「三手先を読め。それだけで随分違う」
僕は、今夜、ふと考えた。
三手先を容易に読めるのならば、
読んだほうがいい。
これは当然だ。
容易に読めない場合のほうが、
しかし、人生では多い。
読めない時は、
堂々巡りになっちまう。
三手どころか、次の一手が読めない。
読めないどころか、
次の一手がさせないのだ。
踏み出す勇気が湧き上がらないのだ。
そういう時は、
先を読もうとしてはだめだ。
三手先まで突っ走ることだ。
読む前に行け。
三手先まで行ってから、
言わば〈後読み〉すればいいのだ。
それでも、物語は展開するのだから。
いや、既に展開〈した〉のだから。
大事なのは、
堂々巡りではなく、物語の展開だ。
ドアは閉めるためではなく、
開けるためにある。
無論、
何も見るものがないことを知るために開けるドアもある。
そう、空虚だけがひろがっている世界だ。
しかし、〈本当の〉空虚を見ることができたら、
幸福とは言わないまでも、何事かではある。
なぜなら、
〈本当でない〉空虚、実体のない空虚、
幻影のような空虚の中に漂うばかりの無意味よりはましだから。
ところで、これで何か言ったことになるか。
僕の語録、第一号。
「三手先へ行け」
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