白浜港に戻る「ふなうき号」に僕はイの一番に乗船した。来た時と同じ船、同じ船長だった。しばらくすると、浮き輪の女の子、その男友達、他の2組のカップルもやって来た。彼らは皆水着の上に服を着ていた。そう言えば、3人の女の子たちのうち2人は、来る時も服の下に水着らしい紐を肩の辺りに見せていたなあ。そう言えば、彼らは船浮港に到着するとすぐ迷いもせずに一直線にイダ浜に向かって行ったなあ。1時間50分しか続かないパラダイスに来たのは今回が初めてじゃなかったんだ。僕は頭の中のフィルムを逆回転させた。もう一組のカップルは、女が日本人で、男は外国人だった。優男で、僕より身長は低かった。彼らは英語で喋っていた。女は幸せなのか、特に明るい声調で話していた。喜びを感じながら一泳ぎした後で砂浜の上の丸太に腰を掛けて僕が休憩していた時だった。僕の右手の方に立っていた外国人の男は、沖の方で浮いている女友達に向かって「ベイビー!ベイビー!」と2、3回呼んだ。女は聞こえないのか、波と波の間で浮いたり沈んだりしている。「この男は泳げないのか。情けないな」と思って見ていると、男は自分たちの荷物から離れて海の中に入り、沖の方にいる女の方へ泳いで行った。何だ、荷物の見張りをしていたのか。ということは、今ここにいる人間の中でスイスイと泳げないのは僕と浮き輪の女の子だけなのか。最初から最後まで海に入ったきりの3組目のカップルは、一番遠い所まで行って、泳ぐどころか潜って魚と戯れているようだった。帰りたくない思いを引き摺るようにして、僕はイダ浜に背を向け、船浮港に戻った。
帰りの船の中でも、またしても浮き輪の女の子が僕の目に留まった。彼女は男友達の方に体を寄せ掛け、頻りに話していた。右手で箸を持っているような身振りをして、口をパクパクさせていた。似ている。前の職場のK嬢と似ている。顔と顔とが重なる。往路と同じく、僕はまたしても同じ思いに囚われた。彼女が口を開けてパクパクとバナナをしゃぶっているような空ろな映像が閃いた。
レンタカーをホテルニラカナイに返却した後、送迎バスに乗り込み、上原港に向かった。一旦石垣港に戻り、そこからすぐ小浜島行の船に乗り換える必要があった。石垣港がすべての拠点になっていた。どの島へ行くにも石垣港から放射状に伸びている航路に従い、行くのが主たる移動手段になっている。一見不便なようだが、水深、潮流、風向、利用客数等を考えると、それが多分合理的なのだろう。石垣港に着くと、小浜行の船が今にも出航しようとしていた。係員に切符をまだ買っていないが、乗ってもいいかと尋ねると、係員は切符を買ってきてくれと言った。のんびりするためにやって来たのに、南の島まで来て慌てふためき、数秒を争わなくてはならないなんて。なぜ次の船にしなかったのか。僕の頭の中はまだ南の島での生活リズムに切り替わっていなかった。
小浜島からはホテルの送迎バスに乗った。ホテルの名はヴィラハピラパナ。何とも覚えにくい名だ。赤瓦の、数十棟のヴィラが海の見える丘に立ち並び、敷地内には芝を綺麗に刈ったゴルフコースがあった。僕はゴルフをしない。テニスコートはなかった。ちょっと興醒めだった。夕食のことしか頭にはなかった。隣接のホテル、ラグーン・スイートヴィラ・アラマンダのレストランに行くことにした。こちらのレストランで食事をしても、勘定はいわゆる部屋付けに出来るという話だった。経営主体が同じなのだろう。たった一切れしか出なかったが、黒毛和牛の握り寿司が珍しかった。柔らかくて牛という感じではなかった。
9月21日金曜日、朝食はバイキング形式だった。質、量ともに西表島のニラカナイに劣っていた。朝食後、レンタサイクルを借りて島巡りをすることにした。いわゆるシュガーロード、サトウキビ畑の真ん中を貫く単なる1本の細長い道。そこを登って、集落の中心部を通り抜け、細崎(くばざき)港へ行った。遠浅の海で少しだけ泳いだ。海水浴客は他には一人もいなかった。何となくつまらない気分になり、来た道を引き返した。集落の中心部には小浜小中学校があった。全面が芝生で覆われた運動場ではちょうど運動会の予行演習が行われていた。見学することにした。紅白に別れてロープを奪い合う、全校児童による競技だった。シーソーに跨って、その様子を見ていると、児童たちの動きには俊敏さがなかった。亜熱帯での運動会だ、仕方あるまい。昼時だったのですぐ近くの小さな食堂「軽食シーサイド」という店へ入った。オリオンビールの生とゴーヤーチャンプルー定食を注文した。定食は500円程だった。安くてうまかった。常連も次々と入って来た。素顔の小浜島の一端を垣間見た思いだった。
昼食後、もう一度、運動会の予行演習を見に行った。エイサーの練習だ。6年生は無論のこと、1年生の動きも堂に入ったものだった。生き生きとした動きを見せていた。脈々と受け継がれてきた島人の民族の血があふれているようだった。
島を一周した後、ホテルに戻った。多分、この小浜島には僕はもう二度と行かないだろう。小浜島のビーチが良くないのではない。西表島の陸の孤島、船浮のイダ浜が良すぎたのだ。
最後の夜は、細崎の居酒屋「パイナップル」に行った。主人が海で捕ってきたシマアジのカルパッチョ、若主人が修行してきた北インドのカレーを食べた。県魚のグルクンの唐揚げも美味だった。おいしいものは、やはり自分の足で見つけ出すべきだ、思い出に残るから。
9月22日土曜日、旅行の最終日。朝一番で石垣島に行き、最後にもう一度そこの米原ビーチで泳ぐ予定を立てた。早起きし、7時にレストランに行き、朝食を食べていると、若者3人組が料理を持ってプール際のテーブルの方へ行った。外はまぶしい光がそそいでいた。彼らはテーブルに料理を置くと、今度は飲み物を取りに再び中に入って来た。プール際のテーブルには誰もいなくなった。と、間髪を入れず、どこから飛んで来たのか、烏が2羽、その料理を突っつきに来た。一羽はまんまとクロワッサンを咥えて飛んで行った。もう一羽は、僕が急いで追っ払ったので、ベーコンを卓上に落として逃げて行った。若者たちがパイナップルジュースなどを取って帰って来た。僕は彼らに近づき顛末を話した。
「係員に話して、料理を全部取り替えたほうがいいよ。衛生上良くないから。後で腹が痛くなったら困るよ」
若者の一人は、僕の顔を見て、「ありがとうございます」と言った。彼らは立ったまま、暫くテーブルの上の様子を見ていたが、結局は、そのまま椅子に腰掛け、まばゆい朝の光の中で料理を食べ始めた。いやぁ、考え方、感じ方は、人によって随分違うものだ。僕なら決して食べなかっただろう。
部屋に戻り、荷造りをして、正面玄関で小浜港行の送迎バスを待っていると、3人組の若者がそこへやって来た。部屋に戻るのだろう。「先ほどはありがとうございました」彼らは僕に再び礼を言った。その中の一人は、両手を鳥のように横に上げ、羽ばたくような身振りをして何か言っていた。満腹になり、いかにも満足した様子だった。僕は心の中で密かに彼らの幸運を祈った。
石垣港に戻ってすぐレンタカーを借りた。石垣空港発那覇行の飛行機は、午後3時50分だった。残された最後の自由時間は午後3時までだった。僕は米原ビーチを選んだ。海の家でマリンシューズと水中眼鏡とライフジャケットを借り、ソーセージを片手に海に入った。岸に近い所にも魚はたくさんいた。ソーセージを手で小さく千切りながら魚にやると、多くの魚が瞬く間に手の傍に集まって来た。何度経験しても感動を味わう。浜辺には透き通るような水着を着ている女性もいた。山もいいけど海もいい。
川平湾を望む小さなレストランでランチを食べた。ピーナッツで作ったという豆腐を食べたが、驚くほどの美味だった。ある旅行者は雑誌の中で、沖縄の主食は豆腐だと言った。発見が遅すぎた。今度沖縄に行く機会があれば、僕は迷わずに豆腐研究家になるだろう。
那覇からセントレアへ。後は無事に帰宅することだけが僕の願いだった。順調だった。午後10時前には自宅に着き、すべての旅行日程は終わった。僕の粗描もこれで終わることにする。人は誰でも自分の旅をするしかない。僕はこの紀行を柳田国男の紀行と比べる愚を犯す積もりはない。凡愚には凡愚の歌がある。南の果ての離れ小島の旅先にいようと、一枚のシーツの上に僕が求めたのは自分だけの居心地の良さだった。金銭で買える種類の幸福もあった。今回の旅の結論を、強いて出すとするならば、そういうことになる。そもそも買うという行為自体、一種の幸福でなくて何であろう。対象が切符であろうと、八重山そばであろうと、自由な時間であろうと。
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