岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

ニセコアンヌプリ紀行  p-2

 ニセコアンヌプリ、その山のスキー場の何がいいのか。その広大なスキースロープ、その雄大な周囲の風景(取り分け左右対称的な裾野を長く緩やかに伸ばした羊蹄山の有無を言わせぬ存在感)、その宿泊施設の快適さ、そしてその国際性、数え上げたらまだあるだろう。この山には大別して4箇所のスキー場がある。ニセコ東山プリンスホテル新館を背にニセコアンヌプリを見上げる位置に立っているとして、右から順に「ニセコグラン・ヒラフ花園エリア」、「ニセコグラン・ヒラフひらふエリア」、「ニセコ東山スキー場」、「ニセコアンヌプリ国際スキー場」である。羅列しても、しかし、何の意味もあるまい。固有名詞には、しかし、文と文とをつなぐ釘のような力強さがある。時々は打ち付けてみたくなる。僕はそれらの全部のコースを滑った、初級から瘤だらけの上級コースまで。瘤の連続には難儀した。膝ががくがくになり、息が切れ、密かに抱いていた自負心がボコボコの瘤だらけにされてしまった。僕の心は、それでも野性に目覚め、生きている実感を味わった。実に様々な変化に富んだコースを滑ることが出来るので、飽き性の僕でも飽きることがなかった。羊蹄山が見える時は、時間が止まり、音が消えた。何かを感じた。どうしても羊蹄山のほうに目を奪われてしまう。見ずにはいられない。何という磁力だ。夏になったら、登ってみたい。このスキー場で僕が最初から最後まで味わったのは何か。そう問われたら、それは美しい雪山に優しく包み込まれた解放感だと答えるだろう。吹雪でなくて良かった。ニセコアンヌプリの山頂付近で見た空の青と雪の白との対照、その汚れない美しさは俗世のものではなかった。もう他のスキー場では滑りたくない。そんな気持ちにさせられてしまった。1日目で僕の心はニセコアンヌプリに奪われてしまった。言葉も心も乱れるなら乱れてもいいだろう。
 一人でホテルの内部を巡航する。いや、自分の内部か。赤黒く濁った非情の時間の流れの中を、時に気ままに逆戻りしながらも、僕は「今、ここに」展開性を秘めた物語の糸口を探そうとする。鬼になるのか、自分自身になるのか、いずれにしろ辿り着かねばならない。薔薇色雰囲気の土産物の陳列棚から灰色雰囲気のコインランドリーのある地階へ。豪奢から汚物へ。日常性から夢物語へ。そして、それらの逆へ。漂うように渦巻き状の航跡を描く。ホテルの内部の長い廊下では客室の扉が次から次へと後方に去って行く。廊下から廊下へ、階から階へ幾度も僕は漂い流れる。窓外では粉雪もひらひらと行方も知らず漂っている。そうだ、誰も僕らの行き先は知らない。網代木を歌った柿本人麻呂の世界か。一度限りしか開けられない扉の前で幾度も逡巡するのは誰だ。ホテルの内部を巡航する。その気分は、確かに、どことも知らずに風のまにまに飛ばされて行く粉雪だった。いや、巡航したのは、ホテルの内部ではなく自分の内部だったか。未知の扉は開けることに意味があった。開けた者だけが味わう意味だ。1階のフロントの脇には図書室風の小部屋があった。落ち着ける空間だった。そこには仕切り席が縦に四箇所あり、各机上にはパソコンが4台あった。自由に利用できた。その図書室風の部屋の椅子に若い女がたった一人腰掛けて雑誌を読んでいた。どこから来たのか。風に吹かれて漂って来たのか。彼女は頭を上げた。京都からです。「僕も向日町から来たのです」つい口が滑ってしまった。「私はそのすぐ隣です」と彼女が答えた。小さな偶然だった。僕はすぐ修正して、「と言っても、もう何十年も前にそこから引っ越して来たんですけどね」と付け加えた。僕が一人ですかと尋ねると、彼女の細くて白い指が一番奥の仕切り席を指した。仕切り板で目には見えなかったが、僕の心のスクリーンには彼女の恋人の影が映った。今だから歌える。悔恨も雪も、溶けて流れりゃ、みな同じ。確かに、僕らはいつでも氷のように鋭いエッジの上を危ういバランスを取りながら滑っているようなものだ。軽い気持ちで溶けて流れて行くことも自分の心身を守る大事な一つの回路だろう、不治の病に侵されようと、仕事上の失敗を冒そうと。況やリゾート地での戯れにおいてをや。僕は同じ扉が続く長い廊下に立って、一つの扉を開いた。結局、僕らは部屋に飲み込まれるのだ。
 22日の夕食はバイキング形式だった。窓側の席で夜間スキーを楽しむ人々の姿を眺めながら食べた。スキーヤーが斜面でパウダースノウを高く巻き上げるようにして停止した。空からは粉雪がふわりふわりと舞っていた。斜め前のテーブルにいたカップルは若かった。女の子は小柄でほっそりしていたが、胸だけは不釣合いに大きかった。男としてはどうしてもそこに視線が回帰してしまう。窓の外側で舞い降りていたのは粉雪だったが、窓の内側で舞い上がっていたのは僕だけだっただろうか。

〈続く〉

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