と思われる
あのカール・リヒターしかり
あのヘルベルト・フォン・カラヤンしかり
上層部の基本方針の上を行くことができなかった
現代においては
おいては自由が最優先される
同じ番号のcantataでも演奏者や指揮者により全く別物のなる
イイことじゃないか芸術は爆発であり、
なおかつ自由が最優先する
全く別物のとなったって
その大きな違いがバッハの音楽の崇高性をビビたりとも変えることはないと思う
最後までお読みいただきありがとう
感謝します♪
ttl 2024.12.24. Am 02:32
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