山際 うりう
2007年12月22日、土曜日、新千歳空港から道南バスに乗り込んだ僕の耳に外国語が飛び込んできた。「Je suis ・・・」フランス語か。前から2列目に座っていた男二人が話していた。僕は彼らの真後ろに座った。運転手が乗客の数をカチカチと掌の中のカウンターで数え始めた。20人だった。
空港周辺も支笏湖辺りも積雪量は少なかった。これでスキーが出来るのか。少し心配になった。美笛トンネルを越えると、雪国になった。見る者誰もが慰安されるような深くて優しい雪景色。僕の心は輝いた。窓外の平凡な雑木林が突然、光り輝く雪の結晶に包まれて見飽きない風景になったのだ。僕は目を見張った。トンネルを一つ越えるだけでこんなにも違うものなのか。野山をおおっている雪の堆積には自己嫌悪につながる角や棘がなかった。あるのは円やかさや輝きだけだった。数日前のホテルからの情報「麓で80cm」がようやく信じられるようになった。
今から思うと、どのバス停で下車すればいいのか確認せずに乗った感じだ。粉雪の舞うニセコヒラフのバス停で下車し、ホテルに「いえ、歩きですが、道順を教えてください」と電話した。ホテルは「そこからもう1回バスに乗ってください」と言った。空港からバス1本で目的地まで行けたのに、間違えて手前で降りてしまったのだ。400円程損をした。
最初の道南バスの中では若いフランス人男性2名の後ろに座った。彼らは箸でいくら弁当を食べた後、延々と喋り続けた。残念ながら話の内容は分からなかった。日本で本物の鼻母音を生で聞いたのは初めてだった。彼らは二人掛けのシートに隣り合って座らずに、中央の通路を間に挟んで左右に座っていた。
粉雪の舞うヒラフのバス停で17時5分発のバスを待っていた。舞っていたのは粉雪で、待っていたのは僕だけではなかった。青白い照明が雪景色を幻想的に見せていた。周囲にはスキーヤーやボーダーもバスを待っていた。茶系のウエアを着た少年がニセコ高原ホテル側の雪の中を転げ回っていた。全身雪だらけだ。傍の仲間の背中に雪を投げ入れたり、逆に投げつけられたりしていた。はしゃぎ回りながら、意外にも高い声を出したので、その少年をよく見ると、彼は少年ではなく、少女だった。彼女はゴーグルを額に上げた。10代らしい元気そうな顔だった。長い髪を両肩に垂らしていた。バス停の前で看板のように突っ立っていた僕はちょっと寒さを感じていたが、彼等の身体はほかほかと燃えていただろう。
アンヌプリスキー場へ行く「フリーパスポート号」に乗った。今度のバスはニセコバスだった。僕の右隣の席に英語を喋る大柄な男が、その男の前の席には日本人風の顔をした小柄な女が座った。彼等はカップルだった。よく喋った。ある時、男が自分の左人差し指を前にいる女の唇に当てた。女はその指に唇を当てたまま吸うようにした。彼等の会話は途切れたが、仕種によるコミュニケーションは続いていた。大部分の乗客は東山のプリンスホテルで下車した。ヒラフから30分程で宿舎のニセコ・ノーザンリゾート・アンヌプリに到着した。長い名前のホテルだ。ゲレンデにあるホテルと言えばいいか。ロッカールームのドアを開けると、もうそこから滑り降りることができた。その夜は滑らずに、レンタルスキーの手続きだけをした。移動だけの1日だった。
12月23日、日曜日。朝から良い天気だ。カービングスキーという名のスキーを借りた。誰でも簡単に曲がれるそうだ。スキー板へのスキー靴の装着は至って簡単で、靴のつま先を金具にガチっとはめ込むだけで踵部分まで固定されるようになっていた。まさにワンタッチだったが、手はまったく使わずに装着できた。
ゴンドラに乗った。リフト券はニセコ全山共通の3日券を購入した。13,800円。このリフト券は便利で、スキー場間を走る「フリーパスポート号」と言う名のバスなら無料で何度でも乗り降りできるということだった。僕はスキー場間の移動は全部スキーで行っていたからバスには一度も乗らなかった。ゴンドラからリフトに乗り継ぎ、アンヌプリの頂上(厳密には、そのちょっと手前)に到着した。晴れていたので青空の下に白く輝く頂上が見えた。頂上は立入禁止になっていた。標高1,300m余。風がほとんどないので、寒くはなかった。最初は滑らかに滑れなかった。段々と慣れていった。1時間半ほどで30年前の技術水準まで戻ることが出来た。
〈続く〉
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