後悔には前向きと後ろ向きの二種類がある。次の計画への意欲付けになるものと不安や自己呪詛の渦巻きに落とし込むものと。
いつもの通り無計画の旅だった。初めは、山陰方面、出雲大社辺りに向かう積りだった。大雪のため断念した。雪深い八草峠辺りで「行く手を阻まれている」と感じ、舞鶴辺りで聞いたラジオ情報で「山陰回避」の方針が固まった。空がまだ明るい内に野営地を決めた。一泊目は、道の駅「シーサイド高浜」。大型の温浴施設があったので喜んで入った。利用客は数名だった。その後、広い休憩室の畳に座り、風呂上がりのビールも飲まずに売店で買った鯖寿司を食べ始めた。見回すと、先ほどまでマッサージ機コーナーにいた数名の客もいなくなっていた。たった一人で侘しい気持ちも味わいながら口をモグモグさせた。一人でも充実感があれば心に喜びの漲りがある。この時は、しかし、なぜか気分は沈み込むばかりで、好きな鯖寿司を頬張っていても、舌の上に残るのは味気なさばかりだった。食後は、本を読む気持ちにもなれず、他にすることもなく、すぐ寝ることにした。荷室に断熱材や毛布を敷いた上に寝袋を広げ、カバーも付け、靴下とズボンと上着を脱ぎ、首にはタオルを巻いて潜り込んだ。寝袋の中に暖かみが生まれてくると、侘しさも段々と薄れていった。眠りの始まりだった。夜の間、闇を斜字のN字のように激しく裂き破るような強風が吹き荒れ、私の軽貨物は幾度も揺れた。警報を甘く見ちまったのか。来るべきではなかったのか。時々、窓から車外の様子を見た。雪は降っていなかった。温浴施設の方の商業用と思われる幟数棹が阿鼻叫喚の形相でばたついていた。目に入ったのは暴風の非情だけだった。寝袋の中に潜り込んで夜明けを待つこと、それしか私にできることはなかった。気になっていた寝袋を湿らせるような結露の発生はなかった。
24日未明、大型の除雪車がヘッドライトで照らしながら道の駅構内の除雪作業を行っていた。有用さが誰の目にも直接映る仕事を見ていると、心の中に力強さが生まれる。朝方になると寝袋の中でも少し寒さを感じた。寝袋の中の足元の方に淀んでいた暖かみがいつの間にかなくなっているのだ。左右の足を擦り合わせるように動かしても暖かみは戻って来なかった。コンビニへ行って温かいラーメンでも食べよう。そう思って服を着、エンジンを始動させ、アクセルを踏んだが、タイヤは空回りするだけだった。タイヤの接地面周辺を見ると、氷結していた。ツルツルだった。有り合わせの小さな雪掻き道具でその氷を割る努力をした。何とか脱出できた。スタッドレスタイヤでも条件が悪いと空回りするということが分かった。些細な困難でも何とか自力で乗り越えられると、気分はいい。国道沿いのコンビニの前の駐車場の路面を見ると、高さ20センチ程の雪の畝が幾筋も乱れた湾曲線を描いていた。一瞬、緊張した。この程度の雪道を突破できなくちゃ、スタッドレスと言えるか。そんな思いで突っ込んで行った。店内で即席ラーメンを買い、湯をもらい、車内で3分待ち、私は小さな、ぬくい幸せを啜り込んだ。こんなふうに一つ一つ目前の通過点を曲がりなりにも乗り越えて行けばいいんだ。いや、乗り越えようと自分なりに努力すれば、それでいいんだ。たとえ悔いの穴の中で野垂れ死にするようなことになろうとも、それしかないんだ。そんな想念も飲み込みながら、質素な朝食を終えた。
24日の早朝、雪は降ったり止んだりだ。ラジオはまだ大雪警報を流していた。舞鶴地方は積雪40センチとも報じた。その男の声は並外れた低音で、なぜか雪の朝には似つかわしくないと感じた。私の車では国道以外の道路は安心して走れそうもなかった。大雪の回避、これが当面の明確な目標になった。ともかく、南へ南へと舵を切って行った。ナビはない。地図とコンパスを見ながら走った。南丹後町の造り酒屋がトンネルを出て2分の所にあるという看板があった。国道から右の細い道に入り、除雪された狭い空き地に駐車し、「長老」という酒を購入した。(帰宅後、開栓しようとしたが、素手では出来なかった。非常に固かった。ゴム手袋をはめ、力を込めてねじったら、ようやく開いた。)何かの縁だ。行くも逸れるも立ち寄るも、みんな何かの縁だ。それっきりで終わる縁か、後で何かに繋がる縁か、延々と続く縁か、それも分からぬ縁だ。
瀬戸中央自動車道を通っての四国入りを何となく考えてはいたが、玉野市からは入れないと気付いたのは玉野市街に入ってからだった。走行中、フェリー乗り場の看板が目に入ったので、急遽、フェリー利用に変更した。ともかく通過点があれば、目先にあるものを優先的に選択し、次に向かう。これがこの時の私の方針だった。結果的に合理的かつ経済的な経路でなかったとしても、構わない。後悔は、先にするのではなく、後でするものだ。確かめると、そこは宇野港だった。17時過ぎ、窓口で簡単な手続きをした。運よく、出航間近だった。フェリーの客室に入ると、4、5名の運転手たちが売店でうどんを注文した。私も右に倣えをした。尋ねると、売店員は「1時間ほどで高松に着きます」、「香川で売っているうどんは全部讃岐うどんだと思います」と返答した。食べた後、客室内をぶらつくと、「土佐ぶろ」という看板があった。誰でも無料で利用できる。中を覗くと、ステンレス製の長方形の湯船には湯があふれんばかりに湯煙を立てていた。脱衣所に貴重品を保管する設備がなかったので、風呂には入らなかった。客室に戻ると、大型テレビに俳優の松方弘樹の訃報が流れていた。運転手たちの多くは長椅子の上に横になって寝ていた。
高松港に着くと、地図も見ずに適当に走った。四国上陸時の走行距離は547キロだった。コンビニで店員に高松空港の近くにある道の駅への道順を尋ねた。最初の左折場所はすぐに分かったが、次の右折場所がよく分からなかった。勘を頼りに右折すると、運よく空港方面へ行く道だった。道の駅「香南楽湯」の駐車場で寝支度をすると、その夜(24日)も酒を飲まずに寝た。
三日目の25日、朝7時前には「香南楽湯」を出発し、丸亀市のうどん屋を目指した。讃岐うどんを食べることは、一つの目的だった。丸亀駅前の地下駐車場に車を止め、うろついたが、ない。何でもいざ探すとなると、なかなか見つからないものだ。半ば諦めて、駅構内のスーパーで朝飯用にパック寿司を購入。ぶら下げて駅構内を歩いていると、その一角に喫茶店があり、表のメニューを見ると、「うどんモーニング」というものがあった。破れかぶれの気分で入店。うどんを食べた後のコーヒーに違和感を覚えつつも、飲み干し、さすがにうどん県だと感心した。ぶら下げていたパック寿司は、捨てるわけにも昼まで取って置くわけにもいかないので、近くのコンビニの駐車場で食べることにした。悔いながら食った。寿司を買い急いだ。食いながら悔いた。無駄な金を使った。寿司そのものは、しかし、うまかった。
目的地はあった。コンパスを取り出し、西の道後温泉を目指した。身体の痛みがあったので、長時間運転には耐えられそうになかった。松山自動車道の土井インターから高速を使うことにした。昼休憩後、12時32分、石鎚山SAを出発。道後温泉には13時23分到着。走行距離741.8キロ。迷わず道後温泉本館に直行し、神の湯に入った。入湯料410円。湯の中で、頭の中を去来したのは、無論「坊ちゃん」や漱石のことだった。湯上り後、3階の坊ちゃんの間にも立ち寄った。本館から出て来た時は、しかし、私の頭の中は漱石ではなく、山部赤人の歌で占められていた。明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに。歌の解釈は人により異なる。ただ言えることは、長歌と反歌とを一括りのものと読めば、これは恋歌ではないということだ。(赤人と道後温泉との関係については、万葉集中の「伊予温泉に至りて作る歌」を見る必要がある)。この「明日香河」は奈良ではなく、九州にある川だと面白い説を唱える研究者もいるが、今の私は急いでいるので、「川淀さらず立つ霧」から残念ながら立ち去るしかない。道後温泉に別れを告げたのは14時39分、1時間余りの短い滞在だった。今冷静に全体を振り返ってみると、ただ風呂にちょっと入るためにわざわざ往復1,330キロも走り、54,000円も使った馬鹿、とも言える。
松山からは松山高速自動車道を利用。せっかく遠くまで来たのだから、せめて讃岐うどんをもっと食べてから帰ろう。善通寺ICで出て、再び丸亀市に戻り、うどん屋を探した。何でも探すとなると無いもので、中々見つからない。丸亀城近辺をぐるぐると15分程度走り回り、ようやく発見。しっぽくうどんを注文。腹は膨れたが、心は満たされない。やむを得ず出発。高速自動車道に再度戻った。津田の松原SAで休憩。中に入るとうどん屋があったので、再度うどんを注文。確かに麺に弾力はある。心は、しかし、まだ満たされない。身体各所の痛みもあったので、その夜はそこの駐車場で泊まった。酒は飲まなかった。アルコール依存症であるとしても、まだ軽い方だな。そう思いながら、寝袋に潜り込んだ。
1月26日木曜日。朝7時5分起床。メーターを見ると、走行距離943.3キロ。あれこれ考えたが、結局、SAのうどん屋開店時刻10時まで待機することにした。せめて量だけは沢山食べて帰ろう。讃岐うどんのような、ねちこい卑しい根性の一時的出現だった。10時になるやいなや、肉うどんを注文。まあまあ。食器を返却し、辺りをぶらぶら歩いていると、壁面の「ここは四国最後のSA」という張り紙が目に入った。そうか。もう讃岐うどんは食べられないのか。この際だからと、もう一杯注文することにした。成程麺に粘りはある。この讃岐の粘りがどこまで続くか、どこでこの讃岐うどんの勢力が衰えるのか、この際行く先々のSAでうどんを食って調べてやろうか。そんな思いもチラリと浮かんだ。(この調査は、しかし、胃袋の拒否反応ですぐ挫折した。)
遅い朝食後、SA内の無料の茶を飲もうと機械の前でボタンを押していると、情報案内所の女性係員が今湯を準備しているところですと教えてくれた。若い娘のように見えた。「ここから小豆島は見えるんですか」と尋ねると、彼女は大きな窓ガラスのある場所に案内してくれて、「正面の、あの奥の大きな島が小豆島です。手前のあの小さな島は、・・・」と説明しだした。意外だった。尋ねなければ、100年の恥になるところだった。あんなに大きいのか。「小豆島」と言うよりは「大豆島」と言うべきだろう。津田の松原は名のごとく松で有名で、棟方志功も樹齢600年の根上がりの松に感激したそうだ。松を見に行く元気までは残っていなかったが、瀬戸内地方の島々をいずれまたゆっくりと回遊してみたいと思った。
26日午後6時半頃帰宅。走行距離1330.1キロ。交通費概算30,000円。宿泊費0円。持って行って役だったもの、長靴。持って行けば良かったもの、ハンマーとヘッドライト。しかし、人間、どんな旅であろうとも、最後の最後は、あるもので何とか乗り越える努力をするしかない。ないものはない。それが、人それぞれの具体的な一回きりの状況だ。雪も降れば、嵐も吹く。勝ち目があろうとなかろうと、人はおのおの自らの宿命と渡り合うだけだ。雪の上でなくても、車輪は空回りする。人生の大半は空回りだ。空回りの状況から旅は始まる。始めるべきだ。最小限、終わりにしてはいけない。
旅をすれば後悔が残る。航跡のような後悔だ。次に新たな航海が始まれば、それは澪標となるだろう。
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