― 加藤周一先生に捧げる ―
大垣公園の中に入って行ったのは僕らだった。君は厚地のチエックのスカートを穿いていた。どうして僕らは知り合ったのだろう。今となっては分からない。思い出せない。そう、こんな風に個別に言い直すことが大事だ。僕は女を知っていただろうか。当時、何歳だったろうか。年齢や職業などの、見易い枠を嵌めれば、人間理解が容易になると言うのか。そこのおしゃべり小母さんに尋ねているんだ。僕は僕が想像していた以上に君が可愛かったので嬉しかったけれど、その気持ちは僕の顔の表情や態度に素直に表れていただろうか。君の気持は、一方、どうだったろうか。君は終始ニコニコしていた。両頬に笑窪が出ていたね。僕は学生だったが、君は確か働いていた。その日は労働者の祝祭日、日曜日だった。
段落には深い意味がある。連綿たる或いは纏綿たる連続性が途切れる。中井正一の「大衆の歴史的意欲」がその溝に横たわっているかどうかは知らない。僕は段落の持つ不思議な力を我田引水的に身勝手に利用するだけだ。或る日、君は僕の問い掛けに対して横を向いて沈黙で応えた。あれも一つの君が作った段落だった。誰でも自分の文体と自分の段落を持っている。自由な感覚で表現すればいいのだ。それしかない。
それは僕らの初めての出会いだった。君の短く切っていた黒髪からは清潔感が漂っていた。君は大垣城の城壁に背を凭せ掛けるようにしてじっとしていた。逃げもしなければ、誘いもしなかった。僕は小鳥のようだと思った。唇を重ねることに少し慣れた頃、君は僕に言葉にならない言葉で人の存在を教えた。振り向くと、確かに誰かが木陰からこちら覗いているようだった。僕は君に「僕は向こうを見張っているから、君はそっちを見てて」と頼んだ。一種の共犯関係の成立だった。唇を合わせながら、僕らは覗き魔対策を共同で実行した。忙しかった。喜劇に近い抱擁だった。白いブラウスのボタンを外しながら、僕は僕の鼓動が速くなるのを感じていた。また、君の薔薇色の吐息が僕の耳元で甘く激しくなるに連れて、男としての興奮が高まるのを感じた。僕は人差し指を45度の角度に立てて、「そこに行こうか」と誘った。桃色や緑色や小麦色のネオンがモンドリアン風に君の眼に映っていた。
僕らはいつも大垣公園で会った。君はいつも厚地のチエックのスカートを穿いていた。秋だったのか。僕らはその時、青春という季節の中にいた。少し冷たさを感じていたのは、石造ベンチの上に座っていたからだった。君は僕の膝の上に乗り、僕の首の周りに両手を巻きつけていた。君の白いブラウスの間からは小さな胸の隆起と唾で濡れた乳首が覗いていた。君は興奮すると、何故か「ヒィー」というような声を出して笑った。暗くなるまでずっと、言葉を使わずに語り合い、快楽を追い求めた。・・・
加藤先生。しかし、僕にはこの程度の濡れ場しか書く勇気がありません。先生のような大胆かつ濃厚な〈華麗な一夜〉を描こうと試みましたが、これ以上書くと品がなくなりそうなので、止めておきます。先生の〈華麗な一夜〉はどうしてあのように美しく、上品で、かつ味わい深いのでしょう。やはり、先生は巨人です。・・・
僕は小さな下宿の部屋で、小雑誌を捲っていた。加藤周一自身を髣髴とさせる主人公が外国で金髪女性と交わり、華麗な官能美に陥る短い話だった。30年以上前のことだ。僕はその頃、ベートーベンのバイオリン協奏曲をうっとりと聴きながら、「海辺のアクセス」という題で小説を書こうとしていた。過ぎてしまえば、どんな時代も「いい時代だった」と懐かしくなる。人は石庭だけを鑑賞していれば生きていけるというわけではない。人生は多分僕が思っているよりは単純なものだ。人間の心は多分僕が思っているよりは単純なものではない。今、隣で、古女房が3度連続して大きなクシャミをした。擱筆の合図だ。先生と死んでしまった僕の青春に対して、合掌。
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