一人でホテルの内部を巡航する。いや、自分の内部か。赤黒く濁った非情の時間の流れの中を、時に気ままに逆戻りしながらも、僕は「今、ここに」展開性を秘めた物語の糸口を探そうとする。鬼になるのか、自分自身になるのか、いずれにしろ辿り着かねばならない。薔薇色雰囲気の土産物の陳列棚から灰色雰囲気のコインランドリーのある地階へ。豪奢から汚物へ。日常性から夢物語へ。そして、それらの逆へ。漂うように渦巻き状の航跡を描く。ホテルの内部の長い廊下では客室の扉が次から次へと後方に去って行く。廊下から廊下へ、階から階へ幾度も僕は漂い流れる。窓外では粉雪もひらひらと行方も知らず漂っている。そうだ、誰も僕らの行き先は知らない。網代木を歌った柿本人麻呂の世界か。一度限りしか開けられない扉の前で幾度も逡巡するのは誰だ。ホテルの内部を巡航する。その気分は、確かに、どことも知らずに風のまにまに飛ばされて行く粉雪だった。いや、巡航したのは、ホテルの内部ではなく自分の内部だったか。未知の扉は開けることに意味があった。開けた者だけが味わう意味だ。1階のフロントの脇には図書室風の小部屋があった。落ち着ける空間だった。そこには仕切り席が縦に四箇所あり、各机上にはパソコンが4台あった。自由に利用できた。その図書室風の部屋の椅子に若い女がたった一人腰掛けて雑誌を読んでいた。どこから来たのか。風に吹かれて漂って来たのか。彼女は頭を上げた。京都からです。「僕も向日町から来たのです」つい口が滑ってしまった。「私はそのすぐ隣です」と彼女が答えた。小さな偶然だった。僕はすぐ修正して、「と言っても、もう何十年も前にそこから引っ越して来たんですけどね」と付け加えた。僕が一人ですかと尋ねると、彼女の細くて白い指が一番奥の仕切り席を指した。仕切り板で目には見えなかったが、僕の心のスクリーンには彼女の恋人の影が映った。今だから歌える。悔恨も雪も、溶けて流れりゃ、みな同じ。確かに、僕らはいつでも氷のように鋭いエッジの上を危ういバランスを取りながら滑っているようなものだ。軽い気持ちで溶けて流れて行くことも自分の心身を守る大事な一つの回路だろう、不治の病に侵されようと、仕事上の失敗を冒そうと。況やリゾート地での戯れにおいてをや。僕は同じ扉が続く長い廊下に立って、一つの扉を開いた。結局、僕らは部屋に飲み込まれるのだ。
22日の夕食はバイキング形式だった。窓側の席で夜間スキーを楽しむ人々の姿を眺めながら食べた。スキーヤーが斜面でパウダースノウを高く巻き上げるようにして停止した。空からは粉雪がふわりふわりと舞っていた。斜め前のテーブルにいたカップルは若かった。女の子は小柄でほっそりしていたが、胸だけは不釣合いに大きかった。男としてはどうしてもそこに視線が回帰してしまう。窓の外側で舞い降りていたのは粉雪だったが、窓の内側で舞い上がっていたのは僕だけだっただろうか。
〈続く〉
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