穏やかで軽やかな気分で迎えた或る夕刻のことだった。入浴後、急に左胸がチクチク仕出した。いよいよ心臓も悪くなってきたのだろうか。不安はいつでも人を急襲する。湯船の中であれこれと暫く下手に考えた。「時を先駆ける」と言ったって、残された人生は短い。そう自分に言ったのはもう一人の僕だった。誰の死の床であろうとも、野望は野望として残るに違いない。食卓においても、人生のその他の舞台においても、人が何を味わい尽くそうとするのかは自由だ。結局は味わい尽くせないと分かっていても、味わい尽くそうと試みざるをえない悲しみ。僕は次のステップ台を早めに探さねばならないと思った。バス停Aで停止していたバスを次のバス停Bを目指して発車させる時、どんな車掌も「発車オーライ」は一度しか言わなかった。バスは思案するために在るのではなく、走るために在る。そうだ、僕も走らねばならない。そもそも走るとは不安を乗り越えて安らかな死(外面的にはどうであろうとも)に向かうための一つの決意に満ちた行動だ。市内を走る乗り合いバスは時刻表通りに走る必要があるが、心の迷路を走る僕は時を先駆けて走らねばならない(僕は時の歩みを敢えて超えねばならなかった)。走って、走って、帰る所がなくなる所まで走って行って、ようやく自分の場所が現れるだろう。そして、そこで、僕は僕の自己像と重なり合うだろう。たとえ時刻表通りに走るバスの中に乗っていても、僕は時刻表のない旅をするしかない。
警察官から何をしていたのだと尋問されたら、「その時、僕はバスに乗っていた」と答えるだろう。誰からも尋問されていない今は、「僕はバスに乗った」と書いてもいいだろう。この過去形は現在形だと言ってもよい。それも未来を孕んだ現在形だ。僕らが生きる場所は、この未来を孕んだ現在の一瞬一瞬にしかない。これは自由な物語の試みだ。風が吹いたら、バスに乗ればいい。僕はバスに乗った。生の証だ。それもバスムービー付きバスだ。誰でも生きている限り夢想し、意欲し、祈願するものだ。Sバス停で、或る日、例の訳の分からないことを呟く短髪の青年が乗り込んできた。窓際に座る僕の斜め後ろに座った。その時も、いつものように訳の分からないことを呟いていた。耳を澄まして内容を聞き取ろうとしたが、何も聞き取れなかった。この青年は、自分の斜め前に座っている中年男が、自分の呟いた単語を物語の中に書き込んでいるという事実を知ったら、どんな反応をするだろう。都会では、しばしば出会う他人という隣人が、自分に対してどういう関心を抱いているかを想像することは困難だ。僕も誰かの日記には「人ではない」と書かれているかもしれない。もっと言えば、その日記の中では、僕もそして高齢者から金を奪う振り込め詐欺の犯人も同列の「人でなし」に分類されていないこともない。警察官から尋問されたら、「その時、僕はバスに乗っていた」と答えよう。
僕はバスに乗った。多分、乗ったのだろう。なぜなら、背中を背凭れに強く打ちつけられて、僕は目覚めた。見回すと、BWMバスの中だった。どこにでもあるような座席だった。自分の前列の座席のちょうど目の高さに小さなスクリーンがあった。よく見ると、すべての座席の背に縦8㎝×横15cmほどのスクリーンが装備されていた。僕は窓外の景色よりは恋愛映画を鑑賞したいと思った。・・・そうだ、こんなふうに、僕は何度でも書き始められる。否、何度でも書き始めたいのだ。或る秋の日の夕方だった。書きたいという強い衝動が僕の中に生まれた。僕の左手には未来に対する不安が、右手にはほぼ同量の自由な感覚が、そして、心の中には、淡い憧憬の対象(ルノアールの描く愛らしい垂れ目の少女に似た)から拒絶された絶望があった。否、書きたい衝動が生まれた背景の説明などはどうでもいい。そんな自己分析など正鵠を射たものではない。どうせこんな物語は狂人の無意味な戯言だ。バスが或る街角のバス停で停止した。中央の通路を挟んでちょうど僕の反対側の右列の窓際座席に座っていた青年が、窓の外を見ながら、左手を小さく振っていた。何をしているのかと思い、視線を道路の反対側にあるバス停に並ぶ人々に移すと、長い髪の女子高校生が目に入った。青年は彼女に対して左手を振っているようだったが、その左手は窓枠よりも低い位置にあった。仮に女子高校生が青年の方に顔を向けたとしても、その手の合図は彼女の目には見えそうになかった。青年は痩身に薄桃色のズボンとジーンズ・ジャンパーを着用していた。左手をひらひらさせている間も、その横顔は無表情だった。僕にはその青年に何か精神障害があることがすぐ察知できた。バスが動き出した。心のどこかでは彼も多分陽炎のような恋の夢を見ているのだろう。停車時間の短い間に、青年の振る左手の合図は、「やあ、こんにちは」から「じゃ、またいつか」に変わったような気がした。動き出すバスの中で、僕は自分の心の奥に孤独を感じた。それは青年自身が抱いている孤独なのか、僕自身の孤独なのか、その区別はバスを降りてからも僕にはできないままだった。涙に似た秋雨の小さな粒が、頬に一つ二つ降りかかった。「物語」から下車すると、僕は中央線に乗るために急がねばならなかった。
僕はとうとう「物語」から現実に帰還した。気が付くと、朝だった。僕は布団の中にいた。いつものように起き上がる前のストレッチを布団の中で行った。僕は頭の中で、今日は勤務日か休みかを確認し、休みであることに安堵し、かつ、千紗子とテニスをする約束がある自分の幸福を味わった。千紗子とは一度寝たことがあった。千紗子には当時、夫と二人の息子がいた。或る時、千紗子は、「夫は4日出張でいない。息子も旅行に出掛けていない。家庭内離婚状態で、ずっとセックスしていない」と僕の傍で告白した。僕は驚いた。
アドリブも出ない。「山際さんなら、いいかなと思って、・・・」
僕らはぎこちなく抱き合った。僕には拒否する理由がなかった。千紗子は「うまく出来るか分からない」とホテルへ向かう道中で言った。僕は何か彼女を慰めるために言いたかったので、何かを言った。裸で立ったまま抱き合っただけで、千紗子は「濡れてきちゃった」と言った。確かに、濡れていた。僕は、正直に言って、そのベッドの中で、本当の喜びを初めて知った。或いは、今まで知らずにいた深い喜びを知った。千紗子の膣が収縮し、僕の棒をギュッと締め付けた。何と言うことだ。完全に捕われたみたいだ。僕はあまりの快感のために、制御不能となり、そのまま膣の中で射精してしまった。
ホテルから出て、某国道を走り出した時、千紗子が言った、「幻想の世界から脱け出して、現実に戻らなくちゃ」と。ベッドの中で、「懐かしいものが入ってきた」と千紗子は言った。帰りの車の中で、「現実に戻らなくちゃ」と千紗子は言った。僕はその日、一日中、波のまにまに揺れる小舟だった。
二度と千紗子は僕と二人きりでは会わなくなった。のみならず、他の誰かと付き合っているようだった。何年も僕らは会わずにいた。僕は、しかし、喜びの体験を忘れることが出来ず、或る日、或る時、千紗子にメールを送った。僕には失うものは何もなかった。拒絶されても、心が廃墟になることはないという見通しがあった。彼女のメルアドは変わっていなかった。返信があった。僕らは一緒にテニスをすることになった。賭けを試みて、良かったと思った。所謂hit-or-miss approachだった。僕は自分に欠けているものを素直に求めることの重要性を認識した。
千紗子がテニスコートにやって来た。或る月曜の午後だった。所謂小春日和だった。一度寝たことがあるのに、僕は彼女との間に埋めるべき距離を感じた。心理的葛藤が二人の心のそれぞれに泡立っていたことだろう。僕はテニスの球を追ったり打ったりしながら、記憶の中では幾度も千紗子を突き刺していた。千紗子の膣内の筋肉が、僕の棒をまるで抜けないようにするかのように強く捕縛した。確かに、世界は、次々と新しいドアを用意して僕らを待っている、この世に僕らを何としても繋ぎとめようとする意志があるかのように。2時間の練習後、外面的には、単なるテニス友達のように、僕らは別れた。駐車場で、千紗子は背中に亀の甲のような大型のテニスバッグを担いだまま、僕に小さく手を振った。僕の妄想は僕の小さな世界の中の片隅に萎んでいかざるをえなかった。帰宅する車の中で、僕はなぜかカロリンに会いたくなっている自分を見出した。どの日に帰れば、どのドアを開ければ、どのバスに乗れば、どの映画を見れば、僕はカロリンに再会できるのだろう。再会? 千紗子に再会したように、僕はカロリンにも再会できるのだろうか。「寒崎バビ子ではなく、カロリンに会いたい」と僕の耳は僕が独白しているのを聞いた。僕とカロリンとの関係性は、完全な、かつ、無条件な一つの支え合いだった。僕と千紗子とのそれは、まだその域には達していない。と言うよりも、二人の間には、いつ崩れてもおかしくない微妙な均衡があるような気がする。僕には僕に都合の良い、彼女には彼女に都合の良いパートナー像があるとしたら、僕らはいずれおのおのの鏡の中に寂しい自己像を発見することになるだろう。僕は、いつしか「物語」の各ページで酒を飲む習慣を付けてしまった。
対話に喜びを感じるのが愛で、身体的結合に喜びを求めるのは官能的欲望だと単純に分類することに、何か意味があるのか。僕はいずれの喜びからも締め出されている心身の障害者(仮に、青年タンガーとしよう)を或る一つの舞台に登場させた。谷監ならば、脚本なしで、どういう演技指導をするだろうか。金銭で女を自由にできるとしても、彼にはその金銭がない。谷監は、彼に松の木の下に行かせ、太めの枝に縄を掛けて、首を括らせるだろうか。絶望は表現とは反りが合わない。谷監も、群小表現者の一人である以上、面白味に欠ける演出はしないだろう。僕はいつでもBWMバスに乗り移れることを知った。いつでもBWMバスに乗り移れることを知った僕は、窓際にいた青年タンガーの左隣の席に座った。彼はSバス停に車が止まると、いつものように、道路の反対側のバス停に並んでいる長い髪の女子高校生に対して決して見てはもらえぬ手の合図をした。僕はその女子高校生を見た。両脚をX字になるようにクロスさせ、一心に何か参考書のようなものを読んでいた。青春の輝き、香りに包まれたその太腿。バスが発車しなかったら、僕も目と心を奪われそうになった。それに引き換え、タンガーには何がある?僕は、止むに止まれず、「トリプル・ソールジャーは元気か?」と彼の耳元に口を付けるようにして尋ねた。タンガーは、こちらに顔を向けると、少し目を剥くようにした。僕は同じ科白を繰り返した。タンガーは何も言わずに窓外の景色に目を移した。確かに、千紗子は一つの現実だった。僕らはファンタジーの世界でテニスをしているのではなかった。球を打っている僕の心の中では、しかし、いつも同じようなファンタジーが空回りしていた。僕は走るバスの中の、タンガー青年の隣で、「出来ることならば、千紗子のいる現実世界に自分の楔を打ち込み、自分の中のファンタジーを現実化したい」と思った。
現実の生活はどこにあるのか。埃と黴と湯気の上がったスープと今にも途切れそうな心音と糞尿との境にある。段々と途切れ途切れになるしかないファンタジーの合間合間に喜怒哀楽を繰り返すのみだ。僕はいつでもBWMバスに乗り込める。乗り込める間は、自由だ。乗り込めなくなる時は、いつかはきっと来る。その時は、心身ともに大量の無慈悲な砂におおわれる時だろう。少量の無慈悲な砂ならば、日常的に僕らをおおっている。少量だから、僕らは何とかはねのけているに過ぎない。笑ってごまかすことができるような絶望もある。今は、千紗子のことを物語っているが、誰かとどのように巡り合ったかよりもどのように別れたのかのほうが大事な問題だろう。カロリンにはいつでも会える。僕はそろそろ頭の中を整理しなければならない。カロリンには、BWMバスに乗りさえすれば、いつでも会える。寒崎バビ子や谷監やモリベエやモナミなどには会えない。谷川映画製作所など架空の存在だ。もし会えるとしたら、僕が言わば山際登呂彦の時空空間に何らかの切っ掛けで移入する時しかない。
或る冬の朝、Oバス停でBWMバスを待っていた時、カロリンの唇の間から少しずつシャンパンが僕の口の中に流れ込んできた。僕は甘美な白い霧に包まれながら、ふと、右側の柱の傍に立っていた少女を見た。明らかに知的障害者だった。彼女は作業向きの地味な服装を身に付け、自販機で買った缶コーヒーを手に持っていた。瞳に輝きはなかった。僕が彼女を見ると、彼女は僕を見た。多分彼女の過去には何年も笑ったことがないような生活の連続があり、未来にもまた同じような生活の連続があるのだろう。僕はタンガー青年に感じ取ったような孤独な匂いを彼女にも感じた。流行のファッションで着飾った少女たちや何かに意欲的に挑戦している女性には無縁の匂いだった。もし僕が彼女に、「トリプル・ソールジャーを知っているか?」と尋ねたら、彼女はどういう反応をしただろうか。尋ねた僕も尋ねられた彼女も、無慈悲な砂に埋もれるだけだろうか。僕は接近してきたBWMバスに乗り込んだ。彼女は鉄柱の傍から離れずに、両手の中の缶コーヒーでささやかな温かみを味わっているようだった。心の中で誰にも聞かれないさよならを言っている自分に、僕は動き出したバスの座席で気付いた。どこへ行くのだろう。
Aだと思料しても、非Aだと思料しても、自分の生活に変化がいささかもないとしたならば、その思料が不完全なものか、その思料自体が無意味なものなのだろう。僕らの通常の生活に好ましい変化をもたらすものは、平俗な喜びだ。取り分け二者以上の間の喜び合いだ。僕の頭の中に巣くい始めた奇妙な考え、トリプル・ソールジャー。三つの次元(カロリンたちがいる次元、寒崎バビ子たちがいる次元、そして、現実の僕がいる次元)での僕の闘争。このことを僕が僕の内部でのみ取り上げて考えることは自由だ。このことをタンガー青年や缶コーヒーの女の子に対して話すのは、常軌を逸している。僕にも彼らにも何の喜びも齎さないからだ。夕闇に沈むW停留所でバスから下車すると、僕は一人で自分の心の奥に沈潜していった。すると、急に後方から谷監が走り寄って来た。
「山際君、ありゃ、まずいよ。タンガーに対する君のアドリブ、それから、Oバス停での女の子に対する君のアドリブ、どちらもカットだ」
「監督、僕は彼らに現実との接触の重要性を教えたかっただけです」
「確かに、君という人間も現実世界の一部には違いない。しかし、君は彼らには相応しくない現実の一部なんだ」
「じゃ、監督、誰ならいいんですか」
「たとえば、運転手とか、バス会社が雇用している清掃職員だ」
「で、どういう科白を喋らせるんですか」
「シーンにもよるが、運転手なら、車内放送を使って『お忘れもののないように』とか、清掃職員なら、『おはようございます』とかだ」
「監督、僕は耳を疑いますね。監督は常日頃、月並みな科白を毛嫌いされていたじゃないですか。どうしてそんな凹凸のない日常用語を喋らせるんですか」
「凹凸? おうっと、山際君。私は、夜の木立の黒い影のように孤独な彼らに現実との接触の機会を提供したいんだよ」
「監督、状況に相応しい、当たり障りのない、決められた科白を言ったって、彼らは砂に埋もれたままですよ。監督は、常日頃、ドラマティックな人生を描こうとしていたじゃないですか。僕らは今、バスムービーを創っているんですよ。平凡な日常を描こうとしているんじゃないんです。不快、嫌悪、衝突、嫉妬、葛藤、憎悪、あるいは、賭け、孤独な愛、祈り、こういったもので煮え滾っている人間の心を描こうとしているんじゃないのですか」
「山際君、私は君が嫌いじゃない。なぜなら、君は私を混沌の世界に引きずり込もうとするからだ。私は自分の人生が混沌で終わってもいいと思っている。ただ、君には注意を喚起しておきたいだけだ。君は君の創り出す三つの次元を同時に生きることができるだろうけれど、他の現実の人々は君の頭の中のムービーのことなど何も知らないということについてね」
僕は、小雨の降る夕闇の中で、足を止めた。僕の耳底には谷監の声がまだ残っていた。振り返っても、誰もいない。暗い空を見上げた。自分が生きていることだけは感じることができた、山深い岩陰にひっそりと咲く野花も多分感じているようには。なるようにしかならない。このアドリブは確かにいい。しかし、自分が作ったものではない。僕は自分にそう言った。
フットワークを別にすれば、千紗子のテニスの腕前は格段に上がっていた。「昔の日記を調べてみたんだけど、初めて会ったのは、9年前ね」と千紗子が言った。日記を付けるような几帳面な女性とは知らなかった。こんな些細な発見ができただけでも、再会した意味はあったと言える。誰でも自分の物語の輪郭は明瞭であればあるほど得心できるものだ。僕は千紗子と自分との物語を今後も大胆にかつ慎重に創っていきたいと思った。この気持ちの中には、自己分析では、純粋な要素とそれと同じ程の憂さ晴らしの要素とが含まれているような気がする。恋心などは、たとえば和歌に昇華すれば純粋さを帯び、たとえば三文小説にすれば憂さ晴らしの側面を浮かび上がらせることになる。同じ一つのものが二様にも三様にも彩られる。同じ一つのものの輪郭が二重にも三重にもなりうる。同じ一人の人間が、人生の諸断面において闘争するためには、トリプル・ソールジャーとならざるを得ない。コートサイドで水を飲んで一息入れている時、僕は千紗子に「一泊二日で京都に行かない?」と唐突に尋ねた。千紗子は笑いながら、「一緒には行けない」と即答した。僕は平静を装い、ボールをラケットで突きながら先にコートに戻った。
女性からの拒絶は心に重く響く。落胆からの心の回復には時間がかかる。幾度も胃袋を満たし、幾度も脱糞し、幾度も月に向かって吠えなければ、回復しない。千紗子は、笑いながらだったが、「一緒には行けない」と言った。僕はケーキを食べ糞を出し、コーヒーを飲み尿を出し、いなり寿司を食べ糞を出し、うどんを食べ尿を出し、チョコレートを食べ糞を出した。苦悩している人に対して、人はよく「時間が解決してくれるよ」と慰める。時間というものは、しかし、食べて、糞尿を排泄しない限り限りなく滞留する。僕は、或る時、ぼんやりと排尿しながら、「いや、待てよ、この落胆は確かに僕の心身を重苦しくする。しかし、思い切って誘ったからこそ、誘わずに遅疑逡巡している場合よりは、自分の時計をかなり進められたのではないか。これも〈時を先駆ける〉ことの一つではないだろうか。縁のない女など置き去りにしろ。僕は僕の時を先駆ける」と思った。
思った? どのように思ったところで、その思料と実際の日々の具体的な行動との間にある乖離は消滅しない。僕らの手には台本があるわけではない。演出家の指示もない。ぎこちない仕草、明晰さに欠ける意思表示、希望のない役回り、これらが言わば実人生の普段着だ。身体も心も重い気掛かりに縛られずに一日たりとも生きられようか。
或る冬の朝、Oバス停でBWMバスを待っていた時、四角い鉄製の柱の横の自販機の前で、いつもの缶コーヒーの女の子が、缶コーヒーを選んでいた。運動靴、よれよれの作業着、大きな手荷物2個、櫛で梳かしていないような乱れた髪、眼鏡をかけた丸い顔。生きていることの喜びを一体どこで感じているのだろう。友と遊ぶ楽しい時間を一体どこへ置き忘れて来たのだろう。
或る冬の朝、Oバス停でBWMバスを待っていた時、四角い鉄製の柱の横の自販機の前で、誰かが缶コーヒーを選んでいた。あれ、この風景、前に見たような気がする。そう独白していたのは、僕だった。見れば、運動靴、よれよれの作業着、大きな手荷物、櫛で梳かしていないような乱れた髪、・・・、かなり、似ている。この自分が、あの缶コーヒーの女の子に似ている。右側を向くと、バス乗り場の東端の方には、朝の陽光が明るく降り注いでいた。生きていることの喜びを、一体どこで感じているのだろう。僕は自問した。友と遊ぶ楽しい時間を一体どこへ置き忘れて来たのだろう。僕は自答できなかった。そもそもあの缶コーヒーの女の子は、現実にいたのだろうか。確かに僕の記憶の中にはいる。しかし、こんなふうに自分が彼女に似て来ると、彼女は元々は僕の心の中から生まれ落ちた分身のようなものだったのではないか、と考えることもできる。とりあえず、僕は手を温めるための缶コーヒーを買うことは止め、バス乗り場の東端の、降り注ぐ陽光の中へ入るために歩いて行った。
足早に降り注ぐ陽光の中に入り込んだ僕は、滴り落ちる絵の具の付着した絵筆を乱暴に振り回すように、心の粗描を試みた。
※※※
失敗や破綻が潜在していない夢想などない。夢想の現実化を図ろうとする行動は、現実世界と切り結ぶことになる。戯れでも真剣勝負だ。挫折や敗退を覚悟せねばならない。負け犬として蝙蝠しかいない洞窟に戻る目も出るということだ。或いは、真剣勝負でも戯れだ。精神を根底から覆すような笑いに繋がることもあるだろう。誰かの共感を引き出す目が出ないこともないということだ。この吉凶不定の舞台が、この満ち欠けの明暗が、あたかもサイコロの目のように転がって行くのだ。どんな風が吹き荒れようとも、自分が選び取った行動には自ずと責任が付き纏う。再挑戦ができる可能性はゼロではないが、一度遂行された行動の取り消しややり直しはできない。行動の結果を覆すことはできない。蔑ろにはできない。自己弁護や言い訳など糞の役にも立たないと知るべきだ。実際になされた言動だけが唯一無二のものであり、なされなかった別のメニューの言動などは何度心の中で思い返そうとも、何も齎さない。現実化しないままの夥しい夢想の塊、その前で誰もが佇む。振り返れば、分かる、刻苦し自ら切り開いたものであれ、他人に追従しただけのものであれ、実際に自分が歩いた道にできた足跡以外に自分の物語を織り成すものはない、と。人生の分岐点で、あれもこれも同時に選び取ることは不可能だ。逆に言えば、何を捨てたかが把握できれば、それが、捨てた者の自己像を浮き彫りにする、と言ってもいい。「行動せずに悔む自分」を捨てた者は、「行動して悔む自分」を積み重ねるべき一つの層にして再出発を図る。一つの思わしくなかった行動の反省は、究極的には、内的な沈潜によってではなく、次の新たな外的な行動によってなされるべきだ。自分の中に自分の熱情を常に制御するような堅固な自己像があるのか。運任せに揺らめく陽炎のようなtriple soldierとしての僕にはない。自分を取り巻く多次元の相関関係から受ける様々な影響によって揺らめき、燃え立ち、自らの計画遂行やアドリブによって自己像を形作り、日々そうすることによって多分僕は僕に近づき、仮象のような三重の像の重なり合わない部分を漸減させていくのだろう。
人は誰でも自己嫌悪に陥る場合がある。自力では問題の解決が出来ないばかりでなく、誰かに救いを求めたくてもその救いの求め方が分からない場合、人は自分の非力、無能さを責め立てる。この反応は、克服したい問題があと少しで出来そうで出来ない場合に特に激しく表出される。少年時代、ノートの上で数学の問題に対して悪戦苦闘しても、解を見出すまでには至らなかった場合もあった。又、その過程において何か有益なものを得たということもなかった。分からない、お手上げだ、何回挑んでも難解だ。この種の、結果として実を結ばないような努力は、一から十まで無駄なのか。逆に、解を得ても、何も残らない問題があることも確かだ。根本的に大切なことは、発見の有無だ。発見などというものは、しかし、そう易々と出来るものではない。よく先導者は初心者に対して、「同じ間違いをするな。一度目は仕方がないが、二度と同じ間違いはするな」と言う。僕は、逆に、「違う間違いではなく、同じ間違いをせよ。一度目も二度目も同じ間違いをせよ」と言いたい。間違いの定型化、重複化は改善点の焦点化、単一化に繋がりやすい。
肉体と大地から離脱し、鳥のように飛び立ち、大空を、時空空間を、自分の心の中の混沌たる錯乱状態の中を、酔ったように、狂ったように飛翔しているのだろうか。辛うじて分かっていることは、カロリンからもバビ子からも千紗子からも、否、自分自身さえからも離れていることを意識している今の自分には、現実世界の中ではどこにも行き場がないということだった。換言すれば、たとえどこへ行っても行かなくても、自分の心はどこか遠くにいる自分から離れずにいるということだった。恋は人を自縄自縛に陥らせる。あるいは、人は自縄自縛に陥って恋する気分を味わう。僕は自分に言った、「僕は自縄自縛に陥っている自分を自分で嬲ることで気を紛らしたいだけなのかもしれない。心の中に何も起きないよりは何かが起きた方が人生は過ごしやすい。何も起きなければ、目の前の宝石箱をひっくりかえせ」と。
※※※
僕は時の歩みを、与えられた関係性を、意味の繋がりのある行間を敢えて超えねばならなかった。バスムービー付きのBWMバスは、そのための手段だった。
【若干の解説の試み。「時の歩み」とは、心身ともに蝕まれているという意識の下に、遣る瀬無く耐えつつ生きる一刻一刻のこと。「与えられた関係性」とは、偶然に与えられたままの、自分の利害に基づいて意識的に組み直していない社会関係のこと。僕はその社会関係の隙間を縫うように息を殺しながら生きているだけだ。そして「意味の繋がりのある行間」とは、自分の周囲で現在展開中の、筋道の通ったあらゆる物語のこと。】
この〈超越〉は、しかし、自由自在にやりこなせるものではない。突然、任意の時間に、日常生活から絶海の孤島に舞い降り、空に向かって一人叫んだとしても、それは超越ではない。むしろ、超越とは、不断の努力、不断の試行錯誤、不断の悪戦苦闘そのものの中に潜んでいる。日々の地味な反復作業の重要性に覚醒しつつある者とそうでない者との間には深い溝がある。僕はその溝の周辺を行きつ戻りつしている超越志望者だ。このように自分自身については、いかようにも規定し、いかようにも名付けることができる。問題は、自らを名付けることによって、何を得るかだ。今、僕が語ろうとしているのは、比喩的に言えば、画用紙の上に太陽を赤や黄色で描くような次元の話ではない。僕が自らに問いかけたいのは、黒い太陽を描いて、しかもそこに心の不安や絶望を表現しようとするのではなく、逆に、一つの未来や永遠に繋がるような自分の世界を意欲的に創造できないかという問いだ。答えがではなく、自分に対する〈問いの発見〉こそが、自分の世界を変えるとすれば、大いに問わねばならない。気紛れに一人旅をする倉庫係は本当に自由なのか。自由を手にするとは、何を所有することなのか。最大多数の最大幸福を夢想している谷川映画製作所の俳優山際は自分自身の幸福さえ手に入れられないのではないのか。すべての仮面を剥ぎ取られて無名の存在として荒野に捨てられたとしたら、僕はもう人間という分類にも属さなくなるのではないか。トイレの鏡の前から離れてモリベエの跨っている脚立の側を歩きながら、僕は、自分が既に所有しているものと今後所有したいと思っているもののリストを作成しなければならないと思った。倉庫係は自由でなかった。カロリンを抱いても、そのロボットは畢竟BWM会社の備品だった。どこまで長距離バスに乗り続けても、その手には何も残らないだろう。俳優山際には限界があった。脚本や谷監の指示のないスクリーンの外ではその本領を発揮することは難しいだろう。何者でもない存在としての僕は、同じように何者でもない存在としての誰かが僕を名付けてくれるまでは、薄黄色の砂塵を浴びて紫色の影を揺らめかせ青い雷鳴を聞き続けるしかないだろう。しかし、誰かが僕を「triple soldier」と名付けたら、僕の物語は完結しないまま袋小路に入ってしまい完結してしまいそうな予感がした。・・・
少年の頃だった。一枚の白い紙の中央に絵の具を数色搾り出し、それを二つ折りにし、中の絵の具の塊が延び広がるように手で押し広げた。二つ折りした紙を元の大きさに広げると、そこには何の意味もない模様が偶然に出来上がっていた。紙を広げるまでは、そこに美しい模様が生まれているのか、奇妙なものが蟠っているのか、不快な色と形しか現れていないのか分からないところが面白かった。一つの賭けのような遊びだった。(賭けは瞬間瞬間に新しいゲームだ。過去の勝ち負けとは関係を持たない純然たる一回性のゲームだ。僕もその惑溺者の一人だろうか。)僕は今、絵の具の代わりに言葉を用いて、賭け事のような表現遊びをしているのかもしれない。まだ西空の夕焼けが美しい。少年が家に帰るのには早過ぎる。しかし、僕は、この小道に今入り込むことは止める。・・・
僕は、バスムービーの電源を切った。
毎日毎日、僕は、アドリブと言う名の〈一回性のゲーム〉に熱を入れていた。
某月某日の日記を、僕はダダイストのように捲り当て、読んだ。「自分の中に堅固な自己像があると仮定して、それが自分の中の何かを規定するのではない。自分を取り巻く相関関係の深層は、単純な表層とは違っていつも混沌としている。そこにおける不規則な動態を利己主義で解き明かすのが賢明か、理ではなく情念の糸で解きほぐす方が現実的な解釈に繋がるか、それとも、第3の分析手法を編み出す必要が生じるか、いずれにしても、僕は一陣の風に弄ばれるように、自分を囲繞する一つの社会関係に影響を受けざるを得ないということを思い知った。僕は絶海の孤島に一人でいるのではない。つくづくそう思った」対象が仕事であろうと、配偶者であろうと、否、何事であろうと、多分最善の選択をすることが重要ではなく、日和見せずに、留保せずに、直感的に選択し、選択した自分を最大限に尊重するということが、重要なのだろう。人生は計算ではない。少なくとも、個々の局面での細心の計算の積み重ねが、人生の総体になるのではない。掴みどころのない、茫漠たる、しかし、何となく暖かい光のような予感が、一度きりの人生の形を決定づける。僕は、その〈何となく暖かい光のような予感〉をカロリンやバビ子や千紗子の瞳の中に求めていたのだろうか。どうして僕は、それを自分の瞳の中に探そうとしなかったのだろうか。過去の日記は読み直すことができる。しかし、時を遡ったり、失ったものを取り戻したりすることはできない。否、時を遡ったり、失ったものを取り戻したりすることはできる。それは、僕が未来に向かって走るバスに乗り込んだ時にのみ可能になるに違いない。過ぎ去った時や失ったものは、未来にしかない。
その形のない、掴みどころのない「未来」ではなく、卑近な「現実」の単なる一片が、突然、僕を左右上下の壁に打ち付け、僕をもぬけの殻にした。僕は高速移動していた。僕はバスムービーの電源を切ったはずだった。なのに、窓外の景色は歪んだまま後方に飛び去り、僕の右側の窓際の席では、10代の花のような少女二人が談笑していた。その話し振りは、まさに傍若無人だった。僕は非現実のバスムービーの中に迷い込んでしまったのだろうか。僕は首を右に向けて、中央通路を間において、すぐ隣の女の子の口元を見た。産毛が生えていた。黒いミニスカートを身に纏っていたが、露わな太腿からは素足の香りが漂っていた。肩より長い髪だったが、耳の上で一本細い鉢巻きのように編んでいた。確かに、僕は存在し、少女たちも存在し、バスも疾走していた。現実だった。と同時に、僕は、自分が「世界の果てにある断崖の上にいる髭を生やした男」になっているような錯覚に囚われてしまった。誰にも存在を認められない次元にいるような感覚を帯びた僕は、周囲を見回した。いつか誰かの詩集の中で見付けた「永遠の時を刻む青い海のきらめき」などは、しかし、どこにもなかった。聞こえて来るものは、色気づいた少女たちの笑い声と雑談だけだった。
黒いミニスカートとピンクの上着の女の子が、「・・・何もしてこない時は、自分の方から仕掛けちゃうの」と言った。僕はどこにいるのだろう。
「え! いずみちゃんから仕掛けるの?」とスマホをひっきりなしに左手でいじっている女の子が応じた。
「うん。そしたら、あとは、もうケンタ君が勢いづいてくるから、・・・。指を入れて来たりするの。(気持ちいいよ)。もう、そうなったら、男の子の方が力強いから、止められないよ。・・・」
「やだあ、・・・。それに、ケンタ君、ラグビーで鍛えてるしね」
「ふふ。ゆっちゃんは、きょう、カンタ君と公園で何すんの?」
「多分、寒い所で、ずっと喋るだけだと思う。(触ってもらえないよ)。」
「ゆっちゃんも、自分から仕掛けなよ。ブルマなんかきつく穿いてたら、男の子は入れにくいから、途中で、止めちゃうよ。寒くても、ブルマなんか脱いでおいたほうがいいよ」
「えー!寒いな。でも、そうかも、そうだよね。じゃ、頑張ってみるか」
「うん、頑張って」
これらの会話はすべて白昼の、中程度に混雑したバスの中で行われたものだった。ただし、会話の中の括弧の中については、僕が老婆心ながらウブな読者諸賢のために補ったものだ。僕は、座席に深く身を沈めながら、暫時瞑目した。これは現実か。これが現実なのか。もし現実だとしたら、僕が創り出そうとしている物語など木端微塵になってしまう。なぜなら、現実の方が面白いからだ。現実より面白くない物語など創り出す必要がない。僕はもう一度右隣の女の子の口元を盗み見た。上唇の上に生えている産毛には、いかにも幼さが残っていた。匂いや唾液や体液にまみれた恋は少年少女にこそ任せたほうがよいかもしれない。大人の恋こそプラトニックな色彩を帯びるのではないか。僕はそう心の中で思った。現実にしろ、非現実にしろ、窓の外で斜めに降っていたのは、細かい雪だった。いつから降り始めたのかは分からないが、非情の時が決して止まらずに動いていることだけは確かだった。物語を創り出すためには、その〈時〉の動きに自分の印を刻み付けねばならない、そして、そのように創り出された物語こそ自分の現実となる、僕は自分にそう言い聞かせた。
そう、「自分の現実」を、誰もが生きようと試みる。きょう、僕はバスの中で不思議な感覚に囚われた。ほとんど毎日、知的障害者や身障者と擦れ違っているせいか、僕は誰でも何らかの障害を抱えているのではないかと思うようになった。きょう、通勤時、僕は、自分の視野に入る誰もが障害者に見えて仕方がなかったのだ。ほとんどの人間が肩を左右に揺らして跛行しているように見えた。ほとんどの人間の横顔が鬱色に塗り込められているように見えた。誰もが自分だけの、或る意味で自足の世界に、同時に、或る意味で冷淡な他者侮蔑の世界に引き籠っているようだった。「自分の現実」が「自分たちの現実」になる時、人は、豊穣と歓喜の世界に移行していけるのではないか。いずれにしても、生の世界を象徴するものは、糾える縄だ。僕はバスの中で、祈った。何を祈ったのか。僕はきょうもバスの中で、顔馴染みの障害者たちに出会った。その女の子は、その青年よりも数駅前のSバス停で下車した。その女の子、仮に、名をマバラと呼ぶ。その青年、仮に、名をマバルと呼ぶ。マバラにはいつも母親が付き添っていた。マバラは下車する際、必ず車中でマバルに手振りだけで別れの挨拶をし、下車後、またプラットフォームでも彼女は車中のマバルに対して笑いながら手を振った。それに対して、マバルも手を振り、満面の笑顔で応えた。音声による挨拶は一切なかった。毎日全く同じことの繰り返しだった。それを僕はいつも左側の席に座って見ていた。なぜか見ずにはいられなかった。きょう、事件が起きた。マバルは僕と同じくいつも大曽根駅で下車していた。なのに、きょうは、マバラがS駅で下車しようとすると、マバルも同じように立ち上がり、下車しようとした。僕は瞠目した。足元を見ると、マバルのスニーカーは、鮮やかな草色の線が入った新しいものだった。彼の顔を見ると、いつもと違う。何か大人びた雰囲気を漂わせてマバラの後に続いて下車した。どこへ行くのだろう。分からない。僕は物語を創ることにした。・・・きょうはマバラの誕生日会だ。マバルはマバラの母から夕食に招待されたのだ。彼らはこれから豊穣と歓喜の世界に入っていくのだ。悲しみはどこからでも滲み出て来る。それでも、個々の宴というものには、個々の意味を帯びさせねばならない。宴の後にはいずれ暗夜が来る。それでも、否、それゆえにこそ、人は宴の輪に加わらねばならない。彼らは今宵、たとえ声が出ない障害があるとしても、腹を抱えて笑うだろう。否、脚本家の僕は、ト書きを用いて彼らに必ず笑わせる。そして、そこで幕を下ろす。物語というものは、どんな条件下においても、「希望で終わる」という始まりで終わらねばならない。・・・
一夜明ければ、奈落の底へ転落する、それが万人共通の運命だ。それ故に、物語というものは、「希望で終わるという始まり」で終わらねばならない。(詩歌は、悲しみの極みの絶唱で終わってもよいが。一例。有馬皇子の歌、「家に有れば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」。)そうでなければ、個々の人生において多くの時間を費やして物語を積極的に読み切るという行為自体が徒労に終わる。その一方で、実人生においては、希望の糸を用いて自分の物語を紡ぎ出すという営為には様々な困難が必ず伴う。様々な〈外的な〉条件が僕らの運命を縛るからだ。本当のような嘘の話を一つだけしよう。僕はバスムービーの電源を入れた。短い映像が流れた。心に沁みるものだったので、つい僕は再生ボタンを押した。・・・ある初老の紳士が左足先の痺れを気に病んで近くの市民病院の整形外科で診察を受けた。その検査結果を一週間後に聞きに行った。紳士から見れば自分の息子のように若い整形外科医は、MRIの画像を示しながら、「ヘルニアですね。ほんの少しここが出っ張っていますね。痛みがなければ、このまま様子を見てください。痛みが出るようになったら、お薬を出しますので飲んで下さい」と言った。初老の紳士は、不安の中で、吉凶両方の結果を考えていたので、「入院、手術」という最悪の事態だけは少なくとも逃れ得たことを喜んだ。「これは、祝わねばならない。寿がねばならない」そう心の中で呟くと、彼は、早速、駅前の酒屋でシャンパンを購入することにした。「希望などは、どこにもない」彼は市の外れを流れる川辺を歩きながら、その川面の波が描く刻々と変化する文様を見た。「と同時に、希望などは、どこにでもある。希望などは、人が、どこか感じた場所で、何か感じた事象に、自分だけが得心するように塗りたくるものだ。無いと言えば無い。有ると言えば、有る。希望に限らない。人生の多くのものは、人が、無から在らしめるものだ」彼の想念が画面に流れた。・・・「だとするならば、」と僕は画面を見ながら独白した。「この在らしめるという不断の営為のみが、僕らの輝きでなければならない」僕は、画面の中で、自分がその初老の紳士の傍へ歩み寄っているシーンを見ていた。僕が接近すると、彼は静かな微笑を見せた。映像が途切れた。何も映っていない灰色の画面を見ながら、僕は再び独白した。家族、友人、知人、あるいは、身近な他人、そういう人たちの自分に対する何気ない笑顔の中に、自分に必要な一つの微かな、しかも永遠性を帯びた希望を見出す、これが娑婆で生きるということだ、と。
その娑婆には、しかし、 当然のことながら、足を踏み入れたくない世界もある。僕は、或る時、自分に対して敵意を抱く者が存在することを知った。その敵意は押し黙った口から突然鉄砲水のように吐き出された。その曲者を仮にZと呼ぼう。その場所は、谷川映画製作所の事務所内だった。Zは30代の女性で、知的障碍者だった。正直に告白すれば、僕が初めてZの顔を見た時、心の奥でおぞましさと不快を感じた。人並の顔ではなかった。差別者との批判を受けるかもしれないが、僕はZを人としてにこやかに受け入れることができない。谷川映画製作所は、公的機関からの依頼でZを期限付きで採用したのだが、その初対面の挨拶の後での個々の作業現場での具体的な日常の仕事の説明の際に、Zが説明役の僕のやり方を槍玉に挙げて、谷監や公的機関の職員に対して、「この人とは組みたくない」と声を荒げた。反感の対象になった僕は黙っていた。個々の作業現場に引きずり回された彼女は多分僕に扱き使われると思ったのだろう。静かな朝だった。この誰も予期していなかった爆発的反応には、僕も、周りの人間も皆呆然とした。僕は借り衣装のように身に着けていた常識や正義感や慈悲心などが蝉の抜け殻のように剥落していくのを感じた。僕の素肌に棘のように刺さった敵意は膿んでいった。そして、その棘はまるで病原菌のようになって心の奥に潜入し、毒を撒き散らし、増殖を繰り返すようになった。その頃も、1年以上経過した今も、Zは僕以外の社員や上司には少しも反感を示さない。むしろ従順な態度を見せている。こういうZの存在は、段々と僕の心の奥の小さな鏡を曇らせる汚点のように染み付くようになった。僕は通常の自分よりもたとえ劣等になるとしても、この汚点に対する嫌悪感を正当化せずにはいられなかった。目には蔑視や非難の色を残したまま、僕はZに対して心と口を完全に閉じた。職場での席は隣同士だったが、僕らはいつか挨拶を交わすこともなくなった。誰をも差別せずに生きる、こんなことは到底自分には出来そうにもない、と僕は初めて言わば自分の皮膚感覚の層で思い知った。そして、大事なことは、こういう自分の中の冷酷な世界には僕も進んでは足を踏み入れたくはないのだが(精神衛生上芳しくないので)、娑婆での現実の関係性の中では、ついついそうならざるを得ないということだ。気に食わない現実から逃避するために、僕はバスムービーの電源を切るボタンを探し始めた。気に食わない現実? 確かに、そうだ。そして、その現実を利己的に取捨選択できるとは何と贅沢な、かつ、虚ろな行為だろう。何と単純明快な、浅はかな心の動きだろう。こういう自己中心的な、不寛容で愛のないシーンは、しかし、自分の人生から一掃することはできない。僕は寒い見通しの中で、そう思わざるを得なかった。
僕はどこかに横になった。仰向けの姿勢から体の右側を下にする横向きの姿勢になった。しばらくすると、心臓の辺りが膨張するような感覚に捕らえられた。息苦しさも若干生じた。僕は小さなパニックに陥り、死の不安と恐怖に縛られそうになった。死とは、断裂だ。きょうからの、家族からの、希望からの、思い出からの、そして、自分自身からの断裂だ。すべてが未解決の状態に残されたまま、僕一人がそこから消え去るのだ。希望がどこにあると言ったか。確かにある場合もある。ない場合もある。しかし、今は断裂の危機に臨んでいる。絶望などという悠長な間延びもない。心臓の一つの鼓動とその次の鼓動との間には激しい切迫した不安がわななくばかりだ。発作だ。痙攣だ。断末魔だ。僕はただひたすら自分の腹式呼吸だけに専念しようとした。死も不安も苦痛もすべては外部からやってくる。僕はただひたすら自分の内部で自分の力で行っている腹式呼吸だけに依拠することにした。笑って死ぬことなどは不可能だ。悶えながら死なねばならない。僕がその時垣間見たものは、自分の受け容れ難い死の予告だった、朝の来ない冬の夜にも似たような。屋根の下で、僕はわなないていた。屋根の上では、満月が皓皓と輝いていた。
【バスムービー その4に続く】
最新の画像もっと見る
最近の「物語3」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事