岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

バスムービー 2

Bus Movie (その2)


僕は時の歩みを、与えられた関係性を、意味の繋がりのある行間を敢えて超えねばならなかった。撃ち落とされるまでは鋭く谷底の獲物を狙う鷹が乱気流に幾度も体勢を立て直しながら飛翔するイメージが、僕の内部のスクリーンに映った。突然始まる焦慮もあれば、衝動もある。バスに乗り込みながら訳の分からないことを叫んでいたのは僕だったかもしれない。誰にも相手にされない科白はすべて異常だろうか。僕は耳を澄ます必要があった。耳を澄ます必要がある。自分の科白を聴くのも、自分の科白を問うのも、最後は自分だけだ。僕は目を閉じた。天地の間の一掴みの塵となったら二度と味わえない自由を、僕は貪るだけだ。浅はかではある。否、浅はかでもある、と言い直すべきだ。ヒントは、いつもこのような思考の言い直し、修正の狭間に隠れているものだ。ノートの上の消しゴムの滓の間からしか湧き出て来ない道筋がある。僕の呟きが耳に流れた。僕は目を開けた。波のまにまに漂流している気分だった。流れる時の歩みは心理の波動を絶え間なく受けざるを得ない。心の内部の時は一定速度で流れるとは限らない。水玉が蓮の葉に包まれるように、誰もが自分の時に包まれている。不規則に流れる時の歩みに身を委ねつつも、人は、ある時、自分の意志で蓮の葉を傾け、自分が生きるべき「時」を前面に押し出す。鳴り響く運命の鐘は歓喜をもたらすか、それとも、自らの弔鐘となるか。バビ子との関係作りという困難な仕事の前で立ち往生している僕は、往々にして痙攣的な反応に逃避せざるを得なかった。不意に行き先を決めずに旅に出かけることがあった。夜の街頭で、易者が「あなたの人生の十分の七は、破損したタイルで敷き詰められている」と言えば、その掴みどころのない暗喩に誰もが掴まれる。僕は笑う。笑いながらも、無意味な言葉の迷路に引きずり込まれていく。僕は眠っているのだろうか。意識的に周囲を見回した時から、人は誰も自分が与えられた関係性の中に理由もなく投げ込まれているのに気付く。変えられない運命が出発点にあった。蛙のように周囲の仲間に合わせて鳴くだけでは狭い井戸からは出られない。出ても、運が良くて、同じような井戸に移動するだけだろう。出れば、砂漠のようなより悪い状況が大きな口を開けて待っている。荒々しい現実に向かうには柔らか過ぎる心をもって、人は、それでも、自分が生きるべき「関係性」を探し出す。未知の土地に吹く風は優しいか、それとも、冷酷か。階段での僕の突然の誘いに対してバビ子が拒絶しなかったのは、その時にはまだ僕を即座に忌避するほどの関係性がなかったからだろう。自分が生きるべき「物語」は常に書き継がれている。自ら消す部分もある。砂に埋もれた記憶の底から発掘する場面もある。一本の糸で繋ぎ合せて円環にするか、それとも、断裂したままに放置するか。バビ子に限らず、他人という者は僕の目からは自己喪失感のない書き手に見える。間抜けは間抜けなりに、賢者は賢者なりに、自己像と重なった物語を紡ぎ出す。「時」と「関係性」と「物語」とが一つに重なり合わない僕は、それらを超えていくところにしか自分の像を結び合わせそうになかった。しかし、どこへ超えていくのか。やはり、僕は陽炎のようなtriple soldierなのか。自己像が不規則に二重三重に揺らめくだけの透明な炎のような存在なのか。背中の方で「ガチャ、ガチャ」という金属音がしたので前方の鏡の中を覗くと、モリベエが左肩にアルミ製の脚立を担いで僕の目の前の僕の後方を右から左へ横切って行った。切れた蛍光管と脚立を地下室へ片付けに行くのだろう。口の中に溜まった唾を洗面台に吐きながら、僕は自分が今居る〈この唯一の場所〉に対して微かな愛おしさを感じた。「ここにいる限りはここがすべてなのだ」それが僕のアドリブだった。

物語が停滞したまま、朝は繰り返し朝になり、夜は繰り返し夜になった。そして、僕も繰り返し僕になるしかなかった。ある日に似たある日、バビ子に似たバビ子がいつものように仏頂面で出勤してきた。いつものように茶色の古びた靴を履いていた。よく見ると、地味で、洒落っ気のない、痩せた暗い女性だった。なぜこんな魅力のない女性を盗み見ているのかと自分で自分に問いつつ見ている瞬間があった。ある午後に似たある午後、バビ子が僕の席に近寄ってきて、「済みません、帰りにこの郵便物をポストに入れてくださいますか?」と頼んできた。封筒の左上部には50円切手が5、6枚貼付してあった。慌てて貼ったのか、縦一列の切手が反り繰り返っていて、剥がれそうだった。受け取りながら、僕がその剥がれそうな切手を親指で押さえ付けようとしたら、彼女の方も同じように親指で押さえ付けようとした。その時、封筒の裏側では、僕らの人差し指と人差し指が濃密に接触した。100の1秒程の短い時間だったが、彼女の細い人差し指は僕の太い人差し指で凌辱されたいような動きをした。かなり力強いアクセントを帯びた孤独な叫びが、二人を包む激烈な無音の世界で響き合ったように感じたのは僕だけだっただろうか。「分かりました」という言葉を自分の口から出しつつ、僕は心の中では、「意外に彼女はベッドでも力強い反応を示すかもしれない」と下卑た想像を行った。抑圧された性的欲望は、全く関係のない所で、全く関係のない外形を装いながらもどこか奇異な印象を撒き散らして出現するものだ。何の根拠もないが、その時、封筒の裏側では、彼女の方でも僕と同じように性的な飢餓感に基づく痙攣的反応を制御しようとしているような気がした。「愛し合ってからでは決して生まれない絶望的に悲しい求愛の印か」そう僕は自分に言った。愛し合うようになることで、相手だけではなく自分に対しても傲慢になり、自ら失ってしまう純粋でひたむきな心の形もある。赤いポストの、大型郵便物用の差し入れ口に手を入れて確実に投函したことを確認しながら、僕は暫く、見えない風が見えるような気分に陥っていた。どこからともなく耳底に響いてきたのは、モーツアルトのヴァイオリンコンチェルト5番だった。

独特の、強弱二拍子のリズムを靴音で刻みながら出勤してきた者がバビ子だということは、首を右へ向けて目で確認しなくても僕にはすぐ分かった。事務所内にいた夜間管理人は退出する前に管理記録を付けながら、僕は仕事始めの儀式としてコーヒーを飲みながら、それぞれ自席で彼女に対して声だけの挨拶を送った。バビ子から有声の挨拶は返ってこなかった。靴音だけが入口から更衣室へと通り過ぎて行った。今朝は虫の居所が悪いのか。僕に劣らず気分屋なのか。僕はバビ子の方を振り向かずに、コーヒーの香りだけを鼻先で追いながら考えた。バビ子からの挨拶で埋まるはずだった沈黙の時間が、透明な直方体となって僕の目の前を右から左へ数秒間流れ動いた。このように、人生においては、真相が解き明かされないまま過ぎ去っても自分の利害関係に影響を及ぼさない泡沫シーンは多い。あるいは、自分の利害関係に影響を及ぼさない泡沫シーンだと見切った場合、人は徒労を避け、その真相究明を手控える。僕の背中側をバビ子は靴音を響かせながら歩いて行った。往く者は往け、たとえ嵐が吹きすさぼうとも。往く者は往け、それが運命からの召喚ならば。僕は密かに心の中で歌った。引き続きドアが開き、谷監とモリベエが一緒に入ってきた。「その役は、日の出信金の本物の窓口娘に出演依頼するほうがいいんじゃないの」谷監の軽い声は小さな赤い毬のように弾んでいた。その後方で閉まりかけたドアが完全に閉まる前に、セシルカットのモナミが、体を斜めにして、狭い隙間から素早く入り込んできた、何の悩みもないかのように朝から目をくりくりさせ、桃色の声で「おはようございます」と挨拶しながら。僕はコーヒーカップに口を付けたまま首を右に捻り、モナミから発散している朝日に輝く桃の実のような印象を透かさず味わった。女は陰陽の陰だ。なのに、この華やかな陰は一体どこから来るのだろう。モナミが僕の背中側を通り過ぎた時、淡黄色のトップコートから微かに風が立った。その小さな旋風を鼻に受けた僕は密かに匂いを嗅いだ。僕の嗅覚器官は、しかし、何の刺激も感受しなかった。男は異性の性フェロモンを視覚器官で感受するのだろうか。短い溜め息をついた後、僕は自席で自分の予定表を確認していた。厨房の東側の更衣室で通勤服から仕事着に着替え終わると、バビ子は社内用書類の印刷係の前任者として、その後任者になる僕に事務引継の件で話し掛けてきた。バビ子の転勤が正式に決まったことによる予定表通りの展開だった。
「山際さん、今から説明していいですか?」
「はい。お願いします」
僕らは事務所の西側の窓際に行った。印刷機とレターケースの間に挟まれるようにして立つと、僕らは、皆がいる部屋の中にいたにもかかわらず、まるで二人だけの世界にいるような錯覚に半ば陥っていくようだった。少なくとも、僕はそう感じた。バビ子が僕の方に顔を向けると、僕は大胆にバビ子の左目だけを奪い取るように至近距離で見詰めた。もう会えなくなるのだ。会者定離とはこのことなのか。しかし、こんな紋切り型の悟りに逢着することが、たとえその真実がどんなに奥深いものであろうとも、この僕の燃えるような、一回きりの情熱の迸出に相応しいことなのか。人生は長くも短くもない。問題は、まばたきを一回するだけの永遠をいかに生きるかだ。あるいは、永遠にも値するような一瞬をいかに生きるかだ。大悟も鏡に映せば大愚になる。どんなに奥深い真実であろうとも、それを人の目を借りて見たり、人の耳を借りて聞いたりしていては、空しい。僕はバビ子の左目の真ん中の小さな黒いわななきに永遠を探し始めた。誰か他人の羅針盤に依拠して、知ったり、感じたり、後悔したりするような次元に停留するだけではなく、更に一歩を自分の足で踏み出し、自らの息を細々と繋いで生き難いシーンを生きることに賭けてみることが僕には不可欠だった。
「ここの2列の引き出しの書類が少なくなってきたら、印刷して補充してください。印刷用紙はこれを使ってください。念のため実際に印刷機を動かして、一度何か印刷してみますね」そう言うと、バビ子は北側の壁際に高く積んであった印刷用紙の一番上の箱の封を切った。箱の中には、A4サイズの印刷用紙が5包みきっちりと詰め込まれていた。その内の一包みをバビ子は背伸びしながら箱から引き出そうと試みた。細い腕だった。胸も貧弱で、ほとんど盛り上がっていなかった。小さな足だった。顔を少し歪めて力んでいた。固くて引き出せなかった。接近して僕は手を貸すことにした。故意か偶然か、自分でも分からなかったが、僕の右手がバビ子の右手に触れた。バビ子は無言だった。一緒に力を入れて、包み紙を一つだけ箱から引っ張り出そうとした。甘い共同作業だった。山里の土手から春先に透明な湧水が流れ出るように、僕の心から小さな快感が滲み出た。僕は想像の中で、バビ子を抱擁している気分の中に浸ろうとした。印刷機に印刷用紙をセットすると、バビ子は、僕の心の中で抱かれているとは知らずに、抱いている僕に淡々と印刷手順を説明し始めた。

2012年3月31日。バビ子の最後の勤務日だった。僕は前の晩に、掌の中に入るほどの小さな色見本の中の薄黄色の紙を使用して、「名残惜しいです。落ち着かれたら、そして、差し障りがなければ、メールアドレスを教えてくださいませんか」と書き、その下に僕の連絡先を付け加えた。何時間もとつおいつ考えた結果の、それにもかかわらず最悪の一つ手前ぐらいの出来でしかないメッセージだった。何事にも最終期限がある。眠くなった僕は、眠る前にその小さな紙片を黒ズボンの右ポケットに入れた。翌31日は、出勤途中も、出勤してからも、僕はその紙片をバビ子に手渡す機会の到来を待った。僕の視野の中にバビ子が入ってくると、僕はその度に彼女を盗み見た。どの瞬間もバビ子は一心不乱に自分の仕事を処理していた。仕事以外には何の関心もないような真剣で厳しい表情だった。付け入る隙がなかった。仕事の一環として始まったこととはいえ、段々と恋の意識に縁取られてきた誘惑に心を奪われていた僕のヴォルテージは漸減するばかりだった。見る見る暗雲が立ち込め、心の中に雨が降り込んできた。壁面の時計の針は、しかし、展望が開けそうもない僕の計画や手詰まり感とは関係なく、いつの間にか静かにまっすぐに正午を告げていた。薄黄色の紙片をポケットの中の指で確認しながら外に出た。コンビニで買ったパンを齧りながら、僕は雨の中を西に行ったり、東に行ったりした。落ち着かぬ心の内も外も雨だった。近くの建物のエレヴェータに乗って上に行ったり下に行ったりした。寒い休憩時間が終わった。事務所でなすべきことは多かった。仕事をしている振りは出来たが、身が入らなかった。気付くと、僕はバビ子からの事務引継の要点を自分のノートに整理していた。段々と諦念の底に沈み込んで行くしかなかった。事務机から離れ、倉庫に行って、気分を紛らせることにした。映画「気紛れ男の長距離バス旅行」の中の気紛れ男としては、僕は、倉庫係の仕事を休んで「バスムービー」付きバス旅行をすることによって日々の鬱々たる気を紛らせようとした。谷川映画製作所の一社員としては、僕は、「バスムービー」の仕事を店晒しにしたまま倉庫へ逃げ隠れることによって暗鬱な心を紛らせようとした。逃げ出した虚構の倉庫には厳しい労働からの抑圧感が充満していた。逃げ隠れた現実の倉庫には甘美な夢想への焦燥感が燃え立っていた。そして、もし僕がトリプルソルジャーとして闘うとするならば、あともう一つのシーンの出現を待ってもよいと思った。思い通りに進まない不自由の中で、あくまでも柔軟な発想を求めようとして、僕は、倉庫のコンクリートの床の上で膝の屈伸運動を始めた。と、突然、鉄扉が開き、バビ子が入ってきた。「チャンスだ」僕の心の叫びが僕の耳に響いた。

人生には謎が多い。長い間、そう思っていた。少なくとも、センテンスの形に独自の斧を振るう面白みを知る前まではそう思っていた。挨拶文例集通りの挨拶をしているうちに自分の一回きりの人生が終わってしまうなんてことは断じて許せない。人生には謎が多いのではなく、一つの謎の中には人生を左右する賭けが隠されているのだ。バビ子がカチャリと解錠してから倉庫内に身体を滑り込ませるまでの短い時間に、僕の頭の中では次のような一つのシーンが展開し、一つの決意が固まった。3月31日の数日前の日の出来事だった。谷監が靴音も立てずに近づくと、僕の斜め上から、藪から棒に「山際君、バビ子から合羽のことで相談があったかい?」と尋ねて来た。僕は「合羽?バビ子から?」とまるで監督にではなく自分自身に問うように言った。バビ子は無論僕より若かったが、僕より勤務年数は長く、なぜか谷川映画製作所の会計を担当していた。僕が「いいえ、初耳です」と答えると、谷監は「業者から合羽の見積もりの電話があったんだけど、サイズを教えてくれって言うんだよ。誰が使う合羽をバビ子は買う積もりなんだろう?」と言った。降って湧いたような、しかし、僕には思い当たる節もないわけではない話だった。僕が「気紛れ男のバス旅行」の撮影の或るシーンで自前の合羽を使っていたことを相手役のバビ子は当然知っていた。会計担当としてのバビ子の僕に対する〈特別の〉配慮が、この合羽見積もり事件の背景にあったとするならば、僕とバビ子との間には何らかの私的な紐帯が生まれる可能性があると判断せざるをえない。〈特別の〉ではない〈普通の〉配慮だったとするならば、バビ子の私情を交えぬ冷徹な勤務態度に脱帽せざるを得ない。いずれにせよ、僕はこの謎の存在を僕の連続自己改造作戦遂行にとってのプラス材料とすることに決めた。勘違いであったとしても、この判断はもう覆さない。後で勘違いだったと判明しても、この判断は踏み越えて行かねばならない。

突然、鉄扉が開き、バビ子が入ってきた。「チャンスだ」僕の心の叫びが僕の耳に響いた。壁際で作業しているバビ子の様子をそれとなく盗み見ると、バビ子はまったく僕の存在を気にしていないようだった。まるで指令通りに任務を遂行するだけのロボットのようだった。心の中の相反する感情が、極めて短い時間の間に、僕の心の中で激しく鬩ぎ合った。倉庫の中のバビ子の背中に対して僕の口から実際に飛び出た科白は、「きょうも残業ですか?」だった。瞬きをするほどの短い時間とはいえ内的な葛藤の激烈な渦に飲み込まれて、僕の顔面は青ざめていただろうか。僕は船酔い気分に包まれていた。バビ子は上半身を少しくねらせて考える身振りを見せた後、「ええ、多分」と答えた。開港の兆候が微塵もない。僕はやむなく、「もし良かったら、今夜また何か美味しい物を食べに行かない?」という誘いの科白を飲み込んだ。僕は舳先を逆方向に向け、心を閉じざるを得なかった。バビ子は倉庫から出て行った。外側からする施錠の音の響き、それは同時に僕の心にも施錠しているようだった。

いよいよ3月31日の退社の時刻になった。モリベエと打ち合わせをしている谷監に挨拶をして、踵を返して帰ろうとした時、僕の目の前にバビ子が立っていた。「今度、京都へ転勤することになりました。ご上洛の節は、是非お立ち寄りください」そう言うと、バビ子は軽く会釈した。それに対し、僕は口では「お世話になりました。失礼します」とだけ言った。目では「さようなら。いつかまた」と挨拶した。この至って淡白な挨拶の底にどんな僕の情熱の火が燻っていたか、少なくともバビ子は知らなかった。

淀みつつ流動する曖昧な時間、あるいは、曖昧に流動する淀んだ時間。こういう時間が人生の大半だ。自分の物語はいつ始まるのか。いつ始まりを宣言し、いつ終わりを宣言するのか。多分、物語は終わりから、それも悲惨な終わりから考えていくべきものだろう。

4月24日の夜だった。僕は会社の非常電話網を使ってバビ子に電話した。もし躊躇に躊躇を重ね、電話することを先に延ばしたら、僕の自己像は死ぬまでモヤモヤのままで終わる。自分が誰なのか、自分に示すことができなくなる。これが電話をしないことを選ばない理由だった。電話による誘惑に踏み切らせた動因は、僕の内部に湧き出ていた幸福予感だった。賭けの温床とも言うべき幸福予感だった。賽のように自分を投げ出す前に、僕は連続自己改造作戦ノートに「物語の悲惨な結末」からも導き出せる結論を書き出した。それは、「拒絶されたら後味は悪いが、次のステップ台に確実に乗れる!」だった。決意不足や成り行き任せでは、僕は僕の顔を失くすことになる。自己像を構築できなくなる。僕は成り行き任せを否定し、雄の顔に変貌することを選んだ。内的なスクリーンに映し出された「さすらう雄」のイメージを消去して、僕は、「時を先駆ける雄」のイメージを追求した。
「今晩は・・・。山際です・・・」
「あ、今晩は・・・」
「夜分に電話して済みません。今、ちょっとお話していいですか?」
「はい。いいですよ」
「転勤されたばかりでお忙しいとは思いますが、・・・」
 受話器の向こう側のバビ子は終始落ち着いていた。「ほんとに忙しくて、へろへろで、・・・。6月までは忙しいと思います」これが彼女の最終の返答だった。連続自己改造作戦ノートにシミュレートした通りにメールアドレスを聞き出そうと試みたが、「長くて複雑だから」という理由でやんわりと透かされた。吉凶の二通りのシミュレートをしておいたが、結果は、全部凶のコースを辿ることになった。しかし、「悲惨な終わり」を言わば前提にしていたので、僕の味わった落胆は軽く、逆に、心の底では「次のステップ台に乗れる」ことに対する充実感さえ盛り上がっていた。達成目標だった誘惑そのものには失敗したが、作戦としては制御範囲内での前進に終わった。間違いなく、僕は僕に接近した。躊躇に躊躇を重ねるばかりの不毛の自己像からは遠く、決定的に離れることができた。
【続く】

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